アーガナージャの神話
これはアーガナージャがまだアーガナージャではなかった時代の話。
この頃にはまだ砂漠を挟んで大国が二つ、滅ぶことなく存在していた。
彼らの仲も良好であり、踏破商たちはその二つの大国を結ぶ隊商として、大活躍の時代だった。
そんなある日、踏破商たちはある依頼を受けた。
それは悪神の護衛。
鎖と魔術封印でがんじがらめにされたその悪神を無事に砂漠を越え、隣国へと届けるというのがその依頼だった。
何故、そんなことをするのか、その理由ははっきりとはわからない。
ただ運べと言うのがお上の命令だった。
なんでそんなことをするんでしょうか。
若い男が言った。
理由なんざどうでもいい、ただ運ぶ、それが俺たちの仕事だ。
頭領はそう答える。
随分とかっこを付けた物言いだが、頭領は悪神に繋がれた縄にすら近づこうとしなかった。
普段の仕事なら、率先して奴隷を率いるのは年長者だったが、今回の件ではその役目も若者に譲った。
奴隷。
その悪神とやらは確かに、物理的にも、魔術的にも強く縛られていることは素人目にもわかった。
だが、肝心のその姿はと言えば、ただの奴隷と見紛うほどであった。
人の姿であり、奴隷よりも幾分か肉付きが良く、流れるような長髪は奴隷と我らの違いよりも、大差なかったのである。
それは不思議な隊列であった。
普段ならば、大量の荷物を駄獣にひかせ、自らも荷を持ち汗まみれになりながらの行進である。
しかし、今回の隊列は十数人の踏破商の真ん中に縄で繋がれた悪神がただ一人。
険しい砂漠の景色と、空いた手のひらはひどく分不相応に思えた。
全ては順調であった。
神は暴れることなく、天気は快晴。
日差しは暑けれど、それも砂漠のただ中であるとするならば、良いものだった。
その全てが兆しだったのかもしれない。
それから数時間ほど後のこと、我らは大嵐に襲われた。
突然の暴風に視界は砂にまみれ、一寸先も見渡せない。
仲間の声は唸りによってかき消され、ただすぐそこにいるはずだという希望だけが我らを繋ぐ綱であった。
大嵐の真の恐ろしさはその視界を埋め尽くす砂塵にある。
もしその中に吹き飛ばされようものならたちまち砂漠のただ中で道を見失い、二度と町へは戻れない。
そのため、我らは命を懸け、必死に地の砂を掴んでいるしかなかった。
しかし頼りのない砂を掴むことは敵わず、我らは幾度となく風に飛ばされる。
そんな時だった。
「テンペスト」
凛としたその声が空を割いた。
それは比喩などではない。
本当に空が割れたのだ。
爽やかな風だった。
強くもあった。
たちまちにして、その風は砂塵を退け、我らを優しく包み込んだ。
そして、砂漠に残ったのは嘘のような快晴だった。
口の中に残る細粒の感触だけが、それが嘘ではないことを示していた。
周りには少し距離はあれど、隊商の皆々が呆然と空を見上げていた。
助かったのだ。
そう思った時、仲間が叫んだ。
いないと、どこだと、そう声高に叫ぶのは父親であった。
その息子は今回の隊商が初めての参加だった。
錯乱するように顔を振り、父が子の名を何度も叫ぶ。
しかし、それに答えるものはいない。
皆、理解していた。
嵐の後に消えた人物に二度と出会うことはないことを。
その時だった。
すっと、悪神が指を指す。
音もなく、しかし、その場の全員がその仕草を見た。
辺りに広がるのは困惑だった。
だが、父親だけは違った。父親は砂に足を取られども勢い衰えず、這うようにして神へと縋った。
そこにいるのか、幾度も問いただすが、神は答えず、ただ指を微動だにしない。
じきに父親は痺れを切らし、悪神の指す先へと走り出した。
待て、誰かが言った。しかし父親は止まらない。
父親へと掛けられた言葉はそれが最後だった。止まらないことは全員が理解していた。
どうしますか。
誰かが言った。
我ら、あの父親と運命を共にするか。
問われた頭領は考えた。
そも、我らすでに大嵐にて道を違えている。
この場に残ったとて、道を見つけられるとは限らない。
そして、もう一つ、これが何よりも大きな理由だったが、頭領はあの父親に借りと言うべき多大な恩義があった。
後を追う。
その一言によって、我ら、運命を共にすることとなった。
神の指は揺らぐことなく、地平を指差し、数刻。
その先にうずくまる息子を見つけられたのは奇跡と言うべきほかなかった。
父親は息子をひとしきり抱きしめた後、背を向け歩み始める。
そして神の御前で膝をついた。
何度も、何度も、悪神へと感謝の言葉を述べる父親。
その言葉を止めるものは誰一人存在しなかった。
只、その父親が悪神を覆う鎖に手を掛けた際は周りの人間が大慌てで羽交い絞めにしていたが。
こうして、息子は救われた。
しかし、急を脱したわけではない。
我らは道を違えたのである。
一刻も早く、道を見つけなくてはならない。
ひとまずは、中継地点に度々利用されるあのオアシスを見つけることが最善手であろう。
それは皆の総意だった。しかし、如何せんどちらに進めば良いかは皆目見当もつかない。
各々が己の経験と勘に基づいて地平線へと指を指す。
しかし、それは乾いた地の裂け目のように、四方八方を向いていた。
そんな中、再び、悪神に助力を請おうとする者が現れたのは不思議ではない。
彼らは悪神の前に立ち、オアシスを指差すよう頼んだが、悪神はただ顔を背けた。
それを見て、今度は顔の背けた方向にオアシスがあると彼らは声高々に言い張ったが、言い張るたびに悪神の顔がふりふりと左右へ交互に背けられるので、それは違うんじゃないかと言うことになった。
仕方なく、我らは砂漠の掟に従い、最も運のよい者の方向を信じるために、くじにて方向を定めた。
少しの叫喚の末、争いなく道は決まった。
その方向へと進み、日が沈んで、また日が昇る。
その間、我らは少ない水を全員で分配し、何とか、生きながらえようと必死だった。
しかし、砂漠に慈悲はない。
空だと、誰もが聞きたくないと願っていた言葉が隊商に響く。
と同時に絶望が我らを包む。
各々に分け与えられた水は、生きるためであって、喉を潤すためではない。
皆の喉はすでに乾ききっていた。
この喉が閉まる前に、我らはオアシスへとたどり着けるのだろうか、否、それは難しいだろう――。
誰もがそう思ったその時だった。
じゃあっと音がして、誰もが振り返った。
するとそこには全身から水を滝のように噴出させている悪神の姿があった。
その姿は有り余る水によってできた水柱に閉じ込められてはいたが、瞳は真っ直ぐに我らを見据えている。
こうして、我らは再び、生きながらえることができた。
水を得たことで、我らに与えられた時間は飛躍的に伸びた。
しかし、それでも期限が定められていることには変わりない。
我らは進んだ。時にはくじにて方向を変え、また進んだ。
途中、魔物に出くわした。
それはこの死の大地で唯一生きながら得ることの許された、化け物だった。
遠目には干からびた獣の骸が後ろ足で立ち上がったように見える。
薄汚れ、剥げた表皮には乾いた泥と砂がへばりつき、それをぱらぱらとふるい落としながら、もだえるようにそれはこちらへと駆ける。
我らは剣を取った。
陣を整え、正中に剣を置く。
誰かが化け物へと刃を押し当てる。
すると誰かが凶爪に倒れた。
そのたびに声が響く。
「ルミナス」
光の加護。
天より注がれし柔らかな光は一瞬にして、血を止め、傷を塞ぎ、手足を繋ぎ合わせた。
一人残らず加護を受けるころ、化け物は地に伏せた。
悪神の加護により、我ら一人もかけることなく戦いを終え先へ進む。
そんなことが幾度となく繰り返された。
悪神は我らの傷を癒し、仲間を引き合わせ、嵐を跳ね除けた。
その果てに我らはたどり着く。
それはまるで砂の中の輝石。
日の光を反射して、てらてらと揺れるのは水面。
周りにはヤシの木が立ち並び、青々と茂る。
探し求めていた物だった。
我ら、膝をつく。
湖面に背を向け、我らが神へと膝をつく。
頭領が言った。
あなたは悪神などではない。
頭領は剣を振り上げる。
ざりんと音がして、鎖が絶ち切れた
「何故」
神が言った。
「国を裏切り、私の封印を解けば、二度と国へは戻れません」
応える。
我ら、砂漠の民、あなたと共にあります。
応えて、そして倒れる。
ばたりと、ばたりと、皆が倒れる。
とうに期限は過ぎていた。
水を得たからと言って、食料も無しに何日も行進はできない。
故に、すでに我らの死は決まっていた。
神よ、あなたであれば、この砂漠を抜けられましょう。
誰かが言った。
我ら、この地でずっとお慕いしております。
誰かが言った。
このご恩は決して忘れません。
誰かが言った。
誰かが言った。
誰かが言った――。
「最後に、奇跡を見せましょう」
そう言って、神は倒れ伏した仲間の腰からするりと剣を抜く。
そして。
一直線に自らの喉を掻ききった。
溢れるは血潮。赤々とした輝くような血潮。
躊躇はなく、神は息をするように、一閃を引いた。
ぽたりと砂に血が絡む。
するとどうしたことか。
ひょっこりと双葉が砂の中から萌え出づる。
双葉だけではない。
砂が緑の苔に覆われる。
双葉は大木へと成長し。
大木は栄え、花が咲く。
花は実となりて散り。
鮮やかな小鳥が、枝に止まる。
蛇がその小鳥に歯牙を向き。
蟻が流れ出たその血を飲む。
その隙に栗鼠が、その実を鷲掴み。
蜥蜴は太陽を浴びる。
鹿が、子をなして草葉の影へと身を隠し。
熊が大木にて爪を研ぐ。
ぽたりぽたりと垂れ落ちる、神の血潮に萌えいづる。
あっという間にそこは森になった。この死の大地のただ中に、森ができたのだ。
これを奇跡と言わずして、何といおう。
神様!
そう声をかける。
しかし、そこに神は居らず。
代わりに首元から血を絶えず垂れ流す竜がいた。
大きな大きな竜。
首から垂れる血は、遥か天空から降り注ぎ、その半ばで赤を薄れさせ、清水へと変わった。
竜の目は開かない。
我らの糧になるために、神は竜となり、血潮を流す。
人の身では敵わない、多量の血潮を地に流す。
木漏れ日の中、我ら、神殺しの罪により生きながらえる。
未来永劫生きながらえる。




