大きなさかな
石畳が揺れている。吐く息すら呑み込めないまま、ボクは目の前を跳ねる白い帽子のてっぺんだけを見つめていた。
ボクの全速力でやっと、ほんの少しだけお師匠様より速く走れるみたいで。
そのおかげでボクはお師匠様に追いついて、その疑問を伝えることができた。
「お師匠様!なんで、そんなに、急いで――」
「着いたわ!」
ピタッと、お師匠様はその場に立ち止まる。
「べふっ!」
盛大に顔から突っ込むボク。
「あら、メリアちゃん大丈夫?」
「お師匠様が、柔らかくて、助かったよ」
「メリアちゃん、何か変なこと言ってない?」
じとーっとした目でそう言いながらも、お師匠様はボクの額に手を当てる。
「ヒール――」
「わっ」
ぼわあっと額にやわらかな熱を感じたと思うと、すっかり衝突の痛みは消え去った。
「ありがとうお師匠様、ヒールって息切れも直せるんだね」
「ヒールは万能だからね、とりあえず唱え得って感じ――っとそんな場合じゃなかったんだわ」
「そうだよ、お師匠様、なんでそんなに急いでたのか、そろそろボクに教えてくれてもいいんじゃない?」
「あら、説明してなかったかしら、今日は一年に一度の豊漁祭の日なの」
「お祭り!だからこんなに海岸に人が集まってるんだ」
昼間の海岸も人でいっぱいだったけど、それとは比べ物にならないくらいの人が、目の前を闊歩していた。
みんな手に手に美味しそうな串焼きとか骨付き肉を持っていてすごく楽しそうで、ボクの大好きなお祭りはエルネスカでも変わらずに喧騒が輝いていた。
「お師匠様!豊漁祭って普通のお祭りとは違うの?」
「豊漁祭はね、その字のごとく、お魚がたくさん捕れますようにって神様に願うお祭りなの、儀式を通じて神様にいっぱい魚を取らせてくださいってお願いをするのが豊漁祭で、豊漁祭自体はいろんな町や国で行われているんだけど、ここエルネスカの豊漁祭は一味違うの、なんてったって、エルネスカの人々にとっての神は――」
「ヴガドだもんね!」
「そうよ、メリアちゃん!そして豊漁祭にはもう一つ目的があって、エルネスカの儀式ではそっちの意味合いの方が強いかな」
「もう一つの目的?」
「それは直接見た方が、いいかもね!」
そう言ってお師匠様はボクの両肩を掴む。
「わわっ」
そして一息にお師匠様はボクを持ち上げた。
「わあっ!」
お師匠様が腕を伸ばすとともに歩く人たちの頭を越えた視界。
その先には夜の海があって、海岸にはおっきな焚火がしてあった。
「あのおっきな焚火がもう一つの目的ってやつ?」
「え?もっと他に一目でわかるようなものがあるはずなんだけど」
「そうなの?」
お師匠様から視線を外してもう一度先を見る。
でも、お師匠様の言うような一目でわかるようなものは見つからなかった。
「うーん、わかんないなあ」
「ほんとにー?」
お師匠様はいたずらっぽくそう言うと伸びきった腕を折り曲げ、ボクを地面に下ろす。
そしてぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。
一瞬だけ雑踏の頂上を越えるお師匠様。
それを何度か繰り返す。
そして。
「ない、ないわ、もう終わってしまったのかしら……私は見逃してしまったの?」
そう誰に言うでもなく零すとがっくりとうなだれる。
「お師匠様、大丈夫だよ、きっとこれから始まるんだよ」
「でも魚幕の儀式はすっごく手間がかかるから、もう片付けてしまったんだわ」
「魚幕の儀式?」
「ああ、メリアちゃんにはまだ説明してなかったわね、ここエルネスカでは一年に一度の豊漁祭で、その日、村の漁師が総出で漁をして、その捕まえた魚を波打ち際ぞいに張った縄に括り付けて作った魚の幕で海を隔てるの、そして最後、耐火の魔法をかけた縄を燃やして魚幕を全部焼き魚にしてそれを村人や観光客に振る舞うのよ、それが魚幕の儀式、そして私がこの日にエルネスカへと来た目的よ……」
「えー、そんなの見えなかったけどなー」
「きっと終わってしまったんだわ、私、燃える縄を見るために今日まで頑張ってきたのに、めそめそ」
擬態語を口に出してうなだれるお師匠様を見て、ボクは気付く。
「……お師匠様、たぶん、いや!絶対!その魚幕の儀式は終わってなんかいないよ!」
「メリアちゃん?」
「魚幕の儀式では最後に焼き魚をみんなに配るんだよね」
「そうだけど……それがどうしたの?」
「ふっふっふ……」
ボクは存分にもったいを付ける。
「だってさ、ここには焼き魚の匂いなんて全然しないよ!ボクが焼き魚の気配を間違えるわけない、でしょお師匠様!」
その僕の言葉にお師匠様はハッと顔を上げる。
「た、確かに、メリアちゃんが魚のことで間違えるわけがないわ!」
「と言うことはだよ?きっと、魚幕の儀式は遅れてるだけなんだよ、これは間違いないね!」
「すごいわ、メリアちゃん!でも、もうとっくに儀式は始まっているはずの時間なのだけど、何かあったのかしら――」
お師匠様が疑問を口にしたその瞬間だった。
「すまねえ!どいてくだせえ!!」
目の前の群衆が割れる。
するとその先から青い法被を着た男たちがどたどたと雪崩のように現れた。
法被には勇ましくも、人間の姿とはかけ離れた異形の顔が描かれている。
「あっ!あれ!エルネスカ伝統のヴガド法被!まさか、こんなところで見られるなんて!」
「ん?その声は……おい、おめえら、道開けてくれ!」
その中に一瞬だけ聞こえたどこかで聞いた声。
法被の雪崩はボクたちの後方へと流れていく、その中で一人だけ、流れに逆らいこちらへと向かってくる法被がいた。
「あっ!あなたは!」
「断崖遺跡の受付のおじいさん!」
「おうよ!受付のじいさんよ!」
見覚えのある顔が青い法被に包まれ手を上げる。
「たまたま聞き覚えのある声が聞こえたからな、ちょっと気になっ――」
「おじいさん!法被、法被見せてもらってもいいですか!!」
「ああ、それはいいが……」
その返事にお師匠様は一歩お爺さんに近づくと、とんでもないスピードでしゃがみ込み、法被を眼前に捕らえる。
「……この様子じゃ、お前たちは魚幕の儀式を見に来たんじゃなさそうだな」
「ううん、ボクたちは魚幕の儀式を見に来たんだよ、あっそういえば、おじいさん、なんで魚幕の儀式がやってないか知らない?」
「もちろん、知ってるさ……実はな、今日は年に一度あるかないかって不良でな、漁師どもは朝から今まで、竿と網を振ってるってのに魚がまったく足りやしねえんだ、これじゃあ、魚幕の儀式はできやしねえ」
「え!今も魚捕ってるの!?夜の海は危ないよ!」
「仮にも毎日海を相手にしている男たちだ、そんなことは百も承知、でも引けない時ってのが男にはある」
「そうなんだ、男の人って大変だね……それでおじいさんはそんなに急いでどこに行くの?」
「決まってるだろう、俺らも魚を取りに行くのさ、引退こそしたが、まだまだ若いもんには負けねえさ」
「え?でも、海とは逆方向じゃない?」
その答えにお爺さんに豪快に笑う。
「はっはっは!流石に俺も素手じゃ魚は捕れねえさ、だから銛を取りに行くんだよ」
「銛を?……ってことはもしかして」
「そうよ、素潜りで魚を取りに行くのさ、今の若いもんは網だの竿だので魚を取ってるが俺らの若いころはこの素潜り漁だったんだ」
腕を曲げ力こぶを見せつけるお爺さん。たしかにおっきくてすごいけど!
「む、無茶だよ、こんなに真っ暗なのに素潜り!?おじいさん海に流されちゃうよ!」
「悪いが、男には引けねえ時があるんでな、それに村の引退した男たち全員で行くんだ、俺だけ一人待ってはられねえ」
お爺さんの後ろ、法被の雪崩はまだ続いている。
よく見ると確かに走っている男たちは皆、時の流れに磨かれ、幾重のしわの間に鈍い光を放っていた。
「……話は聞かせてもらいました」
すっくとお師匠様は立ち上がる。
「おわ!」
目の前にお師匠様の顔が現れ、お爺さんは声を上げる。
「つまり、魚さえあれば、おじいさんは漁に行かなくて済むし、魚幕の儀式も始まる、そう言うことですね」
「あ、ああ、そうだが?」
「……それなら私になんとかできるかもしれません」
そう言ってお師匠様はボクに振り返る。
「メリアちゃん、眼を借りるわね」
「うん!いいよ!」
よくわからないけど、とりあえずおっけー!
「"ストールン・アイ"」
そう唱えてお師匠様はボクの頭に触れる。
声と共にぼわっと両目が暖かくなるのを感じる。
「次は……おじいさん、メリアちゃんを肩車してくれますか?」
「おう!」
「わわっ!」
ひょいっとボクは持ち上げられると肩に両足を置く。
仁王立ちの先、視界には真っ黒な海。
そしてそこに動いている魚がありありと見えた。
「すごいわ、メリアちゃん、本当に海にいる魚が見えるのね」
「当たり前でしょ、ボク、イルカなんだからさ!」
「メリアちゃん、ありがとう、これで魚の場所はわかったわ――」
どういたしましてと、そうボクが返す前に。
お師匠様は両手を前へと向けた。
「"出でよ、惹の杖"」
その掛け声に呼応して。
小さな光がお師匠様の手へと集まる。
それはどんどん大きな光になって、こねるようにして、長く細く光が形作られていく。
そして、ぱっと光がほどけるとお師匠様の手には杖が握られていた。
先端の大きな水晶の中に星空のように細かな光がくるくると渦を巻くそれは。
それはお師匠様の本気の合図だった。
「メリアちゃん、行くわよ」
「うん?」
「"天蓋"」
掛け声と同時にボクの眼が勝手に海の中を泳ぐ魚に吸い付いていく。
視界の右端から左へ、目まぐるしい速度でボクに見つめられた魚は海を抜け。
夜空へと引き寄せられた。
「な、なんだ、あれは!」
誰かが空を見上げたのだろう、その声に群衆が異変に気付く。
ざわざわとどよめくそれは、波紋のように広がり、人々は驚きを口にし空を見た。
その間にも魚は昇り続けていく。大小さまざまな魚はびちびちと暴れながら空に吸い寄せられると途端に動きをぴたりと止めた。
それはまるで空へ貼り付けにされているようだった。
「"私の元に"」
夜空を埋める星のように、青々としたその鱗を輝かせた魚たちは呼応してゆっくりと陸へと向かい始める。
「……これはたまげたな」
「これで、問題はすべて解決ですね!魚幕の儀式もできますよね!」
ぴょこっとお師匠様は相好を崩し振り返る。
「ああ、あれだけの魚、十分すぎるくらいだ」
お爺さんは空を滑る魚を見て、独り言ちた。
「お師匠様、すごすぎだよ!」
「あら、メリアちゃん、そんなに褒めなくてもー」
「あれだけ、魚がいたらお魚の中を泳げるね!」
「そうね!私は、遠慮しておくけど」
「え?」
「……お二方、ちょっといいか」
「どうしたの、おじいさん?」
「あの魚、どこまで行くんだ?」
お爺さんの目線の先、魚の群れ(夜空バージョン)はすでに砂浜を素通りしている。
「あのまま言ったら、断崖遺跡にぶつかっちまうんじゃないか」
はらはらと口調に滲ませてお爺さんは問う。
「ああ、それは心配しなくても大丈夫ですよ」
それにお師匠様は何でもないように返した。
「さっき、ちゃんと場所を指定しましたから、"私の元に"って!」
その言葉にボクとお爺さんは顔を見合わせる。
気付けば、魚たちはボクたちの頭上にいた。
三人は誰ともなく空を見る。
「あれ、あんなに、大きな魚いたかしら、それに、どんどん大きくなってるような――」
お師匠様の言う通り、魚は急激に大きくなっている、って言うかこれって――
「お師匠様!落ちてる!落ちてきてるよ!お師匠様の元に魚が全部きてるよ!」
「うわあ!この歳まで生きて、魚に潰されて俺は死ぬのか!」
「ぎゃー!!!」
ボク、お爺さん、そして観光客たちの絶叫でお師匠様にようやく届く。
「や、やば――"フェザー・ディセント"!!間に合って!!!」
ぴかりとその声に呼応して杖がまばゆい光を放った瞬間、ボクの意識は魚の中へと沈んでいった。




