第1.6章 - 荒廃した人々の叫び
土の道は、まるでゆがんだ帯のように、みすぼらしい荷車の前へと続いていた。
ゆがんだ釘でむりやり止められた車輪は、大きな石を踏むたびにギシギシと悲鳴をあげる。
歩きづめで疲れ切り、そして三兄妹の性格を読み取ろうとして完全にあきらめたジェイは、荷車の板の上に寝転んでしまった。
揺れが、いつのまにか子守歌のように彼を眠りへ引きずり込む。
暗い。
暗い。
暗い。
すべてが暗かった。
ジェイは自分の手も、足も、いや身体の存在すら感じない。
ただ息苦しいほどの闇が広がり、音もなく沈んでいる――そのとき。
遠くに赤い瞬きが浮かんだ。
火。
だが前の夢に出てきた小さな炎ではない。
もっと大きく、もっと鮮やかだ。
何もない空間の真ん中で燃える焚き火が、乾いた地面の狭い円だけを照らしていた。
ジェイは眉をひそめる。
「またこれかよ…」
つぶやいた声は、どこにも反響しなかった。
炎は、まるで反応するようにゆらりと揺れた。
そして――
「ジェイ、起きて! ジェイ! ねぇ!」
氷水をぶっかけられたような声が響いた。
ジェイははっと目を開け、飛び起きる。
荷車の端に、猫姫が耳を立てながら身を乗り出していた。
「やっと起きた。さっきすごく変な動きしてたよ。死ぬのかと思った。」
ジェイは顔を押さえ、息を整えようとした。
「死んでない…たぶん。勝手に見せられた夢だよ。いつも通り。」
身体を起こそうとした瞬間、背中がボキッと枝のように鳴る。
「最高だ。板の上で寝るとか…背骨クラッシャーだな。天国の医者もオススメしないだろこれ。」
ネコヒメは冗談を理解できなかったらしく、無反応のままだったが、特に気にした様子もない。
空はすでに紫色に染まり、太陽は丘の向こうへ沈みつつあった。
ジェイは首をさすりながら体を起こす。
遠く――家々の間に暖かい灯りがともりはじめていた。
「なあ、あれって目的地? それとも背中の痛みで見えてる幻想?」
ネコヒメがうなずく。
「村だよ。もうすぐ着く。」
荷車は数分ほど進み、村の最初の家の前で止まった。
とても小さな村だった。百人もいれば多い方だろう…
たぶん公式住民に数えていいのなら、ニワトリ数羽も含まれるかもしれない。
ネコティナとネコファルの子ども二人は、軽やかに荷車から飛び降りた。
その動きに比べ、ジェイの降り方はひどかった。足を滑らせかける。
「はいはい、完璧な着地でしたよ。拍手が聞こえないのは世界の不具合だ。」
シャツを直しながらぼやくジェイに、ネコティナが手を振った。
「こっち。早く。木みたいに突っ立ってないで。」
「おい、俺はもっと上品な丸太だぞ?」
ジェイは彼女の後ろを歩きながら続けた。
「二つに割れかけてる丸太だけどな。」
もちろん、ネコティナは反応しない。
細い土道の両側に古い家が並び、窓からはあたたかな光が漏れていた。夜風には家庭料理のにおいが混じっている。
ジェイは深く息を吐いた。
「少なくとも、さっき死にかけた路地よりマシだな。俺の生活レベル、上がったわ。」
すると、前を歩くネコファルが振り向き、妙に真面目な顔で言った。
「へんなやつ。」
「どうも、性格評論家くん。がんばって評価に応えるよ。」
ネコヒメが小さく笑った。ほんの少しだけだが、ジェイにはわかった。
“ちゃんと伝わった人が一人はいた”…
そう思うと、気分が少しだけ軽くなった。
ネコティナは止まらず、そのまま村の奥へ進む。
「ジェイ。」
彼女は振り返らずに言った。
「早く来て。見せたいものがある。」
ジェイは眉を上げる。
「良いもの? それとも俺を殺しに来るもの? 最近その可能性五分五分なんだけど。」
ネコティナは何も言わず歩き続けた。
ジェイはつばを飲み込みながらついていく。
「よし。今回も未知へ。いつも通りだな。」
こうして、三人の獣人兄妹に半分ペット、半分お荷物として扱われながら、ジェイは村の夜の中へ進んでいった。
そして、彼の夢に出てくる“火”は――
また彼を見つめていた。
ジェイは三人の子どもたちの後ろを歩きながら、頭の中で別の場所に意識が飛んでいた。
(またあの夢かよ……。俺、今度は消防士にでも転職したのか? なんで毎回“火”なんだよ。)
腕にはまだ、夢の中で感じた熱が残っている気がした。
ただの夢だとわかっていても、妙にリアルだった。
考えごとに沈みすぎて、ジェイは前を歩くネコティナにそのままぶつかりかけた。
彼女は突然立ち止まっていた。
彼女は細い腕を上げ、右側の古い建物を指さす。
「ここ。もう着いた。」
ジェイは顔を上げ――そして苦笑した。
いや、“笑った”というより、完全に引きつった。
「こ、このお城……ってことか? うん……まあ……」
城ではない。
家ですらない。
廃墟だった。
壁は割れ、木材はねじれ、屋根には大きな穴がいくつも空いている。
さっきまで見てきたボロ家でさえ、ここよりは百万倍マシだった。
ジェイは地面が抜けるのではと疑って、そろりそろりと足を進めた。
中に入ると――さらにひどい。
テーブルもない。
椅子もない。
家具という家具が存在しない。
あるのは、ホコリと割れた板、そして夜風が吹き抜ける穴だらけの壁。
(……冗談だろ? これ、絶対誰かのドッキリだよな? な?)
だがネコティナはまじめな表情で、別の部屋へ来いと手招きした。
ジェイはごくりとつばを飲み、後ろについていく。
その部屋には、ベッドがひとつだけあった。
古く、ゆがみ、ボロボロで、何度も当て布で直されている。
その上に――老人が横たわっていた。
呼吸は重く、肌は灰色に近い。
彼にも子どもたちと同じ、獣人の耳と尾があったが、身体はあまりにも弱々しく、触れたら壊れそうだった。
ジェイは条件反射で状況を観察する。
(はい、ベッドは三百年前からのアンティーク……部屋は空っぽ……おじいちゃんは病院送り寸前……まさかの年金生活者。)
ネコティナは心配そうに尾を垂らし、そっと老人に近づく。
「お父さん……帰ってきたよ。」
ジェイは瞬きをした。
(……父さん!? このおじいちゃんが? どう見ても“孫とひ孫”の年齢差だろ!? 俺だけおかしいのか?)
老人はゆっくり目を開き、ジェイを見ると、かすかに眉を寄せた。
「そ、その若者は……? ずいぶん……奇妙な服装だな……」
ジェイのこめかみがピクッと動く。
(悪かったな! この世界のドレスコード知らずに転生した俺が悪いんだろ!)
ネコティナは静かに説明し、ジェイがどうやって助けてくれたかを伝えた。
老人は苦しそうに、しかし確かに微笑む。
「……ありがとう……娘を……助けてくれて……」
ジェイは内心ため息をつく。
(頼むから、これクエスト報酬ありのやつであってくれ。金でも武器でもいい。マジで頼む。)
そう考えていたまさにそのとき――
外から、叫び声が上がった。
絶望の叫び。
喉を裂く悲鳴。
そして……獣のような低い咆哮。
ネコヒメ、ネコティナ、ネコファルの三人が同時に耳を立てた。
ジェイの背筋を冷たいものが走る。
なにかが起きている。
良くないものが。
老人は力をふりしぼり、ジェイの目を見つめた。
「娘を……頼む……あとは……君に……」
ジェイは固まった。
(は? は? なんで俺!? 子どもどころか恋人すらいなかった人生だぞ!? 初対面の俺にそんな重大任務渡す!?)
返事をする前に、ネコヒメが部屋に飛び込んできた。
「急いで! 今すぐ行かないと!」
その声には恐怖と焦りが混ざっていた。
ネコティナは父の手を握り、小さく頭を下げる。
ネコファルも唇を震わせながらまねをした。
だがネコヒメだけは、最後まで涙を見せなかった。
三人は外へ走り出す。
ジェイもついていこうとした瞬間――
床が崩れた。
「は!? うおっ――!」
腐った板が砕け、ジェイの足が半分までめり込む。
必死に抜き出し、よろけながら三人を追いかける。
外の空気は――血のにおいがした。
そして見た。
村の中央。
倒れた家々。
火の明かり。
その中に――六体の化け物。
姿はライオンに近い。
だが角が生え、体格は異様に大きく、牙は槍のように長い。
ジェイが最初にこの世界で遭遇した怪物と同じ種類だった。
そして彼らは村人を喰っていた。
一人の少年が、獣の顎に噛まれ、空中で足をばたつかせ――
数秒後には動かなくなる。
ジェイは吐き気をこらえ、口をふさぐ。
血が地面を染める。
叫び声は短く、すぐ静かになる。
次々と倒れていく村人たち。
「ジェイ! 遊んでる場合じゃない!」
ネコヒメが荷車のそばから叫ぶ。
ジェイは体を震わせながら走り出し、倒れた家々を避けて進む。
だが――
荷車の後ろにそれはいた。
大きく、黒く、まがった影。
森で見たあの怪物の“猿”だった。
一体だけ。
だがその存在感は圧倒的だった。
猿は腕を振り下ろし、馬を真っ二つにした。
血が車に飛び散る。
ネコヒメは動けなくなり、震える手で短剣を構えている。
ジェイは慌てて腰のホルスターからグロックを抜き、両手で構える。
(やれるのか俺!? 外したらどうすんだ!? 他の奴らが来たら終わりだろ!! くそっ、考えろ、考えろジェイ!!)
猿がネコヒメへ飛びかかろうとした――
その前に、小さな影が立ちはだかった。
ネコティナ。
手に“あの石”――
スコルピオンの心臓を握りしめている。
震える腕で、彼女は石を前に突き出し――
逆再生されたような奇妙な発音で詠唱した。
「odivnI ed aicnel」
空気が揺れ、渦を巻き、圧縮され――
風の槍が放たれた。
ジェイはそれをはっきり見ていた。
風のやりが鋭い音をひびかせて飛び、
バターのようにやわらかくモンスターのむねをつらぬいた。
サルのモンスターは一秒だけうごきを止め、ふるえ、
そのままうしろへたおれて、もううごかなかった。
白い土ほこりがふわりと上がる。
ジェイは、ほっとしたような、ショックのような、
くずれた息をついた。
「神…やっといいのが…」と、かおを手でおおいながらつぶやいた。
でもまたネコティナのほうをふり向くと、
彼女はよろよろと立ち、
まるで大きなビルをかついでいるみたいに息をしていた。
足はふるえ、目はとじそうで、
肌の色もすぐに青白くなっていく。
ジェイはあわてて、彼女をだき上げた。
「どうした!? おい、息しろ! 何が起きてるんだ!」
ネコティナはジェイのむねにおでこをあて、
はあ、はあと息をしながら言った。
「わたし…サソリの心…使える…でも…オーブ…つかいすぎる…わたしには…多すぎ…」
ジェイはくやしそうに顔をゆがめた。
「最悪だ…使ったら死ぬタイプの魔法かよ。ほんとクソ…」
その時だった。
**
「ネコファルーーーッ!!」
**
ネコヒメの声が空気をさくようにひびいた。
ジェイは反射的にふり向いた。
そして――見た。
ネコファルが、
ライオンのモンスターに“生きたまま”くわれていた。
子どもオオカミの小さな体が、
モンスターのあごに引きちぎられながらもがいている。
ライオンの口には血。
地面にも血。
ネコファルの手には、必死にあごを押し返そうとする力のない動き。
足はけいれんし、声にならない悲鳴がもれた。
ジェイはその場で吐きそうになった。
口を手でおさえた。
「神…無理…吐く…」と心の中で。
ネコティナの目をふさごうとしたが――
もう、おそかった。
彼女はすでに見てしまっていた。
「ネコファル! ネコファル! ネコファルーーーッ!!」
こえがこわれ、のどがやぶれるほどに叫ぶ。
涙が止まらず落ちていく。
ジェイは何か言いたかった。
でも言葉が出なかった。
その時、またぬるい“ぐちゃっ”という音が聞こえた。
ジェイはゆっくりとふり返った。
ネコヒメが、もう一体のサルにくわれていた。
モンスターはネコヒメの体をつかみ、
大きなキバで肩をかみくだいていた。
血が泉のようにふき出し、地面とモンスターの顔をそめる。
ネコヒメは手を弟たちに向けてのばし、
目には恐怖とあきらめがまざっていた。
そして――からだは、くやぶられた人形のように力をなくした。
ジェイの顔はゆがみ、くずれた。
胃の奥がきしむほど苦しくなる。
「うそ…だろ…」とかすれ声でつぶやく。
モンスターたちは
ゆっくりとジェイとネコティナのほうを向いた。
ネコティナは泣きながら姉の名をよんだ。
その声が――致命的なミスだった。
ライオンたちの目が、
二人をまっすぐにとらえた。
ジェイはすぐに理解した。
戦えない。
助けられない。
生き残るには――走るしかない。
「行くぞ!」
ジェイはネコティナを胸にだきしめて走り出した。
近くの家へむかって体当たりする。
ぶよぶよにくさったドアは大きな音をたててこわれ、
ジェイはふらつきながら中へ入り、
ネコティナをすみへ置いた。
「かくれろ。ここから動くな。時間をかせぐ。」
「ひとりにしないで…!」
ネコティナは服を強くつかみ、泣きながら言う。
ジェイは、つかれたような、でもあたたかい笑みを見せ、
彼女の頭に手をそっとのせた。
二つの耳のあいだを軽くなでる。
「大丈夫だ。」
その言葉は、
ネコティナの胸にある母の記憶をよみがえらせた。
おなじ笑顔。
おなじ言葉。
ジェイは家を出た。
外には三体のモンスターがいた。
口にはまだ赤い血がついている。
ジェイは気づいた。
自分の手にあった。
黒い拳銃――グロック。
いつ出したのか分からない。
震える手で弾倉を入れかえた。
そして、撃ちまくった。
「死ね! 死ねよ、このクソども!!」
弾丸はモンスターの体にはね返り、
時々は肉に入り、
それでも相手は多すぎた。
ジェイにはスキだらけ。
これではすぐにやられる。
でも――ネコティナが生きればいい。
左から、うなり声。
もう、遅い。
ライオンが飛びかかり、
ジェイは地面にたたきつけられた。
息がぬける。
モンスターはジェイのタクティカルベストをかみ、
ぬいぐるみのようにふり回した。
ベストはまだもっている――今のところ。
だが、ライオンはついにそれを引きちぎり、
ジェイのむねがむき出しになった。
キバが首へ――ふり下ろされる。
その瞬間――
世界は止まった。
色がなくなった。
音も消えた。
風も、動きも、何もかも。
まるで世界そのものが息をやめたようだった。




