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第3.4章 - アイカーの影

森を満たしていた沈黙は、今にも崩れ落ちそうなほど重かった。

倒れ込むジェイは荒い息を吐きながら、かすむ視界の中でゆっくり顔を上げた。


その時だった。

痛みより深く、叫びより鋭い“気配”が空気を満たした。


まるで世界そのものが、誰かの到来を告げるために呼吸を止めたかのように。


雲を包んでいた黒い夜がゆっくり裂け、月がひょっこりと姿をのぞかせる。

銀の光は、一本の細い糸となって地面へと落ち、そこに立つ“誰か”を静かに照らし出した。


光はすぐに顔を映さない。

まるで月自身が、その人物を“紹介”する順番を守っているかのように、

まずは 足元 から。


黒い ブーツ。

高く、重厚で、地面をしっかりと踏みしめ、闇を拒むように佇んでいる。


次に月光は 黒いズボン をなで、まっすぐなラインを浮かび上がらせた。

一切の乱れがなく、主の気品と鋭さを語るようだった。


さらに光はゆるやかに上へ。

風に揺れる 長い黒のコート。

赤いラインが縁を飾り、前には 金色のボタン が整列して星のように輝く。


コートの内側には、ぴたりと身体に合った 黒いベスト。

その下には、夜の静けさを切り裂くように白く際立つ 立ち襟のシャツ が見えた。


そして、腰に下げられた 二本の刀。

左右に一本ずつ。

黒い柄。

半ば闇に溶けるような黒銀色の刀身。

月光はそれに触れるとわずかに震え、慎重にその輪郭を描き出した。


光はさらに上へ。

首、そして横顔。

整った輪郭、無傷の白い肌。


最後に、月はその人物の瞳を照らした。


赤い目。

深紅に燃える光。

夜を断つ刃のような輝き。


そして仕上げに、黒くとがった乱れ髪が月の光を受けてきらめいた。

反逆的で、鋭く、どこか野性的な気配を宿した髪だった。


その姿が完全に映し出された瞬間、

悪霊の影は、獣が本能的に身を引くようにわずかに後退した。


ジェイは目を大きく見開いた。

呼吸が乱れ、心臓が跳ね上がる。


その姿。

その雰囲気。

その圧倒的な存在感。


間違いなく——


ダル・エイッカー。

ジェイ・ベイカーの兄。


ダルはわずかにあごを上げ、月光を受けながら、

いつものように自信たっぷりの薄い笑みを浮かべた。


—やれやれ…その“すごい修行”とやら、あんまり役に立ってないみたいだな、ジェイ

とダルはわざとらしく肩をすくめた。


ジェイは、血で濡れた息を吐き出しながら顔をそむけた。


—うるさい…今はそういうの…いいから…

と言い返す声は弱々しいが、どこか安心を含んでいた。


ダルはくつくつと笑い、コートを軽く揺らした。


—しかしまあ…ずいぶんボロボロだな。こんなのに苦戦するなんて、少し恥ずかしいぞ

と冷たく言い放つ。


悪霊はそれに反応し、耳障りな叫びを上げた。

空気に黒い瘴気が渦を巻き、木々を揺らす。


だが、ダルは一歩も動かない。

まるでその威圧さえ“退屈だ”と評価しているかのようだった。


—死ぬのは、もう少し後にしろよ

とダルは軽く腰へ手を当てた。

—母さんに説明するのも面倒だからな。“弟が影ごときにやられました”なんて。


ジェイは顔をしかめた。


—相変わらず…ほんとムカつく…

とかすれ声でつぶやく。


ダルはにやりと笑い、ついに悪霊へ視線を向けた。


—安心しろ。オレが来たんだ。

その声は静かで、冷たく、それでいて絶対的だった。


悪霊が肩を震わせたその瞬間——


ダルは一歩前へ踏み出した。


たった一歩。

しかし世界が揺らいだように感じた。


シュッ!


短い風切り音。

銀の閃光。

触れただけで砕け散るような鋭さ。


地面に残っていた影の槍は、一瞬で“無”へと変わり、

闇の粒が煙のように消えていった。


それでもダルは刀を抜いていなかった。

ただ、手を軽く振っただけ。


ジェイは息をのむ。

悪霊は、はっきりと“恐怖”を抱いた。


ダルは静かに手を下ろし、


—さあ、始めようか

と淡々と言った。


月は雲間から完全に姿を現し、

三人を照らす舞台のように大地を銀色に染めた。


物語が、再び動き始める。


 ジェイはゆっくりと頭を下げ、自分の傷に目を落とした。裂けた皮膚からは、小さな炎がゆらゆらと立ち上がり、まるで意志を持つ命のように揺れていた。


「……V2は、俺を治せるのか?」

 ジェイが小さくつぶやく。


 両の手のひらにも、同じ青い炎が灯っていた。その光は静かに彼の肉体をつなぎ合わせ、裂けた傷を一つ一つ縫い直していく。痛みとは違う、むしろ温かく包み込むような感覚だった。


 バージョン2は彼を生かし続け、そして今は治癒さえも行っていた。


「……驚いたな。でも、俺の好みよりずいぶん遅ぇ」

 ジェイはため息まじりに言った。


 慎重に地面を押し、体を動かそうとする。筋肉は悲鳴を上げるが、炎の治癒はその限界を少しずつ押し広げていった。やがて彼は近くの木に背を預け、ゆっくりと座り込む。

 視線は、闇の精霊と――ダルへ向く。


「……なんか思い出すな。ダルと再会した時のことを」

 ジェイは自嘲気味に笑った。


 そして舌打ちしながら言葉を続けた。


「ちくしょう……またコイツに助けられた」


 しかしその目に宿っていたのは、悔しさではなく――挑む者の光だった。

 傷ついた身体のまま、ジェイは兄を見上げ、わずかな笑みを浮かべる。


 兄と再会してから、そして彼の力を目の当たりにしてから、ジェイの胸に燃え始めた火。それは以前にはなかった種類のものだった。


 ――置いていかれたくない。

 ――救われる側で終わりたくない。


 あの圧倒的な力に追いつきたい。

 できるなら、それを越えたい。


 けれどジェイはまだ知らなかった。

 ダル・エイカーがその力を得るため、どれほどの鍛錬と代償を積み重ねてきたのかを。


夜の空気は、今にも切れそうな糸のように張りつめていた。

 木にもたれかかったままのジェイは、半ば閉じかけた目で戦場をじっと見つめていた。どれだけ疲れていても、その視線は獣のように鋭く、目の前の一挙一動を逃さなかった。


 ダルが一歩だけ前へ進む。

 ほんの一歩。それだけで、世界の空気が変わった。大地そのものが息を止めたようだった。


—やっと……お前を殺せる時が来たな— と、ダルが静かに言いながら、一本の刀を抜いた。


 刀身が静かに空気を裂く音が、夜の闇を震わせた。

 その音は鋼ではなく、まるで“現実そのもの”を裂いたような錯覚を与えるほどだった。


 抜き放たれた刀からは 影 が流れ出した。

 敵意もなく、慈しみもなく、ただ自然の現象のように漂う黒い靄。冷えた空気を閉じ込めた気体のように、ゆっくりと刀を包み込む。


 その影のオーラはダルの手から足へ、そして脚全体へと渦のように流れ落ちていく。

 弱い旋風のようでありながら、動きはどこまでも優雅で、まるで風そのものが舞っているかのようだった。


—これでやっと片付く……そしてまた旅が続けられる— とダルは小さく笑い、刀を両手でしっかりと握った。


 その姿勢は、完璧な“刺突”の構え。

 洗練され尽くした動きは、ジェイが今まで一度も見たことのないものだった。


 その瞬間、魔の影もそれを察した。

 複数の歪な目を大きく開き、恐怖に震え、黒い身体を煙のように散らし始める。逃げようとしているのだ。


 ジェイは、震える手をゆっくりと上げた。

 疲れ切った身体が悲鳴を上げていたが、それでも指を前に向ける。


 指先で小さな火が弾け、弱々しい軌跡を描いた。

 するとその光は膨れ上がり、巨大な炎の輪となって三人を包み込んだ。


 炎の壁が夜に揺らめき、ゆっくりと円を描く。


—逃がさねぇ……クソ影が……— とジェイは息を切らしながら言った。片目を閉じ、木によりかかりながら。


 炎がジェイの血と汗を照らし出す。

 ヴァージョン2が彼を治してはいたが、疲労までは癒せない。

 身体は重く、腕はしびれ、呼吸は胸を裂くように痛かった。


 それでも――ジェイは笑った。


 意地の笑み。

 敗北を拒む者だけが持つ、静かな炎のような表情だった。


 魔影は炎の輪に閉じ込められ、絶望したように叫び声をあげる。

 影をぶつけても炎は揺れただけで、決して破れない。ジェイの意志が形となった炎だった。


 ダルは一歩進んだ。

 影の渦がさらに速く回り始め、その姿はまるで地面から闇を吸い上げる“夜の戦士”そのものだった。


 月の光が彼を照らし、木々がその風圧を避けるように揺れた。

 ジェイの心臓は音を立てて跳ねる。


 影が刀身に集中し、かすかな震えが空気を震わせる。


—兄貴……見せてやれよ……俺がまだ届かない“その先”を……— ジェイはかすれた声で言った。


 ダルは言葉で答えなかった。

 ただほんの少し体を沈め――


 世界が止まった。


 その次の瞬間、空気が裂けた。


 見えないほど鋭く、速く、静かで残酷な一閃。

 その軌跡は月光よりも細く、風よりも淡く、しかし確かに存在した。


 魔影の黒槍が一斉に震え――

 音もなく崩れ落ちた。


 まるで灰となり、風に散るように。


 ダルは動かない。

 刀を下げたまま、静かに立っていた。


 炎が揺れ、散った影の粒子がゆっくりと空間に漂う。


 そして――


魔影の背後に立つ“影”が、ついに形を現した。


月は震えているように見えた。

まるで、この世に属さない“何か”が生まれようとしているのを感じ取ったかのように、静かな夜が歪んでいく。


先ほどまで苦痛の叫びを上げていた霊は──

突然、まるで別人のように 笑い始めた。


その笑い声は低く、同時に高く、何十もの喉が一つの口を通して響いているようだった。

空気を震わせ、闇を割り、現実そのものを蝕んでいくような恐ろしい笑い。


ダルは眉をひそめ、刃を握る手に力を込めた。


——何がそんなに可笑しい? クズが——

冷たく、鋭い声。

微動だにしない表情。しかしその内側で、ダルはひとつの違和感に気付いていた。


あまりに急すぎる変化。

あの痛みから、あの叫びから、いきなりこの『笑い』…。

霊は“何かを決めた”としか思えなかった。


ジェイも、信じられないというように目を見開いていた。

治癒の炎が体を包み、傷口がゆっくりと塞がっていくというのに、彼の視線は霊に釘付けだった。


(……まだ笑えるのかよ。こんな状況で……)


ダルが一歩踏み込む。

その瞬間、彼の足元で地面が震え、細かな石が跳ね上がった。


影のオーラは足元から立ち上り、衣服を包み、刀身に絡みつく。

夜の嵐がひとつの形を持ったかのように、黒い渦が彼を中心に回り始めた。


構えが低くなる。

誰が見ても分かる、“必殺”の姿勢。


——笑うなよ……バカ霊——

ダルの声は雷鳴のように低く響き渡った。


その瞬間、霊が反応する。

痩せこけた両腕を左右に広げ、爪の付いた手のひらを地面に向ける。


そして、


空気が一瞬だけ止まった。


次の瞬間──


瘴気しょうきが溢れ出した。


黒く、重く、粘つく霧。

まるで死んだ大地の“息”。

月明かりさえ飲み込み、世界を塗り潰す闇。


地面が震え、森が呻き、空気が重く沈む。


——ふざけるなッ——

ダルが叫ぶが、その声は瘴気の爆発でかき消された。


暴風のような瘴気が四方八方へ吹き荒れ、ジェイの炎の円は一瞬で掻き消される。

彼は後ろへ吹き飛ばされ、木へ叩きつけられた。

腕で顔を守りながら、悲鳴を上げる暇もないほどの衝撃。


ダルも押し飛ばされ、たまらず刀を地面に突き刺して耐えるが、

その腕は震え、足元の土が削れ、長い溝が作られていく。


——な、なんだよこれ……——

ジェイが息を荒げながら呟く。


瘴気はすべてを押し潰す勢いだった。

呼吸するだけで命を奪われるような悪意の嵐。


ダルは歯を食いしばり、影のオーラをさらに燃え上がらせた。


——まだ……俺は……下がらねぇ……——


影の波動が爆ぜる。

瘴気に真っ向からぶつかり、夜の海がぶつかり合うような衝撃音が響いた。


黒い海と黒い嵐。

二つの力が一点で争う。

地面は割れ、木々は音を立てて倒れ、葉は燃えたり凍ったりしながら散っていった。


やがて──


ダルの影が、瘴気を喰い始めた。


渦の中心が彼であるかのように。

闇が闇を吸い込み、夜の奥へ沈み込ませていく。


瘴気はしだいに細く、薄くなり──

最後には完全に消えた。


そして、森に静寂が落ちる。


息を呑むほどの静けさ。

風すら止まり、世界が息を忘れたように。


ほどなくして、ジェイはゆっくりと顔を上げた。


「……ダル……? 霊は……?」


ダルは刀を引き抜き、周囲を見回す。


そして気づく。


霊はそこにいなかった。

まるで初めから存在しなかったかのように──完全に消えていた。



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