第3.3章 - 存在の叫び
――ジャガーの歩み――
その言葉が、血にぬれたジェイ・ベーカーのくちびるからこぼれた。
つぎのしゅんかん、彼の黒いブーツのうらに、よわい火がゆらめいた。
まるで心の底でねむっていた何かが、ようやく目をさましたように。
炎はつよくない。
だが、ただの光ではないと分かるほどの、けんめいな赤。
そのわずかな輝きが、まるで彼の運命そのものをてらしているようだった。
ジェイはぜいぜいと息をしながら立ち上がる。
体はほとんど限界。
服はやぶれ、黒いマントは半分ちぎれ、白い肌のあちこちから血がながれていた。
青あざ、きず、ひび割れるような痛み。
だが、その目だけは――まだ消えていなかった。
—やられたな…お前のせいで、切り札を早く使うはめになった—と言うジェイ
足をふらつかせながらも、かみしめるように立ちつづけた。
ジェイは上体を少し前に倒す。
まるで夜のけものが飛びかかる前の姿勢のように。
片足を前へ、もう片足を後ろへ。
静かに空気を吸いこみ、胸の奥にひとつの覚悟をしずめる。
そして――踏み出した。
地面がはじけるような音がした。
ジェイの体は光の矢のように走り出す。
その速さは人の目では追えない。
影の精霊ですら、そのしゅん動にはおくれをとるほどだった。
たしかにジェイは弱い。
力も、魔法も、かの精霊にはおよばない。
だが――速さだけは、彼の物語そのもののように鋭かった。
一歩、また一歩。
ジェイの足は、火のゆらめきとともに大地をける。
風が切り裂かれ、影の精霊の黒い体がかすかにゆれる。
ジェイの拳が、ほのおをまとってうなりを上げる。
精霊が影の盾をつくり、さばこうとする。
だが――おいつかない。
速すぎる。
影のうごきより、夜の冷気より、風よりも。
ガッッ。
拳が影の胸にめりこむ。
つぎの瞬間には、ジェイの足が反対側のむねをけり上げていた。
動きはしぜんで美しく、まるで夜空に舞う火の鳥のようだった。
—逃げるな、影の精霊…お前の闇は、ここで終わらせる—と言うジェイ
その声はかすれていたが、不思議と強さを感じさせた。
精霊は影の刃を作り、ジェイを切りさこうとする。
だが、ジェイはその前にいる。
次の瞬間には背後に回り、さらに横にうつり、ふたたび前へ。
彼の動きは、まるで世界がジェイだけを中心に回っているかのようだった。
拳、拳、踵、膝、また拳。
かるく、鋭く、つぎつぎと精霊の身体にあたり、闇に小さなひびをうむ。
影の精霊はうなり声のような音を出す。
それは怒りか、驚きか、あるいは恐怖か。
ジェイはとまらない。
彼の足元の炎は弱い。
けれどその一歩一歩は、まるで自身の意志を燃やし、夜をてらすかのようだった。
影の中、黒い霧の中、冷たい風の中。
ジェイの動きだけが、ひとつの赤い線となって走り続けた。
戦いはまだ終わらない。
だが今だけは、ほんの一瞬だけ――
ジェイの速さが、世界にかがやく真実となっていた。
闇の森にひびく音は、ふたつだけだった。
ひとつは、ジェイのあられのような呼吸。
そしてもうひとつは、影のせいれいが生み出す黒い風のうなりだ。
地面にはひびが走り、木々はまるで世界の終わりを見つめるように静かにゆれていた。
ジェイの足もとからは、ほそい火の線がのび、赤いしずくのように光って消える。
わずかな炎だったが、それは彼の生きようとする意志そのものだった。
影のせいれいは、形を定まらせない黒の人形のようで、ゆらゆらとゆれる体の中に白い目だけが浮かんでいた。
その目は光とも闇とも言えず、のぞきこめば心そのものを吸われそうな空白だった。
ジェイは拳をにぎりしめた。
手は血でぬれていたが、まだふるえていなかった。
—まだ…やれる…—ジェイはくちの中の血をふき、かすれた声で言った。
その言葉は、弱い火が風に逆らうような、細いが強い響きだった。
ジェイの体はすでに限界にちかかった。
何度も黒い槍に切られ、かすめられ、身体中にキズが走っていた。
だが、それでも彼は前へと進んだ。
影のせいれいの足もとから、新たな黒い槍が生まれた。
黒いもやが集まり、ねじれ、鋭い先をつくりあげる。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで闇そのものが武器を育てているかのように。
そして一瞬のうちに、五本になった。
空気が重くなり、体の内にまで闇がしみこんでくるような感覚だった。
ジェイは息をのんだ。
胸が焼けるように痛い。
足もふらつく。
だが彼は地を蹴った。
—こんな闇で…止まる気は…ない…—ジェイはほほをゆがめて笑った。
その笑みは苦しく、くるしく、それでも前だけを見ていた。
影の槍が放たれた。
黒い線が空を切り裂く。
一本目、ジェイは頭をかがめてかわした。
二本目は横転してよける。
三本目は足をすりきざむようにかすめた。
四本目は肩にささり、大きく血がとんだ。
五本目は胸に向かってきたが、ジェイはわずかな炎を手にまとわせ、影をはじいた。
手が焼けるほど痛む。
だが止まれない。
ジェイはそのままかけ出した。
世界が赤い線だけになったかのような速度だった。
影のせいれいがゆがむ。
その形が波のようにふるえた。
ジェイの拳が影の胸にあたる。
黒がゆれ、ひびわれる。
続けて回しげり。
その後にもういちど拳。
さらに横から強烈なひざげり。
影の体はくずれては戻り、くずれては戻る。
だが確かに削れていた。
—折れろ…!—ジェイは血をはきながら叫んだ。
影のせいれいも反撃した。
黒い腕がのび、ジェイのわき腹を切りさく。
別の黒い刃が背中をかすめ、赤い線が増える。
ジェイの目がかすんだ。
視界がゆれる。
足が重い。
なのに、彼は止まらなかった。
それはまるで、死の前に立ちふさがる炎の子が、最後の一歩を踏む物語のようだった。
拳が、また影にあたる。
そしてもう一撃。
スピードは落ちていない。
まるで世界にひとりだけ、違う時の流れで走っているような動きだった。
影に確実にダメージが入っている。
それでもジェイも傷を重ね、血がポタポタと森の地面におちていく。
その赤は、夜の闇の中でただ一つの鮮やかな色だった。
ジェイの呼吸は、もう笑ってしまうほど荒い。
胸を上下させるたびに、全身が悲鳴を上げる。
影のせいれいは槍をさらに作ろうとしていた。
黒いめまいのような霧があたりに広がる。
ジェイは歯をかみしめた。
—お前の影に…飲まれるつもりは…ないんだよ…—
まだ立っている。
まだ戦っている。
その姿は、倒れそうな炎が、それでも暗闇に負けまいとゆらめくようだった。
森の中で、二つの存在が激突しつづけた。
赤い炎と黒い闇。
二つの色が夜の世界をけずり合い、ゆれる地面の上で踊りつづけていた――。
闘いは続いていた。
まるで世界そのものが息をひそめ、二つの影だけがこの荒れ果てた地に残されたかのように。
地面はひび割れ、空気は黒い霧で重く、風さえも恐れに震える。
ジェイの身体は限界に近づいていた。
「ジャガーの歩み(パソ・デ・ハガール)」――
その技はまるで伝説級の戦士が使うべきもの。
だがジェイは、それを迷いなく使い続けていた。
脚の筋肉は熱を帯び、
皮ふの下で炎が走るように痛みが広がる。
一歩ごとに、体の中で何かが軋む音がした。
それでも、彼は止まらなかった。
黒い外套は裂け、
風の中で影のように揺れた。
足元の大地は彼の加速に耐えきれず、
焼け焦げた線を描いていく。
対する**影の精霊**は、わずかに後退した。
最初はほんの一歩。
だがその後、
ジェイの渾身の一撃ごとに影の身体は大きく揺れ、
確実に押し返されていった。
「ハァ…ハァ……
まだだ……足よ……折れるなら、最後まで待て……」
ジェイの呼吸は乱れ、
胸は上下し、
汗と血が混ざりあって滴り落ちる。
影の精霊は黒い槍を生み出し、
空へ向けて放つ。
まるで闇の雨のように降りそそぐ槍の群れ。
ジェイは跳び、回転し、滑り込むようにかわし、
時に手のひらの炎で軌道をそらした。
その動きは速く、鋭く、
もはや人間のそれではなかった。
しかし、
その速さの代価は――確実に彼の体を削り始めていた。
影の槍の一つがジェイのわき腹をかすめた。
赤い血が飛び散り、
大地に悲しい道しるべを残す。
それでも彼は進み続けた。
そして――
ジェイは精霊の背後に“現れた”。
爆ぜるような音が空気を裂く。
地面に砂煙が上がり、
夜が震える。
右脚に炎が走り、
先ほどまでよりも強く、荒々しい光が灯る。
「――これで……終わらせるッ!!」
彼の叫びは、
焼けた風そのもののような力を帯びていた。
回転。
一閃。
炎をまとった蹴りが影の精霊の右肩を砕く。
ズシャッ――
嫌な音が闇の中に響く。
影の肉体が大きくひしゃげ、
黒い霧が噴き出すように散った。
再生しようと影がざわつく。
だが――
肩は戻らなかった。
その瞬間、
夜が一瞬止まったかのようだった。
ジェイの荒い息が響く。
影の精霊はふらつき、
その白い光の瞳がわずかに揺れる。
そして。
「アアアァァァァ……!!」
その叫びは、
世界をねじ曲げるような歪んだ声だった。
まるで鉄が軋む音と獣の咆哮を混ぜ合わせたような、
理解できぬ怒りそのもの。
影の霧は濃く、深く、
どす黒い海のように地面を覆う。
黒い触手が大地から伸び、息づくようにうごめく。
ジェイは後ろへ一歩下がり、
痛む肋を押さえながら苦笑した。
「……最悪だな……
完全に……怒らせちまった……」
影の精霊は肩を失ったまま、
それでもジェイに白い瞳を向けて立ち上がる。
闇が震え、空が泣き、
風が逃げていく。
夜そのものが、
この二人の戦いを恐れたように。
ジェイは足を踏みしめた。
崩れかけた体で、
それでも――一歩も退かず。
影の精霊の怒りは最大に達し、
その気配はまるで黒い太陽のように膨れ上がった。
闘いは、
まだ終わらない。
ジェイの体はすでに限界のかけ声を上げていた。筋肉は焼けるように熱く、深い傷から流れる血は大地に赤い花のような点をつくりつづける。それでも彼は止まらなかった。止まれなかった。
――ここで立ち止まれば、すべてが闇に飲まれる。
彼の呼吸は荒れ、胸は苦しげに上下しながらも、目だけはゆらがなかった。
黒い霧が渦巻く大地の中央で、影の精霊は狂ったように歪んだ笑いを漏らしている。闇の槍が何十本も背後でゆらめき、まるで獣の牙のように周囲の空気をえぐっていた。
「――これで終わりだ、くだらねぇ影」
ジェイはつぶやき、地面を蹴った瞬間、世界が音を失った。
空気が裂ける。
影がゆがむ。
光の尾が走り、ジェイの身体は一気に最高速へと跳ね上がった。
地上の数字で言えば、マッハ1.5。
もはや肉体という枠を越え、ひとつの閃光に変わる。
次の瞬間、ジェイの足は影の精霊の前腕に叩き込まれた。
炎が舞い、衝撃が空気を震わせる。
骨が砕ける音が、世界のひび割れのように響いた。
――パキィンッ。
精霊の前腕が飛んだ。手も、腕も、黒い霧となって散り、それはもう二度と再生しなかった。
影の精霊は一瞬、自分の欠損を見つめた。
そして――
「■■■■■■■■■■――ッ!!」
おぞましい絶叫が弾けた。声というより、狂気そのもの。
濃い闇の霧が爆ぜ、世界に圧を落とす。まるで地響きのように空気が震え、大地がうめいた。
ジェイはたった一歩の距離まで迫り、息を荒げながら、しかし笑った。
「……へっ、言ったろ。**“終わりだ”**ってよ」
精霊の顔がにじむようにゆがみ、残った腕をジェイに向かって突き出した。
――速い。
だがその瞬間、ジェイの身体はわずかに反応が遅れた。
“ジャガーの歩み”はすでに解除され、筋肉の痛みは限界を越えていた。
闇の槍が形を成し、四本の影が一気に突き出される。
ズブッッ!!
「――ッ……!?」
一本が右手に。
二本目が左手に。
三本目、四本目が足へと貫通する。
骨を砕き、肉を裂き、黒い刃は彼の四肢を串刺しにした。
影の槍はそのまま長く伸び、ジェイを宙へと持ち上げる。
その姿は、まるで影の十字架にかけられた生贄のようだった。
血がぽたり、ぽたりと地面に落ちるたび、赤い波紋が闇の水面に広がるように見える。
痛みは――尋常ではなかった。
「ぐぅ……ぁ、ああああああああッ!!」
叫びが喉を裂いて飛び出す。
“第二形態”が命をつなぎとめているが、痛覚は消えない。
影の呪いを防ぐことはできても、肉体の苦痛までは薄められなかった。
影の精霊がゆっくりと近づいてくる。
その顔はゆがんでいた。笑っているのか、怒っているのか、それすら判別できないほどの“狂気の泥”がそこにあった。
「……これで……終わり……」
影が囁く。声は砂のようにざらつき、耳に刺さる。
ジェイは歯を食いしばり、血の味をかみしめながら、それでも精霊をにらみ返した。
「まだ……だ……ッ。お前なんかに……負けて……たまるかよ……」
精霊の腕がゆっくりと持ち上がる。
闇が集まり、さらに太い槍が形成されようとした――その瞬間。
――スッ。
風が切れた。
音もなく、光もなく、ただ“線”だけが世界を走ったような感覚だった。
次の瞬間、
ジェイの四肢を貫いていた影の槍が――
スパァンッ!!
音もなく、しかし完璧に。
斬れた。
黒い槍は触れた瞬間に光の粒となり、崩れ、霧散し、空中に溶けていく。
ジェイの体は解放され、ぐらりと宙で揺れた。
精霊の目がわずかに見開かれる。
振り返ろうとした、その背後――
そこに、
静かに立つ“何か”がいた。
ただの立ち姿。それだけで、空気が震えた。
世界が呼吸を忘れたように、すべてが沈黙する。
影の精霊がようやく振り返る前に――
一筋の白い線が、闇を裂くように揺らめいた。




