第3.1章 - POLVORA!
夜は、まるで星々が息を潜めて見守っているかのように静かだった。
優しい風がゆっくりと大地を撫で、草原は小さく揺れ、森の木々は静かな舞を踊っていた。
この世界の人々にとって、それは穏やかな夜のはずだった。
しかし、ダルの屋敷の西側──その静けさは存在しなかった。
かつて静寂に包まれていた森は、今や不気味な光に染まっていた。
広くはない、わずか二十メートル四方ほどの火事。
だが、その炎は夜を切り裂くほどの強烈な輝きを放ち、まるで黒い海の中に浮かぶ燃える船のように、暗闇を照らし出していた。
その中心にいたのは、ジェイ・ベイカーだった。
彼の体は影と炎に包まれ、揺れる赤光に照らされながら回転していた。
片方の手のひらを前に突き出し、そこからは純粋な火が吹き出し、
もう片方の手では一本の指先から鋭い炎が放たれ、まるで細い刃のように空を裂いていく。
彼が回るたび、燃えた葉や灰が舞い上がり、赤い火の粉が宙に散る。
熱で空気が歪み、まるで世界そのものが震えているようだった。
そしてジェイは笑っていた。
狂気にも似た笑い。
だがそれは、喜びなどではなかった。
自分を追い詰める恐怖を、必死で押しつぶそうとする笑いだった。
ジェイは知っていた。
この森の闇のどこかに──あの悪霊が潜んでいることを。
木々は風もないのに軋み、影は理由もなく揺れ、
まるで夜そのものが彼を見ているような沈黙が広がっていた。
ジェイは低く呟いた。
—出てこいよ…そこにいるんだろ…俺は分かってるからな…
敵の隠れ場所を奪うために、森を焼き払う。
自分の周囲に死角を作らないための炎の円。
それが、ジェイの考えた唯一の方法だった。
火は彼の意志に応え、獣のように吠えながら燃え広がる。
火の音、風の音、そしてジェイの震える笑い声が重なり、夜を切り裂く。
—逃げるなよ… —とジェイは闇を睨みながら言った— …悪霊って名乗るならよ…正面から来いよ…
その瞬間、風が止み、熱だけが世界を支配した。
地面に小さなヒビが走り、
空気が震え、音のない悲鳴を上げた。
何かが、動いた。
気配。
呼吸。
心臓の鼓動。
それはジェイのものではない。
彼はまだ笑っていたが、その笑みの奥には確かな恐怖があった。
—さぁ…混乱が好きなんだろ…?
なら相手をしてやるよ…俺が火のきっかけになってやる…
火がさらに高く燃え上がり、赤い光が闇に深く突き刺さる。
森の奥、炎の向こうで──
何かがようやく、目を覚ました。
ジェイは知っていた。
悪霊はそこにいる。
そしてすぐ近くにいる。
炎はただの光ではなく、狩人の灯火だった。
そう思ったのは、ジェイだけだった。
本当は、ジェイにはこの世界の人たちのように――
まほうの「気」や「力」を見ぬく力はなかった。
ダルやネコティナのように、まるで空気の色を見るように、あいての強さを感じることもできない。
しかし、今のジェイにとって、それは大きな問題ではなかった。
ジェイはまわるのをやめ、手から生まれていたほのおも、ゆっくりと消えていった。
長い夜のあかりが終わるように、静かに、弱くなっていく。
風がふき、黒いマントがゆるやかにゆれた。
まわりには小さなはいが舞い、赤い火のこが空にとけていく。
だが、一つとしてジェイにはふれなかった。
まるで、何かが彼を守っているかのように。
ジェイは、まわりすべての角度をじっと見つめていた。
まちがいない。
何かが彼を見ていた。
どこかで、しずかに息づいていた。
しかし、敵のすがたが見えない以上、できることは少なかった。
ジェイは、これまでに何度も理不尽をこえてきた。
この世界に来てからも、まるでアニメのクリシェをまとめてぶつけられたような出来事ばかり。
まるで、だれかが「主人公をいじめたい」だけの物語を書いているような気さえした。
それでも、ここに立っていた。
今日も、しなずに。
ジェイはため息をもらし、手であたまをかいた。
—やれやれ、なんでオレがこんなことしてんだよ……
—ジェイ めんどうくさそうに顔をゆがめる
—オレ、ヒーローでもなんでもないんだけど……
見えない相手にどう勝つのか。
ジェイのあたまには、つぎつぎと「バカみたいな作戦」ばかりが思いうかぶ。
たとえば、
「大声で叫んだらビビって出てくるんじゃね?」
すぐにじぶんを想像した。
森の中で、ヤギみたいに叫び続ける自分。
そして出てくるのは、きっと敵ではなく笑い声。
ボツ。
つぎ。
「風みたいに走って、ミニ竜巻をつくってあぶり出す?」
頭の中で見えたのは、めちゃくちゃ回って、めちゃくちゃよって、森の土にゲロをはく自分。
即ボツ。
即すぎるボツ。
さらにひどい案。
「森の木ぜんぶに悪口を言って、怒らせて出させる?」
どう考えてもアホすぎる。
しかも、木に悪口言うやつなんて、もう敵よりやばいヤツだ。
ジェイは顔を手でおおい、ため息をついた。
緊張すると、こういうアホな考えがふえる。
たぶん、心を守るための本能みたいなものだった。
その時――
すこしだけ風が変わった。
ほんのわずかな動き。
空気よりうすい気配。
森のざわめきとはちがう「何か」の息づかい。
ジェイの目が見ひらかれた。
体が自然と構える。
動いた。
ようやく――敵が。
気配が、はじめて形を持った。
静かな、しずかな戦いの幕が、そこで上がった。
ジェイの思いは——やはり、まちがっていた。
ゆっくりと強くこぶしをにぎりしめながら、最悪にそなえて体に力を入れる。
夜の空気は冷たく、ほのかに煙のにおいがした。土と炎のにおいがまじるその空気の中に、もうひとつ…
なにか、この森にも炎にも belong しない気配があった。
その時だった。
ジェイの目が、木の上にある黒い影をとらえた。
ほんの少し前まで、あそこには何もなかった。
まるで夜そのものが形を持ったように、影は静かにそこに立っていた。
ジェイは目をほそめた。
あの場所——あの空気の重い場所。体がざわつくあの感じ。
間違いなく、何かが “そこにいる”。
つまり、あれが悪しき精霊かもしれない。
だが、月の光がすこしずつ葉の間を流れ、影の形を照らした時——
ジェイは気づいた。
ただの影ではなかった。
人の形だ。
もっと言えば——
女の人の形だった。
服の色も、髪の色もわからない。
はっきり見えたのは、静かに立つその細いシルエットだけ。
ジェイの背中に、小さな寒気が走った。
こわかったわけではない。
ただ、わからないものほど不気味なのだ。
—おーい…—ジェイは声を上げる
頭をかきながら、少し困った声で叫んだ—えっと…聞こえる? ここは危ないぞ? 悪い精霊がいるんだ—
女の影は動かない。
まるで木の一部になったみたいに。
ジェイはさらに声を大きくした。
—なあ、聞こえてる? 悪い精霊だぞ! 人をころすヤツだ! ほんとに、ここにいたらダメなんだって!—
声は森にひびき、木々の間でこだまのように返ってくる。
しかし、影は月の下で静かに立ったままだった。
風がふき、灰がふわりとジェイのまわりをまう。
彼のマントがゆらりと風にひかれて大きくふくらんだ。
女の影は、まるで世界の時間から切りはなされたように動かず、ただそこに“存在”していた。
ジェイは、ごくりとつばをのみこむ。
胸の奥にひやりとした不安が落ちていく。
それでも、沈黙の方がこわかった。
—おーい! 本当に大丈夫か?! もし迷ってるなら教えてくれよ! ここ、マジで死ぬほど危ないからな!—
その時だった。
どこからともなく、ふわりとした小さな “ため息” のような気配が流れた。
風でも、影でもない。森そのものが息をしたような——そんな音。
ジェイの心臓が一瞬だけ強く鼓動した。
まさか…あれが精霊…? それとも……別の何かか?
返事はない。
だが、ジェイはゆっくりと一歩前に出た。
森全体が、呼吸を止めたように静まり返った。
ジェイは黒いマントを風にゆらしながら、ゆっくりと女の人影へ歩みよった。
その夜風はまるで「やめろ」とささやくように彼のマントをひっぱったが、ジェイはその気配を無視した。
跳び出そうと足に力を入れた、その一瞬——
世界が、はじけた。
打撃。
あまりにも速く、あまりにも重い。
視界がゆがむほどの衝撃がジェイの腹にめりこみ、夜の森に骨が折れるような音がひびいた。
バイクほどの大きさの黒いかたまりが、まるでミサイルのように彼へ体当たりしてきたのだ。
ジェイの身体はふきとび、空気さえ追いつけないほどの速さで後ろへひっぱられた。
土をけり、ふんばろうとしても意味がなかった。
地面は足の下でくだけ、草はちぎれ、石はこわれる。
まるで自分が、ふく風にまかれたビニールぶくろのようだった。
—なんだよこのミサイル自殺アタックは—
ジェイは心の中でさけびながら、なんとかふみとどまろうとする。
十本の木が、次々とへし折れた。
木のかけらが空にまい、葉が雨のようにふりそそぐ。
その音は雷ににたうなりを森にひびかせた。
ようやくジェイは大地をふみしめ、全力で足にちからをこめた。
土が爆ぜ、衝撃の煙がまわりにひろがる。
痛みはあった。
しかし本来なら身体をまひさせるほどのダメージが、今のジェイには——ほんのつねられた程度の痛みだった。
「バージョン2」が彼のからだを強化し、痛みをおさえる力を与えていた。
ジェイは黒いマントについた土を払うように、軽く手でさすった。
—やっと出てきたか、クソ野郎。せっかくの新しいマントをよごしやがって—
小さくため息をつきながら、しかし目の前から目をそらさずにつぶやく。
彼の前には、先ほどの黒い影が立っていた。
黒いかたまりはゆらゆらと形を変え、まるで生きた煙のようにのび上がり、人型へと変化した。
顔というものはなく、ただ二つの白い光だけがぽっかりと浮かんでいる。
ジェイにはそれが、「夜の中に浮かぶ車のライト」にしか見えなかった。
ジェイはごくりとつばを飲みこみ、汗が一すじ、額からながれ落ちる。
—今日死ぬ気はあるか、バケモノさん?—
軽口をたたきながら、ジェイは構えをとった。
足をずらし、腕を上げ、いつでも動けるように重心を下げる。
人ならぬ力を持つ存在と、真正面から戦うのはこれが初めてだった。
目の前の影は、ただの魔物ではない。
弱い生命がもつ気配などなかった。
そこにあったのは、もっと黒く、もっと深いものだった。
影は、ケタケタとくずれたような笑い声をもらした。
低く、ゆがみ、森の空気をふるわせる不快な音だった。
ジェイは背筋に冷たいものが走るのを感じながら、相手をにらみ返す。
一歩、影が前へ出る。
その足元の土が、黒く染まっていくように見えた。
炎と月の光、そして闇が交差する場所。
ジェイはその中心に立っていた。
こうして、二つの存在はついに向かいあった。
戦いが、はじまったのだ。




