第3章 - 影の狩り
風が後ろへ逃げていくようだった。
ジェイは人間ではありえない速さで走り、その黒いシルエットはまるで世界がまだ知らない秘密のように森を切りさいていく。
この世界には車もエンジンも都市の音もない。
だから彼の速さをたとえるなら、大地の心臓がふるえる音か、空気がさい断される一瞬のゆらぎだけだった。
ジェイの黒いマントは生きている影のように大きくゆれ、まるで主をおいかける黒い獣。
跳ぶたびに布は翼のようにひろがり、夜気を切りながら波のようにゆれる。
森は月の光をのみこみ、巨人のような木々が夜空をさえぎっていた。
わずかにこぼれる銀の光だけが道をしめす。
地面には太い根が指のようにのび、つまずかせようとしてくる。
だがジェイはつまずかない。
彼の反応はまるで舞うようで、そして獣のように鋭かった。
枝が目の前を打とうとする前に身体はすでに横へ。
倒木が道をふさいでも、足は軽くふみきり空へ。
その動きは風の詩のようで、音より早く。
夜の獣たちは草むらの中からジェイの気配にふるえた。
見えない何かが横を走ったと思うと、ただ一つの足音が消えていく。
人間の目では、彼はただの影の閃光だった。
ジェイは目を細め、暗闇の奥を見つめる。
—何か手がかり…何でもいい。ここに“あれ”がいるなら、夜もかくしきれないはずだ—
走りながらつぶやく声は風とまざり、森の音にとけていく。
息は乱れなかった。
疲れもない。
まるでこの夜のために生まれた身体のように、彼は静かに走り続ける。
後ろに舞う葉、しずかな木のざわめき。
すべてが彼の速さに気づき、道をゆずるようだった。
—夜はいつもかくし場所を持っている—
ジェイはそう思いながら太い木をよける
—だがどんなかくれ場にも“すきま”がある。どんな霊でも“影”をのこす。それを見つければいい—
心が強く打ち、そのたびに身体の奥に火がともるようだった。
あの赤い炎のような瞳の残像、未完成の力がまだ胸で息をしている。
ジェイは走りながら手をのばす。
速さは皮ふに針のような刺激をあたえ、世界が細かくゆがむ。
—何でもいい…しるしをくれ—
ささやくように言う
—音でも、気配でも、あの悪しき “かげ” の呼吸でも… それが道になる—
そのとき、森がわずかに返事した。
かすかな音、空気のふるえ。
それは夜の底からよびかける声のようだった。
ジェイは眉を寄せ、さらに加速する。
その姿は闇にとけ、ただ風だけが彼の存在を覚えていた。
—この速さなら… 獣より先に一歩ふめる—
つぶやく声に、わずかな誇りが混じる。
物語はもう動き出していた。
森は舞台。
ジェイはその中心で、ついに自分の速度で物語を走り始める。
森は終わりのない闇の海のようだった。
古い神殿を守る柱のように、黒い木々がまっすぐ立ち並び、風は葉をゆっくり揺らしながら、古い魂のささやきのような音を生んでいた。
地面の下で枝が小さく鳴り、まるで夜そのものが目をさますかのようだった。
ジェイは止まらず走り続けた。
ひと息も乱れず、まるで疲れというものを知らない体のように、静かな呼吸を保ったまま――ただ、前へ。
しかし、それでも――何も見つからなかった。
手がかりも、気配も、風に混じる“何か”すらもない。
ただ、深い静けさだけが広がっていた。
その沈黙は、思考すら飲みこむほど深かった。
ジェイは小さく舌打ちし、西の方へと進路を変えた。
ダルからも少し離れ、より深い闇へ足を踏み入れる。
彼の頭の中には、ただ一つの思いがあった。
——あの精霊を早く倒して、あとは好きに生きるだけだ——
ジェイが欲しかったのは、とても単純な夢だった。
働かずに金を手に入れ、寝たい時に寝て、何にも縛られず生きること。
英雄でもなく、勇者でもなく、ただ気ままに生きる“ジェイ・ベイカー”。
それだけでよかった。
だが、この世界はそんな願いを笑うように、彼を追いこみ続けてきた。
火の次元での二年間――終わらない熱と光の中での修行。
休みも、逃げ道もない。
強い者が生き、弱い者が名もなく消える世界。
ジェイは、まだ自分がどちら側に立っているのかさえ分からなかった。
枝が一つ、彼の顔をかすめるように落ちてきた。
ジェイは考えるより先に体を沈め、なめらかに避ける。
その動きは水が流れるように自然だった。
森の空気が少しずつ変わっていく。
湿り気が増し、どこか重く、息をするのも遅くなるような感覚。
ジェイは眉をひそめた。
——…おかしいな——
——森って、こんなに静かだったか?——
虫の声もない。
鳥の気配もない。
枝が揺れる音さえしない。
ただ、ジェイの足音だけが夜を切り裂いていた。
その異様な静けさは、背すじを冷たくなぞるような違和感を生んだ。
ジェイはふっと立ち止まり、手を刀の柄にそっと添えた。
彼のマントが風に遅れて落ち、静かに揺れた。
ジェイは目を開く。鋭く、冷たく。
——…なるほど——
彼は小さくつぶやいた。
まるで運命を前にして皮肉めいた笑みをこぼすように。
——この世界は、オレに楽はさせてくれないって事か——
森はまるで肯定するように、また沈黙を返した。
そしてジェイは再び走り出す。
もっと速く。
もっと深く。
もっと確かに。
夜の闇が大きく開き、古い物語の次のページをめくるように彼を迎えた。
そして、西の彼方で――
ジェイを待つ“何か”が、息をひそめていた。
それは、見つかりたくない何か。
だが同時に、かすかな気配だけを残してしまった愚かな存在。
ジェイはその一筋の気配を追う。
その一歩が、彼の夜だけでなく、もっと多くを変えるとも知らずに――。
ジェイは止まることなく走り続けた。まるで地面が無限の速度を貸してくれるかのように。森の枝は軋み、折れそうになるが、彼に触れることはできなかった。夜の空気が顔を撫で、黒い髪を揺らす。呼吸のたびに自然の静かなざわめきと混ざり合う。
心の中で、思考がひらめいた。
—あの前にいた場所…怪しい、戻ったほうがいい— 心の声が森の空虚にこだまする。
優雅に旋回し、影の中で舞うように方向を変えると、ジェイは再びあの場所に足を踏み入れた。空気は冷たく重くなり、背筋を走る感覚。何かがそこにいる、見ている、待っている。木々の間に漂う風が囁き、葉はジェイに触れられずとも震えていた。
—ここにいるはずだ、出てこい— 決意を込めて呟く。声はささやきほど弱いが、揺るぎない強さを持っていた。
ジェイは指を前に突き出し、集中して火花を生み出した。それは小さな蝋燭のように先端で揺れる。笑みが広がり、狂気じみた喜びがその顔を覆う。
—なら俺がこのクソみたいな花火師だ、取れ POLVORA— と叫ぶと、火は彼の手から解き放たれた。
もう片方の手も伸ばし、掌を開いて同じ方向に、さらに強力な炎を放つ。自らの軸を中心に回転しながら、周囲の森を炎で包み込む。まるで太陽が夜の森に降りてきたかのように、燃え上がる光が木々を照らした。
木の影は伸び、歪み、上る煙は人型のように揺れながら闇に消える。ジェイは狂気の笑みをあげ、葉や枝の間で響き渡る。笑い声は混沌を告げる太鼓のようで、森は恐怖に沈黙した。
—出てこい、隠れても無駄だ— 炎の光に反射する瞳が小さな灼熱のように輝き、彼の挑戦を物語った。火花ひとつひとつが挑発であり、隠れる場所などない。ジェイは火であり、風であり、狂気であり決意だった。そして自然さえも、彼を恐れているように感じられた。
回転しながら炎を放つたび、森の小さな生き物は逃げ惑い、枝は折れ、煙が夜空に立ち上る。全てが劇場のようであり、混沌と制御の共鳴だった。
—俺は探している…永遠に隠れてはいられない— 低く呟き、森は恐怖に満ちた沈黙で応えた。
ジェイは再び両手を天に掲げ、炎はさらに高く舞い上がる。木々の天辺に触れるほど、夜空に光を刻む。炎ひとつひとつが呼びかけであり、悪霊への挑戦であった。
笑い声と焔の音、夜風のささやきが交錯し、ジェイは悟った。この戦いは、今、始まったばかりだと。




