第2.13章 - 私は速い
夜の風はやさしく吹き、まるで世界じゅうの音を静かに洗い流すようだった。空には白い月が大きくかかり、その光は町の屋根を銀色にそめ、石の道をしずかに照らしていた。風にゆれる木の葉がひらひらとゆれ、その影はまるで古い物語がゆっくり息をしているように見えた。
ダルの屋しきの中では、あたたかなランプの光が長い廊下にそっと広がり、ゆらめく影が壁に細くのびていた。屋しき全体が、これから始まる夜の旅を知っているかのように、しずかに空気をひきしめていた。
入口の前には、二人の兄弟――ジェイ・ベイカーとダル・エイッカー――が立っていた。
ジェイはすでに準び万たんだった。黒いコートとゆるやかに流れるマントが、夜の風を受けて小さくゆれた。腰に下げたサーベルは、まるで長い間待っていた友のように彼の体になじんでいる。その目はまっすぐ前を見つめていたが、奥にはわずかな高ぶりと不安が入りまじり、彼の心がまだ人間らしく熱を持っていることを語っていた。
ダルはゆっくりと二本の刀を手に取り、それぞれ腰にさしていった。その動きはなめらかで、まるで彼自身が刀そのものになっているように自然だった。
—よし、じゅんびはできた。もう行くか— とダルは軽くあごを上げながら言った。夜にとけ込むような気軽さだった。
二人が大きな扉を開き、外へ出ようとしたその時。
—まって、まってください—
やわらかい声が廊下に反ひびいた。
ジェイとダルがふり向くと、小さな影がぱたぱたと走って来た。茶色いブーツの音が石の床に小さくひびき、白銀の耳としっぽがぴょんぴょんとゆれていた。
ネコティナだった。
必死にブーツをなおしながら、ちいさな足で急いでステップをふんでいた。月あかりのような銀の髪がふわりと跳ね、その目は強い決意で光っていた。
ジェイは片手を前に出し、まるで道のまんなかで車をとめる警かんのように止めの合図をした。
—ヘイヘイヘイ、ストップストップ。そんなに急いでどこに行くつもり— とジェイは真けんに言いながらも、目の奥では少しおもしろがっていた。
ネコティナは胸を大きくすって言った。
—わたしも、戦いに行きます— と決意にみちた顔で言い切った。
ダルは腕をくんでため息をつく。
—おい子ども、まだおまえにはあのバケモノとは戦えないぞ。ジェイのジャマになるだけだ。毎日れんしゅうすれば、そのうちオレたちの横で戦えるようになる— と胸を張って言った。どこか自分をほこっているような口ぶりだった。
ネコティナはくちびるをかみ、言い返そうとした。
—でも— と声がふるえたその時。
ジェイがそっと前に出て、彼女の言葉をやさしくふさぐように声をかけた。
—なあティナ、しんぱいしなくていい。おまえがあれをゆるせない気持ち、分かってるよ。でもオレたちがやる。これはただの第一歩だ。いつか気楽にぶらぶらできるくらいの力を手に入れるためのな— とジェイはほほえんだ。軽い調子の中に、ふしぎなほどあたたかい本気がまじっていた。
その時ダルが外へ出て風をうけながらふり返った。
—おいジェイ、はやくしろよ。オレは夜の方が本気を出しやすいんだ— と月に照らされながら笑った。
ジェイは苦笑し、ネコティナの頭にそっと手をのせた。白銀の耳のあいだをやさしくなでると、彼女の肩が少しゆるんだ。
—しんぱいするなよ。ちゃんと全部うまくいくから— とジェイは静かに言った。
ネコティナはほおをふくらませ、目をふせた。遊園地に行けなかった子どものように、肩を落としながらも、どこかで二人を信じている色があった。
ジェイは手をそっと離し、ゆっくりと歩き出した。
白い月が高くかかり、冷たい風が彼らのマントをふわりと押し上げた。
ネコティナは入口に立ちつくし、あたたかい屋しきの灯りの中でちいさな影になった。
そしてジェイとダルは夜の中へと歩き出した。
まるで月そのものが彼らを見おろし、物語の次のページをめくるように静かに光をそそいでいた。
夜の風はやわらかく吹き、世界そのものが静かに息をしているようだった。ダルの屋敷の外では、月が空に静かに浮かび、まるで二人の兄弟の行く先を照らす灯火のように光っていた。
ジェイとダルは並んで歩き、門へと向かっていた。石道を進むたびに足音が静かに響き、ジェイの黒いマントは夜風にゆらゆらと揺れ、まるで生き物のように形を変える。ダルの長い上着も同じように風にひらめき、二人はまるで古い物語から抜け出した英雄のようだった。
ダルが横目でジェイを見る。
—なあ兄さん、そのマント…風でひらひらさせたいから選んだんだろう?
ジェイはえらそうに指を一本立てる。
—その通りだよ、よく分かったな—
門に近づくと、自動でゆっくりと開いた。金属のわずかな音が夜に溶け、外の冷たい空気が二人を包み込む。通り過ぎたあと、門は静かに閉じた。
ジェイは月を見上げる。
—さて、どこから始めようか—
ダルはあごに手を当て、考えているフリをした。
—うーん…魔獣が多い場所とか、なにか混乱がおきている場所を探せばいいんだろうな—
ジェイはため息をつきたくなった。
—魔力の反応を探す道具とかないの? 悪い気配を探せるやつとか—
ダルは肩をすくめる。
—あるにはあるんだけど、この悪霊には役に立たないんだよ。こいつは一番見つけにくいタイプだからさ—
—じゃあ別の悪霊を倒せばいいじゃん—
ダルは空を見上げ、なんか深刻そうに言う。
—この国には二つ悪霊がいるんだ。一つは今探しているやつ。もう一つは王国のはじ、となりの国の近くだ。で、そっちに行かない理由は二つある。
一つ、こっちの悪霊が近くにいるのに、自分の土地を離れたくない。
そして二つ目は…まあ…正直めんどくさい—
ジェイは心の中でつぶやく。
(あー…カラカスでもこんな感じだったな…)
ダルは胸を軽く叩いて言う。
—でも今は理由がある。兄さんがいるからな—
二人は歩みを止め、作戦を立てようとした。だが、まったく話がまとまらない。
—王国全体の地図に線ひいて、場所をしぼっていくとかどう?—とジェイ。
—コインを投げて、落ちたほうに行くのはどうだ?—とダル。
—魔力のゆがみを感じ取るとか—とジェイ。
—パンくずを落として歩くとか—とダル。
—また童話かよ!—
—歩きたくないだけなんだよ兄さん—
しばらく言い合ったあと、突然ダルが手を打った。
—よし! 完ぺきな作戦を思いついた!—
ジェイは眉を上げる。
—どんな?—
ダルは自信たっぷりに言う。
—別行動だ! 俺は北の道を真っすぐ行く。兄さんはちょっと西へ。遠すぎないようにな。なにかあればすぐ合流できる。これで決まりだ—
ジェイがうなずく。
—いいね。それでさ、俺の新しいバージョ…—
—1、2、3! いくぞ兄さん!—
ダルは言い終える前に突然ダッシュした。人間とは思えない速さで走り去り、風と砂ぼこりだけが残る。
ジェイはぽかんと立ち尽くす。
—…ョン——
そして空に向かって叫んだ。
—クソッ! せっかく自慢しようとしたのに!—
夜空は静かに、まるで笑っているように光っていた。
月あかりが道を白くみちびき、風は木のあいだから静かに歌っていた。夜の森は深い息をしているようで、そこに立つジェイはひとり胸の中でつぶやいた。
—えっと…二年間ずっと休まずにれんしゅうしたんだよな…?こういう物語なら今のぼくは強い勇者にも勝てるはず…だよな、だよな—
心の声はふあんと期待でゆれていた。まるでプレゼントを開ける前の子どものように。
ジェイは深く息をすい、力をぬいて言った。
—よし…本当にれんしゅうのこうかがあるか…ためしてみるか—
思い出すのは「火の次元」。そこでは重力は鉄のように重く、空気は熱く、地面はいつも赤くひえていた。二年間、そのせかいで走り、転び、立ち上がりつづけた。
そして今。
ジェイは一歩ふみ出し、また一歩ふみ出した。
—このせかいの重力はあっちよりぜんぜん弱い…ここならもっと速く走れるはずなんだけどな…でも…あんまり変わらない気がする—
そう言いながら走りだす。
木々が影のように流れていき、風が耳のわきで切れる。
気づけば、彼の足は以前よりはるかに速く動いていた。学生だったころの平凡な走りとはまったくちがう。まるで大会で走るせんしゅのように、力強く、正確で、ぶれがない。
しかし、それでも満足はしなかった。
—すごいけど…ぼくが思ってたほどじゃないな—
ジェイは眉をしかめ、地面を見つめた。
—…いや、まてよ。もし「アレ」を使ったら…?—
彼の心にうかんだのは「バージョン2」。
短く「V2」と呼んでいる、自分の力を大きく高める技。あの火の次元で身につけた、不完全だが強力な変身。
ジェイはそっと拳をにぎった。
ふるえる地面。
そして——
彼の目が変わり始めた。
黒い瞳が、ゆらめく火のような赤に変わり、また黒に戻る。その点滅はまるでふたつの自分が争っているようだった。やがて虹彩には小さな炎のマークがきざまれた。それは火の精霊のしるし。
—体が…すごく軽い…重力がないみたいだ…ほんの少し地面にさわっただけで次の場所に飛んでる感じだ—
ジェイは手を見つめ、自分の体を見おろす。そこにあるのは確かに自分なのに、なにかちがう。皮ふの下に力がながれているのがわかる。
—さて…こういう物語なら…走る前にポーズが必要だよな—
ひとつポーズをとる。
もうひとつ。
さらにもうひとつ。
森の中で、妙なポーズをする黒いマントの男。さすがに自分でも笑えてくる。
—いや違う…これも違う…おっ、これは…—
ようやく決めたポーズは、前の足を軽くまげ、上半身を前に倒し、うしろの腕を引き、前の腕をわずかに出す形だった。彼の記憶にあるヒーローを思わせる姿。
—ぼくの世界のヒーローににてるけど…まあいいか—
そしてジェイは前足にゆっくりと力をこめた。
地面が沈む。
ひびが走る。
風が彼を中心にうずをまく。
マントがふき上がる。
赤い目がひかる。
火のマークが燃える。
そして——
ジェイは夜の道へ光のように走り出した。




