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第2章.10 - 2日目

朝の不安


 朝日がゆっくりと昇り、ダルの大きな館を金色に照らしていった。静かな廊下に光が流れこみ、夜の気配をやさしく追い出す。その館はダルのもので、暗い力の気配と夜の花の香りがまじった、不思議で少しさびしい空気がただよっていた。


 ネコティナは目をひらき、ダルの客室でゆっくりと上体を起こした。耳が小さく動き、しっぽが不安げにゆれた。


(ジェイ……まだ帰ってこない。何かあったの……?)


 そんなつぶやきを胸に、階段をおりていく。軽い足音が館の広さに吸いこまれていった。


 食堂に入ると、三人のメイドがすぐに並び、小さなお辞儀をした。


「ネコティナさま、きょうの朝ごはんは何にしますか?」


「パンと肉でいい」


 短く答えると、メイドたちはあわてて準備に向かった。


 ネコティナはそのまま外庭へ向かう。朝の風はひんやりしていて、草についたしずくが光のつぶのようにきらめいていた。


 そして——

 その広い庭のまんなかで、ダルが地面にはいつくばっていた。


「ジェイ……どこに行ったんだよ……。なんでロウソクの火みたいな小さい炎に飲まれて消えるんだよ……どこだ……どこに落ちたんだよ……!」


 地面を指でつつきながら、まるで米つぶを探すように、真剣で、そしてちょっと必死だった。


 ネコティナが軽く咳をした。


 ダルは飛びあがるほど驚き、ぎこちなくふり返った。額には一筋の汗。


「お、おはようネコティナ……! えっと……今日もすばらしい二日目のれんしゅうをしようか? ジェイは……えっと、あれだ、来てすぐ出かけたから心配しなくていいぞ! はは……!」


 あきらかに不自然な笑顔。

 ネコティナは細めた目でじっと見つめた。


「そ、そうだネコティナ……文字は読めるのか?」


 ネコティナは答えずただ見つめる。


 よくわからない空気をごまかすように、ダルは紙を取り出しネコティナに渡した。


「ここに、お前の名前を書いてみたんだ。これで合ってるか?」


 ネコティナは紙を見たあと、首を横にふった。


「わたし、自分の名前ぐらい書ける。ペンちょうだい」


「お、おう!」


 ダルは慌ててポケットからペンを出す。


 ネコティナは静かに紙に文字を書いた。

 この世界の文字で書かれたその名前は——ネコティナではなく、


 ネコティナ(Nekotyna)


 わずかな違い。それでも本当の名前。


 ダルは目をみひらいた。


「じゃあ……俺とジェイ、ずっと名前まちがえてたのか……?」


「そう。でも、気にしてない」


 あっさりした声に、ダルは気の抜けた笑いをもらした。


「は、はは……そっか……じゃあ、きょうのれんしゅうを始めるか。ジェイが帰って来る前に……な?」


 ネコティナは疑うような目をしていたが、しずかにうなずいた。


 朝の光はますます強くなり、庭の草や花をあたたかく照らした。鳥のような魔物たちがひらひら飛び、やわらかな歌声を響かせている。


 けれど、その美しい朝の下で——

 ジェイはいない。

 ネコティナは心配し、

 ダルは隠しごとをしている。


 静かな朝に、どこか不吉な風がまじっていた。


ダルの屋敷の庭は、朝の光にゆっくりと染まりはじめていた。

まだ眠そうな太陽が、白い石畳と草の上に、やわらかな光を落としていく。

冷たい風がふわりと流れ、しずかな朝の香りが広がった。


その広い庭の中央で、二つの影が向かいあっていた。


一人は、黒い衣をゆるく羽織り、刀を肩にのせた青年――ダル・エイカー。

もう一人は、うすい銀色の毛並みを持つ少女――ネコティナ。

銀色の耳が小さく動き、長いしっぽがゆっくり揺れる。

彼女の目はふだん淡い銀だが、戦う前の緊張でどこか光を含んで見えた。


三人のメイドが箱を一つずつかかえ、すっと庭に現れる。

ダルの前に箱を置き、かるく礼をして、静かに去っていった。

その動きは風のように正確で、すべてが予定されていたかのようだった。


ダルは刀をひらひらと軽くゆらし、口元をゆるめる。


—始めろ、小さいの—

と、まるで朝のあいさつのような軽い声で言った。


ネコティナは少しだけ眉を寄せる。

言い方が気に入らない。だが黙って従うことを選んだ。


彼女は深く息をとり、手の中の力をかるく握った。

その瞬間――目の色がすっと変わる。

銀色から、やわらかい金の光へ。

それは炎のようではなく、静かな灯りのようにゆらめいた。


そしてネコティナは、小さく呟いた。


—otneiv ed sachelf—


空気がふるえた。

彼女のまわりの風がさざ波のように広がり、草が揺れ、銀色の髪がふわりと浮く。

次の瞬間、頭上に風の矢がいくつも生まれた。

透明で、細く、回転しながら形をととのえていく。


ネコティナは手をふり下ろした。


風の矢が疾走する。

空気を切り裂きながら一直線にダルへ向かった。


しかし――


ダルはため息のようにゆっくりと刀を動かしただけだった。

その一太刀は、まるで紙切れを裂くように、矢をさくさくと消し去っていく。


—おそいな—

その声は、あまりにも軽い。


ネコティナの耳がぴくりと動く。

しっぽがわずかに逆立った。


悔しさが胸に灯る。


もう一度、深呼吸。

もう一度、魔力をたぐり寄せる。


金の光が強まる。

空気が、鋭く張りつめる。


—otneiv alob—


胸の前に、風の球が生まれた。

ぐるぐると回転し、小さな渦の音を立てながら膨らむ。

ネコティナはそれを押し出すように投げつけた。


風の球は、地面の草をゆらしながら一直線に走った。

空気のねじれが目に見えるほど強い。


だが――


ダルはただ、首をかしげただけだった。

刀がひとすじ光り、球は一瞬で霧のように消えた。


魔力が体から抜けるように、ネコティナの金色の瞳がふっと銀色に戻る。

肩が上下し、呼吸が荒くなる。

ポケットから回復の小びんを取り出し、無言のまま飲みほした。


ダルはゆっくりと歩きよる。

靴が庭石の上でこつこつと音をたて、その音がやけに大きく聞こえた。


—もう一回—

と淡々と言う。


ネコティナはダルをにらむ。

しかし、その目の奥には火のような意志があった。


再び、目が金色に染まる。

再び、風が目覚める。

矢が生まれ、球が放たれる。

そしてダルの刀が、それらをたやすく消す。


朝は昼に変わり、昼は午後へ行こうとしていた。

風に溶けた魔力の匂いと、ネコティナの呼吸だけが庭に残る。


ダルは刀を肩に乗せ、かるく笑った。


—悪くないぞ、小さいの。でも、まだまだだ。とてもな—


ネコティナは反応しない。

が、銀のしっぽはほんの少しだけ揺れた。


—さあ、続けるぞ。ジェイが帰るまでに、おまえが一歩でも前へ進めるようにな—


ネコティナはダルをじっと見つめた。

小さな胸の奥に灯った炎は消えていなかった。


—やるわ—

その声は静かだったが、風より強かった。


そして、朝の光がふたたび差しこんだ。

二人の影が、庭の中心にのびていく。


ダルの屋敷の中庭には、ゆっくりとした時間だけが流れていた。

朝に昇りはじめた太陽は、今では空の高みに静かに座り、白い光を地面へ落としている。

草の上に残った朝露はその光を受けてきらめき、風が吹くたび小さく震えた。


しかし、ネコティナにとって空はもう動いていないように感じられた。

あるいは、動かないのは自分の体のほうなのかもしれない。


訓練は、ずっと同じだった。


終わりの見えないくり返し。

疲れても、苦しくても、息が切れても、すぐにまた最初へ戻る。


ネコティナは小さく息を吸い、震える胸をなんとか広げる。

その瞬間、彼女の銀色の目はゆっくりと金色に変わる。

弱い光だが、確かに燃えているような黄金色。


そして、逆再生の呪文を口にした。


まずは、風の矢。

透明な刃たちが空に生まれ、ふわりと光をまといながら形を作る。

まるで世界そのものが彼女の呼吸に合わせて動いているようだった。


矢は静かに放たれ、ダルへ向かってまっすぐ落ちていく。


だが、結果は毎回同じ。


ダルはただ剣を軽くふるうだけだった。

大きな動きではない。

時々、その動きはあまりに小さく、誰かが見逃してしまうほどだ。


剣が空を切った瞬間、矢は砂のように消えていった。


続いて、逆再生の風玉。

風のかたまりがネコティナの目の前でうずを巻き、彼女の銀色の髪をふわりと持ち上げる。

まるで風の精霊がその中で泣いているような音がした。


ネコティナはそれを放つ。

地面の草が逆立ち、砂ぼこりが巻き上がり、小さな衝撃が前へと押し出される。


しかし、それも一瞬で終わる。


ダルが一度だけ剣を振るえば、風玉はまるで夢のように砕け散った。


ネコティナは、また力が抜けてひざをついた。

呼吸は苦しく、胸は焼けつくようで、体の重さは鉛のようだった。

尻尾は完全に力を失い、地面にぺたりと落ちる。


汗が額を伝い、土とまざって黒いしずくになって落ちていく。

彼女は回復の薬を一気に飲み干した。

何本目かは、もう思い出せない。


少し息が戻ると、彼女はまた顔を上げる。


そこには、いつも通りのダルが立っていた。


まるで山のように動かず、疲れを見せず、表情も変えない。


彼はただ一言だけ言う。


—立て


それだけで十分だった。

その声は静かで、冷たくて、そして重い。

逆らえないものだった。


ネコティナは震える足でゆっくりと立ち上がる。

足は石のように固く、指先はしびれ、息は荒い。


それでも、立ち上がる。


そしてまた、呪文を唱える。


風の矢。

ダルが切り裂く。

風玉。

ダルが砕く。

倒れる。

薬を飲む。

立つ。


そのくり返し。


八時間が過ぎたころ、太陽の光は少しずつ弱まり始めていた。

空の色は柔らかくなり、風は重く、土と汗の匂いを運んでくる。


ネコティナの体は限界に近かった。

手はしびれ、呼吸は乱れ、脚は震え続けている。


それでも、彼女の目の奥には小さな光があった。

弱くても、消えない火。


ダルは黙ってそれを見ていた。


彼は何も言わないが、確かに気づいていた。

ネコティナの力ではない。

魔法の強さでもない。


その目に宿った、消えない意志に。


—続けるぞ


ダルは静かにそう言った。


ネコティナはゆっくりとうなずき、足を一歩前へ出す。

まだ終わりではない。

そして、また風が彼女のまわりに集まりはじめた。


二日目は、まだ終わらなかった。

訓練の輪もまた、終わらなかった。


夕日が沈みはじめ、空は橙と紫がまじり合う静かな色へと変わっていった。ダルの屋敷の庭は、八時間にわたる訓練の跡がそのまま残っている。風の魔法でえぐれた地面、そしてダルの刀によって切り裂かれた草。静まり返った庭の空気は、汗と緊張の名残をまだ抱えていた。


ネコティナは小さな手でポーションを持ちながら、ゆっくりと息を吐く。消耗しきった身体はふらつき、銀色の狼耳はしおれた花のように垂れていた。彼女はひと口飲むたび、わずかに力を取り戻すが、その瞳には一日の厳しさがはっきりと刻まれていた。


ダルは腕を組み、やや疲れたが楽しげな表情で彼女を見ていた。ネコティナがポーションを飲み終えるのを確認すると、彼は軽い皮肉を混ぜた声で言った。


—よし、終わりだ、ガキ。今日の訓練はこれで終了だ。あいつもそろそろ戻る…はずだよ —ダル


ネコティナは銀の瞳を細め、ほんの少しだけ首をかしげた。


—はず? —ネコティナ


—ああ、まあ…その、ほら。ジェイはいつも突然来て突然消えるタイプだからな。すぐ戻るさ。…たぶん —ダル


笑ってみせたが、その笑いは引きつっていた。

本当は──ダルにはジェイがどこにいるのか、まったく分かっていなかった。


あの小さな光の爆発。

あの意味不明な消失。

考えたくないほど嫌な予感。


だがネコティナに本当のことを言うわけにはいかない。

心配させたくなかった。

そして何より、自分自身が不安を認めるのが嫌だった。


ネコティナはそんなダルの様子をじっと見つめ、静かに口を開いた。


—あなたとジェイ…何なの? —ネコティナ


ダルは一瞬、目を瞬かせた。完全に意表を突かれた顔だった。


—ジェイ? あいつはオレの弟だ。二ヶ月ほど年下だ —ダル


ネコティナはさらに首をかしげる。


—弟? ならどうして苗字がちがうの? ジェイはベーカーで、あなたはエイカー —ネコティナ


夕風が二人の間を通り抜け、草がさらりと揺れた。


—ああ、それか。オレたちは父親が同じなんだよ。母親はちがう。

オレの名前はダル・エイカー・デ・ロス・アンデス。

そしてあいつはジェイ・ベーカー・デ・ロス・アンデス —ダル


—アンデス…? —ネコティナ


—そうだよ。まあ細かいことはいいだろ。

とりあえずガキ、お前はシャワー浴びて飯でも食え。

オレは…その…ジェイを探す準備でもしておくよ —ダル


最後の言葉はどこか弱々しく、無理に強がっているようだった。


二人は屋敷の玄関へ歩き出した。ネコティナは疲労に足を引きずり、ダルは胸の奥の不安を押し隠しながら無理に軽い足取りを装っていた。


だが玄関に手が届こうとした瞬間──


空気が震えた。


最初は小さな音だった。

ブゥン…という低い唸りのような震動。


しかしすぐに、その音は激しく膨らんでいった。

庭の葉がざわめき、空気がねじれ、世界そのものが軋むような音が響く。


そして──裂け目が生まれた。


バキィッ…!


空間がひび割れ、赤黒い光が漏れ出す。

まるで空間が心臓のように脈打ちながら破けていく。


ネコティナの銀色の耳がピンと立つ。

ダルも即座に刀に手をかけ、眉をひそめた。


庭の中央に、光の亀裂が広がっていく。

空気は波打ち、視界が歪み、何かが這い出ようとしていた。


まさか──


二人の喉が同時に鳴った。


そしてひび割れの奥から姿を現したのは……

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