第2.6章 - 猫の目
数分ほどベッドでぐだぐだしていたジェイは、ゆっくりと片目を開けた。
「ティナどこだ? 着替えるだけって言ってたのに…」
重力が二倍になったような動きでベッドから起き上がると、だるそうに部屋を出る。
そして子犬を呼ぶような声で階段に向かって叫んだ。
「ティナー! ティナー、こっち来いー!」
階段を降りると、広いリビングの前に着く。そこではダルが大きな本を読みながら、暖炉の前でフルーツをつまんでいた。
ダルは顔を上げずに言う。
「おまえ、ちょっと声が大きいな。壁にふとんでも貼らないと聞こえそうだ。」
ジェイは目を細めながら言い返した。
「はいはい、エイカーお嬢さま。ごめんなさいね、エイカーさん。」
完全に皮肉である。
ジェイが本題を切り出す。
「なあ、ティナどこだ?」
ダルはページをめくりながら答える。
「たぶんメイドたちといっしょに可愛い服を着せてもらってるだろ。
それより、おまえその破れたシャツで歩くの、みっともないと思わないのか?」
ジェイは胸に手を当て、なぜか誇らしげに言う。
「もうメイドさんに紙で説明したし。おまえ、ちゃんと読んで伝えたんだろ?」
ジェイがそう言った瞬間、ダルはビクッとし、目を見開いた。
視線が左右に泳ぐ。
「も、もちろんだとも。ええ…そのまま、まちがいなく…」
ジェイは疑いの目を向けた。
絶対なにか隠している。
ダルは話題を切り替えるように咳ばらいをして言った。
「それと、今の服を直したいって聞いたぞ。まだ前の世界に未練があるのか?」
最後まで言わせず、ジェイは割り込んだ。
「いや、あの服カッコいいだろ! センスあるんだよ!」
ダルは手をひらひらさせながら、
「はいはい、そうですか。——でな、そろそろ剣の練習をするぞ。」
「……は?」
ジェイは固まった。
ダルはにやりと笑い、やけに軽い声で続ける。
「この世界に来たからには、生きるだけの力が必要だろ?
それに……もし練習しなかったら、おまえをこの家から追い出す。」
ジェイの背中に冷たい汗が流れた。
冗談…のはず。
たぶん冗談…?
いや、ダルの場合は分からない。
「……はいはい、やりますよ。やればいいんだろ。」
こうしてジェイは、望んでもいない剣の修行を受けることになった。
せっかく始まるはずだった“金持ちヒモ生活”は、どうやら短命で終わりそうだった——。
屋敷の外に出た時、太陽はゆっくりと沈み始めていた。
そしてその庭は——もはや「庭」という言葉では足りなかった。
そこは広大な平原のようにどこまでも続き、よく手入れされた芝生が緑の海のように風に揺れていた。
両側には丁寧に整えられた木々や低い生け垣が並び、その奥には光を浴びて黄金色に染まる大きな木々が立ち並んでいる。
空気は新鮮で、土と草のやさしい香りが鼻をくすぐった。
上から見下ろせば、もう一つの屋敷が建てられるほどの巨大な空間だった。
貴族の庭というより、王の庭と言った方が正しいのかもしれない。
ジェイは思わずつぶやいた。
「……クソでか……スターウォーズの軍艦全部おけるんじゃね?」
ダルは胸を張り、まるでこの広さそのものが自分の力だと言わんばかりに歩いていく。
ジェイも反対側の端に立った。
二人は向かい合った。
黒い瞳のジェイと、血のように赤い瞳のダル。
その視線が交わるだけで、空気が震えるようだった。
ダルが手を上げ、大声で叫ぶ。
「おーい兄貴ー! 武器ないなら、オレも刀は使わねぇよ! 泣くなよー!」
ジェイは鼻で笑い返す。
「ハイハイどうぞ〜。地球じゃ毎回負けてたくせに、生意気言うなよクソ弟が!」
ダルはニヤッと笑う。
ジェイは拳を握りしめた。
風が吹き、二人の服を揺らす。
まるで世界が、この瞬間を見守っているかのように。
そして——
戦いが始まった。
ジェイは地面を蹴り、一気に前へ飛び出した。
砂ぼこりが小さく舞い上がる。
彼の動きは決して美しくはない。
けれど、まっすぐで、必死で、魂がこもっていた。
右のストレート。
だがダルは、首をほんの少し傾けるだけで避けた。
左のフック。
ダルは軽く一歩下がる。
ヒザ蹴り。
ダルは風のように身をひらりと回転させて避けた。
ジェイの連撃は次々と放たれた。
十発、二十発……
だが、どれも当たらない。
ダルにとっては、雨粒をよけて散歩するようなものだった。
「それだけかー? ジェイ?」
ダルは楽しそうだ。
「うるせぇ! 当たれよこのクソ弟ー!!」
ジェイは叫びながら、さらに攻撃を重ねた。
だが——
ダルはあくびをした。
「もう飽きた。」
その瞬間。
ダルの足が、視界から消えた。
次の瞬間、
ドンッ!
という衝撃がジェイの腹を襲い、彼の体は吹き飛ばされた。
息が、抜けるというより「奪われた」。
「ぐっ……は……っ……!」
地面に転がりながら、ジェイはなんとか言葉を絞り出す。
「これ……剣の……訓練じゃ……ねぇのかよ……クソ弟……」
ダルは声を上げて笑った。
「素手もできねぇ奴が武器とかムリだろ〜? なぁ兄貴?」
ジェイは歯を食いしばり、地面に手をついてゆっくりと立ち上がろうとする。
「負けねぇ……負けねぇぞ……ここで……また負けるわけには……いかねぇんだ……」
弱々しい声。
だが、その奥にあるものは強かった。
ジェイは立ち上がる。
へろへろの体で、ぐらつく足で。
ダルはそんな兄を見て、まだ笑っていた。
そう——
その瞬間までは。
ジェイの周りの空気が震えた。
最初はほんのわずかな揺らぎ。
だが次第に熱が生まれ、空気が赤く染まり始める。
チリ……
チリチリ……
ジェイの体の周囲に、小さな炎の粒が浮かび始めた。
純粋な、まるで生きているような炎。
そして、ダルは息をのんだ。
「……まさか……」
ジェイから溢れ出す炎。
微弱だが、圧倒的に「特別」な火。
そして——
ジェイの背後に、浮かび上がった。
赤い、獣のような二つの目。
形はなく、ただ目だけが存在する。
だがその眼光は鋭く、獰猛で、堂々としていた。
血のような深紅の瞳が、ダルをじっと見下ろしている。
まるで言っているようだった。
「——ここにいる。」
ダルの背中に冷たい汗が流れた。
だが同時に……
胸の奥から込み上げるような興奮と誇り。
そして、ゆっくりと笑った。
「……へぇ……最高じゃねぇか……ジェイ。」
それは兄としての笑み。
戦士としての笑み。
そして、ずっと待っていた何かをようやく見つけられた者の笑み。
ジェイ・ベイカーの中で何かが目を覚ました。
彼自身すら知らなかった「力」。
いや——
「炎」。
ジェイはふらつきながらも立ち上がり、まっすぐダルの目を見つめていた。
さっきまでゆらゆらと揺れていた炎は、風に消える火花のように一瞬で消え去った。
何も起きていなかったかのように、庭の空気は静かに戻っていく。
ダルは一歩前に出て、珍しく真面目な顔でジェイを見た。
「ジェイ、お前…どこかの精霊と契約でもしたのか?」
その目には、誇りと警戒が入り混じっていた。
ジェイはきょとんとして首をかしげた。
「は? 異世界あるあるのやつ? いやいや、まだそれは無いよ」
ジェイはへらっと笑い、軽い口調で続けた。
「でもさ、火のジャガーには会ったよ。しゃべるし、火のエレメンタルって名乗ってた」
ダルは一瞬固まり――
次の瞬間、腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ! さすが俺の弟だ! しかも俺たち二人、アニメずっと見てたのにな!」
ジェイは肩をすくめた。
「いや、兄ちゃんの方が三倍オタクだったけどね?」
ダルの笑いが止まった。
「……だまれ」
咳を一つして、すました顔に戻ろうとするが、ジェイはみごとにそれを見て笑い声を上げた。
ダルはため息をつきながら、屋敷の方へ歩き出した。
「俺は中で何か食う。お前もあまり外で遊んでるなよ」
ジェイは肩を回しながら空を見上げた。
その時、心の中に熱い声が響いた。
――時だ、ジェイ。文句を言うな。別れの時間も無い。
ジェイは眉をひそめた。
「何言ってんの、エレメンタル? そんな意味不明なこと言うなら猫の部屋に入れるぞ。てかさ、なんか急に体が熱くなってきたんだけど。お前、何か知って――」
言葉が終わる前に、地面がパキッと音を立てた。
足元に、あの時と同じような裂け目が開く。
だが今回は、ふちが小さな炎でゆらめいていた。
まるで地面そのものが呼吸しているように、赤い光が脈打つ。
「ちょっ、ちょっと待っ――!」
ジェイの体はそのまま裂け目に飲みこまれ、ぱたりと閉じた。
ダルはジェイの叫びを聞いてゆっくり振り返った。
「何だよ弟? 足でもくじ――」
そこにジェイはいなかった。
残っていたのは、小さな炎。
ろうそくほどの大きさの、小さなゆらぎ。
ダルの目が、口が、驚きで大きく開いた。
「……ジェイ?」
風がやさしく吹き、炎がかすかに揺れた。
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気がつくと、ジェイは空の中を――ただひたすら落ちていた。
青でも黒でもない、どこまでも広がる白い空間。
風が顔をたたき、体がくるくる回り、落ちているのにどこに向かっているのかすら分からない。
-た、たすけてぇぇぇ!! えーと、フライ! フライング! ウィング! なんでもいいからうごけぇぇぇ!-
ジェイの叫びはむなしく空に消えた。
魔法も光も起きない。ただ落ちるだけの、どうしようもなく地味で悲しい時間が続く。
そして――
ドスンッ。
衝撃はあったが、まるで柔らかいベッドに落ちたような軽い着地だった。
ジェイは目を開けて周りを見た。
そこは山のてっぺん。
丸い草の広場がぽつんと浮いているようで、そこから先はすべて雲。
地面はふかふかの草で、風はすこし温かい。
見える景色は、まるで空にうかぶ島。
その時だった。
グルルル……と低い、よく知る声。
ジェイが振り向くと、そこにいた。
火の毛皮をまとったジャガー。
赤い目が静かに光り、尾の先までゆらゆらと炎がゆれている。
まるで空の王のように、ゆったりとすわっていた。
-あ、どうも。火のエレメンタルさん。なんでここにつれてきたんですか?-
ジャガーはおおきくあくびをした。
-え? なに? きこえない、きこえない。おまえをここに連れてきたのはな……いきのびるための、れんしゅうのためだ。ものすごくだらしないおまえのためにな。-
その口調は完全にだるそうで、ジェイは一瞬でやる気を失った。
だが、次のことばで一気にテンションがもどった。
-じゃあ……じゃあさ! ついに魔法とか、なんか伝説の武器とかなにか使えるようになるの!?-
ジャガーは一秒だけジェイを見つめ――
大笑いした。
-ハッハッハッハッハ!! まほうはワンチャンある。だが伝説のぶき? おまえのあたま大じょうぶか? ハッハッハ!-
ジェイの心が砕けたような音がした。
しずかに質問する。
-じゃあ……せめて、よくある「ファイアボール」とかは? みんな言ってるでしょ?-
ジャガーはきょとんとした。
-ファイアボール? それ、なんだ? おまえほんとにバカなのか?-
ジェイは叫んだ。
-ど、どこでもそれ言って火を飛ばすんだよ! しらないの!?-
ジャガーはしっぽで地面をトントンしながら言った。
-これから二年、れんしゅうだ。この場所じゃ年をとらない。お腹もすかない。びょうきもない。だけど……ねむいのと、きずのいたみはある。-
ジェイは手をあげた。
-はい、キャンセルで。 もどして。-
ジャガーは鼻で笑った。
-むりむり。これはおまえの母のめいれいだから。おまえにえらぶけんりはない。ハハハ。-
ジェイの声が空にひびく。
-ちくしょぉぉぉぉ!!-
その気合いのない絶望の声は、雲たちに反射して何度もこだました。
空のむこうは夕やけになり、金色のひかりが草の上でゆれる。
あまりにもきれいな景色で、逆にジェイは泣きそうだった。
ジャガーが立ち上がった。
-まあ、しんぱいするな。こっちは二年でも、おまえの兄とあのオオカミむすめの世界では、一日か二日しかたたない。だからがんばれ。-
そして言った。
-さあ、れんしゅうだ。シャツをぬげ。ズボンだけでいい。-
ジェイは真顔になった。
-なんでトレーニングの最初がシャツをぬぐところなんだよ!?-
-おれがそう決めたからだ、サル。-
こうして、ジェイのまったく予定していない新しい地獄――いや、冒険が始まった。
彼が思っていたのはただひとつ。
(……メイドさんのいる屋敷にもどりてぇ……)




