第2.5章 - 大豪邸
馬車のゆれは静かで心地よく、まるで道そのものが子守歌を歌っているようだった。
木の香りと新しい布のにおいが車内に広がり、朝日の金色の光が窓から差しこみ、ゆっくりと動くように床に線を描いていた。
ジェイはネコティナと同じ席にすわっていた。
ネコティナは窓の外を見つめながら、小さく息をもらす。流れていく景色は絵本のようだった。ゆれる草原、風にゆれる木々、そして朝日に染まる空。
彼女のふわふわした灰色のしっぽは、ジェイのひざの上にのっていた。
まるで母が子を守るような、あたたかいしぐさだった。
その横でジェイは――なぜか――ダーリュと真剣にじゃんけん勝負をしていた。
「グー!!」
ジェイが手を出す。
「パー。」
ダーリュは落ちついた声で言い、軽く勝利の笑みを見せた。
ジェイはまたも敗北した。
ダーリュは腕を組んですわり、兄らしい余裕の表情でジェイを見ていた。その顔にはわずかにからかう色がある。
しばらくして、ジェイはふと思いついたように顔を上げた。
「なぁ……馬車、だれが運転してるんだ?」
ジェイが真顔で質問する。
ダーリュはまったく迷わず答えた。
「馬たちだけだよ。とてもよく訓練されてる。」
ジェイはまばたきを二、三回した。
「……オート馬?
まぁいいや。深く考えると頭痛くなる。」
そう言って肩を落とした。
ネコティナは「ふん」と鼻を鳴らして、あきれたようにジェイのほうをちらりと見る。
じゃんけんに飽きてきたころ、ジェイはダーリュに体を少し乗り出した。
「なぁダーリュ。
お前はどうやってこの世界に来たんだ?
何があった?
どれくらい強いんだ?
どうやってそんな強さを手に入れたんだ?
というか二本の刀とか何キャラだよ……?」
ダーリュはゆっくりと目をあけ、口の端を持ち上げて笑った。
兄特有の「教えてあげない」笑いだった。
「まだ教えない。」
ダーリュはあえてゆっくりした声で言い、ジェイをじらす。
「理由はひとつ。
おれはサスペンスが好きなんだ。
ただ一つだけ言うよ。
この二本の刀はね……おれの力が暴走しないようにする封印なんだ。」
ジェイは呆れた顔で息をついた。
「封印とか……もういい。
深堀りしたらめんどくさくなる。」
そう言って背をもたれに預ける。
ダーリュは軽く笑った。
「そうだろ? お前は長い説明がきらいだからね。」
馬車は進み続け、朝の光が強くなっていく。
影は後ろへ退き、空はゆっくりと昼へ変わろうとしていた。
兄弟はその後も、しょうもないミニゲームで盛り上がった。
コイン投げ、数字あて、親指相撲――そのほとんどをジェイが負けた。
ただ一回だけ勝てたのは、ネコティナが席を動く時、しっぽでジェイの背中を押してしまったからだった。
ネコティナはずっとジェイのそばで、まるで「また変なことしないでよね」と言いたげに、しっぽを軽く巻きつけたり、ちらりと視線を向けたりしていた。
朝日が馬車を満たし、笑い声がゆっくりと広がる。
この世界は不思議で、むちゃくちゃで、理解できないことばかりで――
それでも。
ジェイは久しぶりに、心から “悪くない” と感じていた。
ダルは胸を張り、まるで“この屋敷は全部俺のだぞ”と言わんばかりの堂々とした歩き方で先を進んでいた。
その背中はやけにキラキラしていて、光が差し込むたびに主人公ぶって見えるのが腹立つほどだった。
そのすぐ後ろにはジェイ。
信じられないという顔で、口を半開きにしたまま歩いていた。
ネコティナはジェイの服のすそを小さな手でつまみ、しっぽをゆらゆらと揺らしながら歩く。
彼女の灰色の瞳はきょろきょろと動き、広い屋敷の内部をただ眺めていた。
興味は薄いが、あまりにも広いため見ざるを得ない、そんな感じだった。
大理石の床は鏡のように光り、ジェイたちの影を足元に映していた。
壁には大きな絵画や金色の装飾が並び、天井には小さな星のように輝くランプがいくつも吊るされていた。
ジェイは生唾を飲みこんだ。
――どうやったら…どうやったらダルがこんな物を手に入れるんだよ…!?
宝くじ? 竜退治? 宗教の教祖?
何したらこんな家もらえるんだよ!?
理解が追いつかない。
兄がカラカスで消えて、異世界に来て、そして今は大豪邸。
ジェイの胸に湧くのは困惑と…そしてかなり大きな嫉妬だった。
屋敷の巨大な扉に近づいたとき、ジェイはふと考えた。
――何かおかしい。
豪邸、執事、完璧な掃除……
一人でできる量じゃねえ。
ってことは……つまり……
扉が開いた。
ジェイの思考が止まった。
ネコティナは目をぱちぱちさせた。
ダルはドヤ顔で微笑んだ。
そこには六人のメイドが整列し、完璧なタイミングでお辞儀をしていた。
クラシックなメイド服、清潔なエプロン、生地の揺れ、香る柔軟剤。
だが一番目を引いたのは――皆が亜人だったことだ。
猫耳の少女。
ふわふわのしっぽを持つ少女。
金色の蛇のような瞳を持つ少女。
そして奥には――
銀髪で長い耳を持つ、美しいエルフのメイド。
ジェイの魂が体から抜けかけた。
「やっぱりだああああぁぁぁ!!」
ジェイは空に向かって叫んだ。
「これ以上ないほどのテンプレだよ!! 知ってたよ!! メイド付きの豪邸とか反則だろ!!」
メイドたちはきょとんとした。
ネコティナは驚いてジェイの服をぐいっと引っ張った。
ジェイは勢いよくダルを指差す。
「オイ、ダル! お前、オレが獣人少女に会ったのを“テンプレだな”って笑ってたよな!?
でもな、メイド軍団はテンプレ超えてんだよバカ!!
どこから集めてきたんだよ!?
てかなんでそんな金持ちなんだよ!!」
ダルは耳をふさぎ、肩を揺らしながらニヤニヤ笑っていた。
完全にジェイを煽っている。
「まあまあ、そういうこともあるんだよ」
ダルは鼻で笑いながら言う。
「異世界に来たからには、これくらいの屋敷は“義務”だろ?
あとはババアロリが来ればコンプリートだな」
ジェイは顔を青くして叫んだ。
「このやろう…! ダル…! オレの心配返せ!!」
その時、メイドたちが揃って深く礼をし、
「お帰りなさいませ、ダル様。」
と声をそろえた。
ジェイの心に何かが崩れ落ちた。
ジェイは素早くダルの横に寄り、小声で、早口で、表情ガチのまま囁いた。
「なあダル……エルフのメイドってどこで手に入る?」
ジェイはネコティナと一緒に、広い階だんをゆっくり上がっていった。
赤いカーペットは足おとをすいこむようにやわらかく、天じょうに下がるクリスタルのランプは小さな光のしずくを空気にばらまいていた。
ジェイは胸をはって大きな声で言った。
「おーい! オレは見つけたへやをそのまま使うからなー!」
その声は長いろう下でひびき、まるでこの大きな屋しきが彼をからかうように反射した。
ろう下の一番おくに、すこし古いもんようがほられたドアがあった。
ジェイはネコティナをつれてゆっくり歩き、そのドアを開けた。
そして――目がとまる。
へやは、とてつもなく広かった。
赤いカーテンには金のいとで花のもようがぬわれ、ガラスのドアからはやわらかな光が流れこみ、まるで朝の空気そのものをへやに入れているようだった。
大きなベッドは白いくもをギュッとまとめたようで、すわるだけで体がしずみそうだった。
木でできた机や大きなタンス、やわらかいじゅうたん。
どれもこれも高そうで、ていねいに手入れされている。
ジェイはへやに入るなり、そのままベッドにダイブした。
「うおおおおお……! やっば……このベッド……天国……!」
ネコティナはその横で「はぁ…」とあきれた顔をしていた。
「ねぇ、ここで何をするの?」
耳をピクピクさせながらネコティナが聞く。
ジェイは両手を頭のうしろで組み、えらそうに言った。
「決まってるだろ? これからオレたちは……金もちに かんぜんに かんりされるんだ!」
ネコティナの顔は「はああ?」と言っていた。
そのとき――
コン、コン。
ドアがたたかれた。
ネコティナが開けると、そこにはエルフのメイドが立っていた。
銀色のかみは月の光のように光り、みどりの目は静かで、どこかやさしい風を思わせた。
動くたびにスカートがふわりとゆれ、声は透きとおるようにきれいだった。
「ダル様からのご命れいです。ネコティナ様に、おふろとお着がえをごよういするようにとのことです。よろしいですか、ジェイ様?」
その「ジェイ様」が、ジェイのたましいをつかんで引っこぬいた。
天にものぼる気分とは、こういうことだ。
地球で何ども日本に行って、メイドにあこがれた。
だが――
これはレベルがちがう。
声も、見た目も、ふるまいも、ぜんぶが理想んちゅうの理想だった。
「ジェイ様?」
もう一度呼ばれる。
「はっ……は、はい! もちろん、どうぞ……!」
ようやく返事をしたジェイを見て、ネコティナは「ほんとに大丈夫?」という顔をしたが、そのままエルフに連れられていった。
ドアがしずかに閉まる。
ジェイは大きく息をはきながら、ベッドにうつぶせで落ちた。
「……今日、まじで最高の日だ……」
天井を見つめながら、心のそこからそう思った。
ジェイはふかふかのベッドに体を沈め、まぶたをゆっくり閉じた。
その柔らかさは、まるでどこかの神さまから盗んできた雲の上に寝ているようで、思わずため息がこぼれる。
部屋の中は静かで、わずかに揺れるカーテンが風を運び、まるで部屋そのものが呼吸しているかのようだった。
ジェイの意識は、自然とこれまでの出来事を巻き戻し始める。
――数週間前までオレはカラカスで問題に追われていた。
逃げて、隠れて、必死に生き延びてたのに。
なのに今は…?
今はまるでアニメやマンガの世界みたいな場所に来てしまっている。
しかもチュートリアルなし。
神の声も、特別なスキルも、英雄としての歓迎も…何もなかった。
血と恐怖と混乱だけがあった。
そして――
兄のダルが、主人公みたいに現れた。
そんなことを考えていると、扉がそっと開いた。
—「ジェイ様」
細くて柔らかい声だった。
ジェイは片目だけ開けた。
今度は別のメイドだった。
入ってきたのは、猫の耳としっぽを持つメイド。
小柄で、足取りはまるで本物の猫のように静かで、黄色い瞳が宝石みたいに光っている。
しっぽが左右に揺れ、入るべきか迷っているのがすぐにわかった。
—「ダル様より、ジェイ様におうかがいするよう言われました。
服を新しくされますか? それとも今のままにされますか?」
メイドは完ぺきな礼で頭を下げた。耳も一緒にぺこりと倒れる。
ジェイは「ジェイ様」と呼ばれるたびに天国を見てしまう。
心の中で思わず叫ぶ。
これ…これが天国か…!
—「し、ししし、したい! 新しいの! でも、この服もなおしてほしい!」
猫メイドはこくりとうなずいた。
—「では、新しい服はどのようなデザインをご希望ですか?」
ジェイは勢いよく起き上がる。
—「あ、紙とペンちょうだい!」
メイドは小さなノートとペンを渡した。
ジェイは嬉しそうに、そして勢いのまま――
スペイン語で書き始めた。
デザイン、色、形、装飾、細かい指示。
全部スペイン語。
全部この世界では読めない文字。
書き終えると満足げにメイドへ渡す。
しかしメイドは紙を見た瞬間、目をまん丸にした。
耳がピンッと立ち、しっぽが止まる。
—「ジェイ様……この文字、なんでしょうか?」
ジェイは固まった。
……え? そうだった。
そう――
この世界の字がまだ読めないし、書けない。
メイドは紙をくるくる回しながら首をかしげる。
ジェイは頭を抱えてため息をついた。
—「あー……兄貴に聞いて。オレまだこの世界の文字わかんないんだ。」
メイドは理解したように深く礼をした。
—「かしこまりました、ジェイ様。」
そして猫のしっぽを揺らしながら、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まると、ジェイは天井を見上げながらつぶやく。
—「……やべぇ。文字、早く覚えねぇと…」
静かな部屋の中で、ジェイの声だけが小さく響いた。




