第2.3章 - 夜明け
くらい。
くらい。
くらい。
すべてが まっくらだった。
ジェイは その中に うかんでいた。
上も下もなく、ねつも さむさも なく、かぜも つちも なかった。
まるで うちゅうの まっくらな中に ぽつんと うかんでいるようで、
でも そこには ほしひとつ 見えなかった。
――ここは…?
ゆめの なかのようで、
でも あまりにも しずかすぎて、まるで「む」そのものだった。
ジェイは ゆっくりと ひとみを ひらく。
けれど その世界は ひらいたところで なにも かわらない。
「どこだ…? おれ…しんだのか…?」
そのことばが しずかに ひびいた時だった。
ぐるるる――。
おこった ジャガーのうなりごえが どこからともなく ひびきわたった。
そのせい音は 一つではなく、まるで すべてのほうこうから ひびいてくるようで、
くらやみの中で こだまし、ジェイのむねも、あたまも、からだぜんたいを ふるわせた。
そして、
その中から こえが ひびいた。
「おまえは むちゃな テリコラだ」
ジャガーの あらあらしいこえが 言う。
「ままの ちを つぐ たましいを もっていながら あまりに よわい。
じぶんの からだすら まもれないとは、なさけないにも ほどがある」
ジェイは くびを ゆっくり むけた。
そこにあったのは――
あかい ルビーのように かがやく ネコのひとみ。
そのふたつのひとみだけが くらやみの中に うかび、
じっと ジェイを みつめていた。
そこには からだも かたちも なかった。
ただ ひとみだけが このよの ものとは おもえない ちからを はなっていた。
ジェイは なにもうごかせない。
いたみも かなしみも きえ、かわりに 大きな しつぼうだけが のこっていた。
なぜだ。
なぜ あのにげつづけていた日々のすえに、
ようやく 会えた 兄に すくわれて、
自分は また たおれてしまったのか。
なんという はずかしい おわりかたなのか。
ジャガーのこえが ふたたび くらやみを ゆらす。
「ほんらいなら おまえを ここで もやすところだ」
そのこえは あきれたように つづけた。
「だが それは ままの きまりに はんする。
ゆえに 今は みのがしてやる」
ジェイは くちをかみしめ、かすれたこえで 言った。
「じゃあ… おれ…しんだのか…?」
その声には、
いかりも、くやしさも、
そして どうしようもない むなしさも まじっていた。
もし 本当に しんだのなら――
ネコティナとの やくそくも、
兄との さいかいも、
すべてが むだに なってしまう。
ジャガーは つめたいこえで こたえた。
「ざんねんながら まだ いきている」
ジェイは ながい ためいきを こぼした。
いきていることが よかったのか、わるかったのか、
じぶんでも わからなかった。
「じゃあ… ここは なんだよ。 どこなんだ…?」
するとジャガーは あきれたように くちごもりながら 言った。
「ここは おまえの こころの中、つまり そんざいの そこだ。
まず れいを言え。
おまえが まだ いきているのは おれのおかげだ。
もし これが アニメなら、1わも おわっていないうちから おれに たよりきりとは…
じつに ざんねんだな」
ジェイは はんめんの ばかばかしさに めをほそめた。
「はいはい… わかったよ。
なら はやく もどせよ。
ほのおの ネコさま」
ジャガーのひとみが ぴくっと ゆれた。
「おい。
おまえを すくった あにに そのたいどは なんだ。
むねをはれ。しつけが なっていないな」
そのしゅんかん――
くらやみが ぜんぶ ほのおに つつまれた。
まるで たいようの中に おちたように、
まわりは まっ赤に もえあがり、
あつさではなく、すさまじい「ちから」の波だけが はじけとんだ。
その中で、
ジャガーの 赤いひとみだけが さらに つよく もえあがった。
「また会おう―― しそんよ」
そのことばとともに、
ほのおが ぜんぶを のみこんだ。
そして、
ジェイは ゆっくりと その光の中へ しずんでいった。
ゆっくりと、ゆっくりと——
ジェイはまるでまぶたに石がのっているみたいに重く感じながら、目をひらいた。
まず見えたのは、ぼんやりした色と光。
つぎに、ゆれる影。
そして、その影が形になった。
そこにいたのは、小さな少女だった。
耳はおおかみのように頭の上にあり、うしろには灰色のしっぽが力なくゆれている。
ネコティナ。
彼女の目——灰色のその目は、ふかい心配とかなしみでぬれていた。
まるで大切なものをまた失うのがこわい、と言っているみたいに。
ジェイは小さな声をもらした。
「……ぁ……」
息だけのような声。
それでも、ネコティナの耳がぴくりと上を向いた。
ジェイはなんとか口のはしをあげた。
ほんとうに小さな、小さな笑み。
それでも——
ネコティナの目が大きくひらかれた。
かすかに、やわらかい光がその中に生まれた。
「おかえり……」
そう言った声は、とてもやさしくて、少しふるえていた。
しっぽがほんの少しだけ動いた。
よろこびと不安のまじった動き。
彼女の心の揺れが、そのまま形になっていた。
ジェイはゆっくりとまばたきをした。
それだけで精一杯だったけれど、ネコティナには十分だったらしい。
かのじょの表情が、すこし、ほんのすこしだけゆるんだ。
くちびるに小さな笑みがもどる。
「……ジェイ……」
声は小さく、胸の奥でつまっていた。
ネコティナはそっと一歩ふみ出した。
でも、こわいのだろう。
ちかづきすぎてもこわい。
はなれすぎてもこわい。
そんな足どりだった。
ジェイは声を出せなかった。
まだ体が動かない。
でも、目で答えた。
ネコティナはそれを感じ取ったように、小さく息をはき、そして——
「ほんとうに……よかった……」
その目がふるえた。
かなしみと安心がまざった、深い灰色。
かのじょの小さな手が、ゆっくりとジェイの手をさがした。
ふれた指先は、冷たくて、ふるえていて、でも……
やさしかった。
しっかりとにぎるのではなく。
つよく引きよせるのでもなく。
ただ“そこにいる”ことを伝えるような、やわらかい手。
静かで、あたたかくて、ほとんど涙みたいなぬくもり。
ジェイはそのぬくもりを感じた。
そして思った。
——ああ、ここが……帰る場所なんだ。
ネコティナのしずかな笑みが、灯のようにちいさくゆれていた。
「おかえり、ジェイ。」
その言葉は、家よりもやさしかった。
数分が過ぎて、ジェイは体が簡単に動かせることに気づいた。
―な、なに…これ? ―ジェイは手を動かしながらつぶやいた、まるで触っているものが現実じゃないみたいに―。治った…のか?
体はまだ痛んでいた。違和感もあった。でも傷と失った血を見ると、生きているはずがない。
ジェイは一瞬黙り込み、何が起きたのか理解しようとした。あの空き地での混乱の後、兄のダルはそこにいなかった。幻覚なのか?それとも…消えてしまったのか?
―わからない…でも、立たなきゃ…でも… ―彼の声は小さく、ただ立ち上がるだけなのに、それがとても難しいことのように聞こえた。
しかし、体の上に何かが覆いかぶさっていることに気づいた。灰色の見覚えのある尻尾が、優しくも確かに彼の上に巻き付いていた。
ネコティナは真剣な表情でジェイを見つめ、両手で彼の手をしっかりと握っていた。耳は少し後ろに倒れ、無言のメッセージを伝えていた。「立つな」と。
ジェイは笑いをこらえながら彼女を見つめた。強引な笑みだったが、心の中はまだ混乱していた。考えは渦のように回り続けた。
そして、思わず口をついて出た言葉。
―前は僕に冷たかったのに…今は母親みたいに僕を守ってくれるんだな? ―ジェイは少し微笑みながら、緊張を和らげるように言った。
ネコティナの頬はすぐに真っ赤に染まった。まるで炎のように熱く、尻尾も少し揺れ、恥ずかしさを表していた。
ジェイは一瞬見つめ、驚いた。こんな反応は予想していなかった。
「なるほど…こんなに早く起きるとは思わなかった…」
彼はいつも、異世界の物語で小さな女の子が主人公に懐くのを読んでいた。クリシェかもしれない、でもずっと楽しみにしていた出来事だった。
そして今…こんなに早く、現実になった。だが、それでも心の中には暖かさが広がった。
ジェイはゆっくりと息を吐き、まだ横たわったまま、ネコティナが体の上にいることを許した。
夜の風が木々を揺らし、月の光が二人の顔に影を作った。
世界は静かに見えたが、ジェイの心臓はまだ速く打っていた。驚きと安心、そして優しい近さの感覚が混ざり合っていた。
―…ありがとう、ネコティナ ―月の光に照らされながら、ジェイは小さな声でつぶやいた。
小さな少女は視線を落とし、耳と尻尾を少し揺らすだけで、言葉はなくとも全ての感情を伝えていた。
突然、部屋の扉が静かに開き、柔らかい笑い声が流れた。
その笑い声は、ただの笑い声ではなかった。とても聞き覚えのある声で、ジェイはしばらく動けなかった。柔らかく、落ち着いた声で、しかしどこか遊び心を含んでいた。その声だけで、何年も忘れていた記憶が胸に溢れる。
ジェイはゆっくりと目を開いた。まるでまぶたが重くて2キロのじゃがいもを乗せられているかのようだった。そして見たものに息を飲む。目の前には、見覚えのある顔、そして髪の黒に赤いメッシュが混ざった人物が立っていた。目は深紅、血のように鮮やかで、まるで時間を超えて彼を見つめているかのようだった。
「…これは…本当に…兄貴?」ジェイは小さくつぶやいた。胸の奥が高鳴り、言葉が追いつかない。
その人物はゆっくり歩み寄り、長いコートを翻す。風で軽く揺れ、動き一つ一つが静かな威圧感を放つ。
そして落ち着いた声で言った。
「狼、口を噛まれたのか?」
笑みは軽く、からかうようだが、どこか落ち着きと力強さを感じさせる。
その瞬間、ジェイの胸に確信が走った。間違いない、彼は兄、ダル・アイカーだった。
姓は違えど、声の調子、話すリズム、落ち着いた安心感のある声。間違いなく、彼の兄だ。
ネコティナはその場に立ち、銀色の目でダルを見つめた。耳と尾はわずかに緊張して、警戒心を露わにしていた。
「何をするつもりだ?」その視線がそう語っている。
ダルはその表情に気づき、少しだけ緊張した笑みを浮かべた。肩の力を抜き、しかし目は優しくジェイを捉えていた。
ジェイは小さく笑い、緊張で固まっていた肩が少しずつほぐれる。涙が目に浮かび、胸の奥に溜まっていた重さが少しだけ解ける。
月明かりが部屋の窓から差し込み、赤いメッシュの髪とネコティナの灰色の毛並みに優しく光を落とす。影が揺れ、息をのむ静寂が部屋を包み込む。
ジェイはようやく声を絞り出した。
「ダ、ダル…信じられない…」
声は震え、胸の奥の感情が溢れそうになる。
ダルは一歩前に出て、手を少し上げる。
「言っただろ、来るって、ちびバカめ」
笑みは軽く、しかしその瞳には温かさと安心が溢れていた。
ネコティナは少し息を吐き、姿勢を和らげる。だがその灰色の瞳にはまだ警戒が残る。
ジェイは二人を見つめ、ようやく微かな笑みを浮かべた。
胸の奥で重くのしかかっていた不安と恐怖、疲労が少しだけ消えていく。
ネコティナが穏やかな声で言った。
「おかえり」
耳と尾を少し動かし、微かに安心した表情を見せる。
ジェイはその顔を見て、心の奥で初めて少しだけ落ち着いた。
世界がどれだけ恐ろしい場所でも、この瞬間、この人たちと共にいることで、少しだけ安らぎを感じた。




