第2.1章 - プラハ
月はよぞらの一番上で光っていた。
まるで白いランプが空にうかんでいるようで、
その光は森の木々のあいだをながれ、
葉のすきまからこぼれて、
ゆっくりと地面を照らしていた。
よるの風が木をゆらし、
さらさらという小さな音が森にひびく。
しめった土のにおい、木のにおい、
すこし冷たい空気――
その全部が、ふしぎに心をしずめるようだった。
その場所に、三つの「いのち」があった。
二人は人間。
どちらも地球という場所から来た人。
そしてもう一つは、人ではない、
黒いもやをまとった、くらい気をもつ「何か」。
地面にすわり、手をふるわせながら息をしているのがジェイ・ベイカーだった。
この世界に来てから、まだ一週間もたっていない。
でもジェイにとっては、もっと長い時間がすぎたように感じていた。
にげること。
たたかうこと。
なみだ。
しぬ人。
しにかけた自分。
あまりにも多すぎた。
胸が痛くなるほどの出来事が、短い日々につまっていた。
そして――
今、目の前に立っているその人を見た時、
ジェイの心はとまった。
そこにいたのは、
一人の男。
人間。
地球人。
ジェイはその人を知っていた。
何年も前から見てきた顔だった。
忘れられるはずがなかった。
ゆめを見ているように、
幻を見ているように、
ジェイはその人を見つめた。
男は小さく笑った。
大げさではなく、
でもどこかあたたかい、
「おそくなったな」と言っているような笑みだった。
ジェイの目に、
ぽろりと一つだけなみだが落ちた。
「だ…ダル…? ほんとに……?」
男はゆっくりうなずき、
落ちついた声で言った。
「ほかにだれがいるんだよ。
おまえ、キノコでも食べたか?」
その声はジェイとにていて、
でもすこし大人で、やさしかった。
ジェイは弱い笑いをもらした。
「さがしたんだよ…… ばか兄貴……」
その言葉は空気にすっととけた。
ほんの一秒。
でもジェイには長い時間のように感じられた。
しかし、その静けさはすぐにやぶられた。
三つめの存在――
黒いかげがゆっくり動いたからだ。
そのかげは人の形をしていた。
でも、顔もなく、服もなく、
黒いもやが体からゆれているだけだった。
白く光る目が二つ、
じっとこちらを見ていた。
ダルはゆっくりとふりむき、
そのかげをにらんだ。
かぜが彼のコートをゆらした。
月の光が肩を白くてらした。
ダルは一歩ふみ出して言った。
「やっと見つけたぞ…… こいつ」
その声は低く、つよく、
森の中にまっすぐひびいた。
月の下で、
三つのいのちが交わった。
そして、物語がまた動き出した。
月の光は 夜空のいちばん上で 白くゆれていた。
その光は 木のえだのあいだから やわらかくおちて、
まるで 森が「これから起こること」を
しずかに むかえているようだった。
風がふき、木の葉が ささやく。
空気は冷たく、しめっていて、
命のにおいと 不安のにおいがまじっていた。
その中で、ダルはゆっくりと口をひらいた。
「ここから はなれろ。 すぐにだ。」
その声は大きくなかった。
けれど すごく強かった。
まるで すべてをもう理解していて、
すべてを覚悟している人の声だった。
ジェイは 目を見ひらいた。
何も理解できなかった。
兄が――
自分より二か月だけ早く生まれた兄が――
どうして この世界にいるのか。
どうして こんな場所で、こんな時に、目の前に現れたのか。
あまりにも できすぎていた。
まるで だれかが 運命の糸をひっぱって
「ここで会わせよう」と決めたみたいに。
ジェイの胸は どくどくと速くなる。
カラカスで行方ふめいになった兄。
ある日 ふっと消えて、二度と帰らなかった兄。
ずっと心に空いたままの あの穴。
その兄が今、
この世界で、
この森で、
たしかに息をしていた。
ジェイは 息をのむ。
「な… なんで…?」
何を聞いているのか 自分でもわからなかった。
なんでここに?
なんで今?
なんでこの“影”と向き合っている?
どうしてこんなに落ち着いている?
頭の中は ぐちゃぐちゃだった。
影の正体も、目的も、危険もわからない。
兄を助けるべきか、命令にしたがって逃げるべきか、
何ひとつ決められない。
それでもひとつだけわかった。
これは、あまりにも残酷な 運命のいたずらだった。
この世界で出会った死や恐怖を思いだすたびに、
ジェイは息がくるしくなった。
こんな形で兄と再会することになるなんて――
だれが想像しただろう。
動こうとした。
だが、足がぬれた紙みたいにふるえ、言うことを聞かなかった。
影への恐怖か。
それとも、真実への恐怖か。
呼吸がみだれ、胸がいたくなるほど苦しい。
心の中では声があがり続けた。
逃げろ?
たすけろ?
立ち向かえ?
弟として?
人間として?
何者として?
何もわからない。
だが――
それでもジェイは、歯をくいしばって立ちあがる。
足がよろけ、息があらくなりながらも
なんとかその場をはなれた。
それでも、目だけはずっと
兄の背中から はなれなかった。
まるで、また消えてしまうのではないかと
怖くてしかたがない子どもみたいに。
ジャイは木にもたれた。
その木の皮はつめたくて、かたくて、ざらざらしていて、まるでこの世界でただ一つだけ「ゆるぎない物」みたいだった。
しばらくして、力がぬけて、そのままゆっくりとすべりおちるように地面にすわりこむ。
土はひんやりして、夜のしめったにおいがした。
そのつめたさが、ジャイの頭の中の渦を少しだけおさえてくれた。
それでも、目だけははなさなかった。
ダーリュを。
一瞬たりとも。
目をそらしたらきえてしまう。
そんな気がした。
自分の兄。
たった二か月だけ年上の兄。
でも、その二か月は、ジャイの世界では二年にも十年にも感じられた。
その兄が――この世界にいる。
この森にいる。
今、この目の前に。
何がどうなっているのか、ジャイにはわからなかった。
あの“ちょうのひびわれ”に連れてこられたのか?
それとも、ちがう何かが兄をつれてきたのか?
いつ?
どうして?
なんのために?
頭の中で同じしつもんがくり返し、かべにぶつかるみたいに響きつづける。
「やっと見つけた」とダーリュは言った。
じゃあ何を?
だれを?
あの黒いかげ?
それとも……ジャイ自身?
すべてがばらばらで、どのピースもかみ合わない。
ジャイの表情はゆっくりとくずれていく。
つかれと、まよいと、こわさと、よくわからない何か。
でも一つだけ、ジャイは分かっていた。
ネコティナのところへもどらなければいけない。
それは大事だった。
けれど……
兄をほおっておくことなんて、できるはずがない。
二つのしめいが、胸の中でぶつかっていた。
やがて、ジャイはしずかに心の中でつぶやく。
――今のダーリュがどんな人なのか、見せてもらう。
頭の中にひびく、しずかな声。
――見てやるよ、ダーリュ・エイカー。
月の光が木のえだのすきまをとおり、まるで森をやさしくつつむようにあたり一面にさしこんでいた。
その月明かりの下、ひらけた場所のまんなかに二つの“影”が立っている。
黒いかげ。
そして、ジャイの兄――ダーリュ・エイカー。
風がふきはじめる。
それはまるで、たたかいのゴングをならすかのように。
静かな「始まり」の合図。
黒いかげは、ゆっくりと腕をひろげた。
その動きだけで空気がにごっていく。
そして――笑った。
ひずんだ、こわれた、にごった音。
まるで古いビデオテープがねじれているような、あの不気味なノイズ。
聞いただけで背すじがかたくなるような、つめたい笑い。
森の空気がよどみ、体がじわじわとおもくなる。
気持ちわるい。
いやらしい。
音だけで世界がよごれていく感じだった。
だがダーリュもまた、ただの人ではなかった。
彼の足もとから黒いけむりのようなものが立ちのぼる。
だがそれはかげの黒とはちがう。
よごれでも、悪でも、光でもない。
ただ、ダーリュという人間の一部のような黒。
風がふきあがり、ダーリュのコートがはためく。
その腰には二本のカタがあり、黒い月の下でひかりをひそめていた。
ダーリュは少しだけ前にかがんだ。
りくつではなく、本能でえらんだようなかまえ。
まるで長い年月をせんとうで生きてきた人の動きだった。
そして、しずかに言う。
「やっと見つけたな……くそやろう」
その言葉は低く、重く、ゆるがない力を持っていた。
兄と黒いかげ。
二つの黒いオーラが月あかりの中でふれあう。
どちらもあやしくて、どちらもふかくて、どちらもあまりに強い。
だけど――
ダーリュの黒は、“ヒーローの黒”だった。
赤い目が月明かりにひかり、まるで血のようにみえる。
その目には、ただ一つの意思が宿っていた。
“お前をおう。
かならず。”
黒いかげはあいかわらず表情を持たない。
目とよべるのかわからない白い光だけが、そこにあった。
そして――また笑った。
あのゆがんだ、こわれた笑いで。
まるで、ずっとこの時を待っていたと言わんばかりに。




