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文化祭の前日と恋愛は、非常に似ている。

 文化祭の前日と恋愛は非常に似ている。どちらも、先のことを考えると緊張するから。


 数時間前、文化祭の準備に追われている廊下で友人はそんなことを言った。僕は理解ができないから、首を傾げた。しかし、彼は缶コーヒーを片手に笑っていた。


「僕は分からないんだ。なんか……人を好きになるってことが」

「いいや、分かってるはずだね。お前ら本当は両想いなくせに」


 呆れて言葉も出ない。僕は苦笑いを浮かべて、教室へ戻った――。


 僕たちのクラスはお化け屋敷をする予定だった。教室の外は準備で慌ただしく、廊下ではお化け役が驚かせる最終調整を行い、学級委員長が当日の配置や流れについて打ち合わせをしていた。その反対に、室内では数人が黙々と会場の設置を担当していた。


 僕も設置係に合流し、教室の隅に重なった部品を図面通りに置いていく。


 ふと、壁を作る段ボールの多くに塗り残しがあるのを見つけた。ハケと画材を準備して、段ボールを塗っていった。


「いよいよ明日だね」


 彼女にしてはやけに神妙な声に振り返ると、井上涼華が緊張した面持ちで僕を見ていた。彼女は背が高く、洗濯したてのように白い体操服を着て、黒く艶のある長髪を肌白いうなじの後ろに降ろしていた。


 神妙な顔のまま、井上は他の人に聞こえないような小さな声で囁いた。


「手伝うよ」

「ありがとう」


 ハケをもう一本準備し、彼女に渡す。そのとき視線が合った。粉雪のような小さな頬に水晶のような黒い瞳が煌めいていた。僕は視線を逸らすと、段ボールを塗り始めた。


「明日が文化祭当日って、不思議な気分」

「そうだね……」


 僕と井上は一日三回は教室で話す仲だった。休憩時間になるとどこからともなく目があって好きなバンドの話でもして笑っていた。テストの結果も見せあうし、家に帰っても宿題の答えについて連絡を取り合う。


 ……友達も変なことを言うものだ。


 廊下の窓からは友人の笑い声が零れていた。楽しそうで何よりだった。


「ねえ」と何気なく、僕は呟いた。

「なに?」

「井上さんって、誰かと付き合ってるの」


 そんな変な意味は込めてないつもりだった――だが、隣のハケが急に止まった。


 心臓がはねた。振り返ると、井上は神妙な顔で人差し指を顎に当てていた。


「うーん、ひみつ」


 その目の焦点はぼやけていた。


「そうなんだ」僕の声は思ったより低かった。なぜか一瞬だけ視界が全て遠く感じた。


「井上さんはモテそうだから」


 言い訳交じりに、僕は意味も分からないことを口走ってしまった。彼女はそれに目を伏せて、吐息を混じらせながら「モテても、そんな嬉しいものじゃないよ」と呟いた。


「確かにいろいろな人から好意を向けられるけど……でも、なんか薄っぺらいんだよね。外見だけで狙ったんだなあって。それで断ったら、性格が悪い女って噂になるし……」


 彼女の眉間には苦労のしわが寄っていた。

「だから、恋愛とかすると困っちゃう。わたしが不幸になるだけだから」


 と言い終えて束の間、なぜか彼女は慌てたように視線を左右に動かし、後ろ頭を掻いて苦笑いを浮かべた。


「――もちろん、好きな人とする恋愛は別だけどね?」


 そして無理やり話を終わらせるように「今の話は全部冗談。全部嘘」そうまくし立てると僕を見ることなく再び段ボールに視線を落とした。「作業しなくちゃ」


 ……変な動き。それにしても今日は、妙に胸がそわそわする……。文化祭の緊張が僕にも伝染したのだろうか?


 一方で、彼女は段ボールを塗りながら別の話題を持ち出した。


「そうだ。進路希望調査はもう出したの?」


 あぁ、と思わず声を漏らした。「忘れてた」


「私はもう出してきたよ」


 彼女の自慢げな口角が横顔に現れる。


「大学進学するの?」


 僕が聞くと、彼女は口を閉ざしたままゆっくり頷いた。重力に負けて髪がばらっと落ちた。ややあって、彼女は視線を手元の段ボールのままに、呟いた。


「音大に行くんだ」


 そっと利き手で髪をかき上げた。彼女の耳は赤く染まっていた。


「やっぱり、将来はミュージシャン?」


 放課後の音楽室で聴いたギターの音色を思い出す。井上は小さく頷いて、明るい口角を僅かに上げた――そして細いお腹をくすぐられたように恥じらった。「他の人には秘密ね」


「言わないよ」僕はかたくそう言った。


「卒業したら……地元を離れるね」

「そっか……」と答えるしかできなかった。


「そっちは?」


 作業を続けながら質問する彼女に、僕は答える。

「……まだ決まってない。自分が何をしたいのか、それもまだ見つからないんだ」


 それは嘘偽りのない本心だった。一体、何をすれば正解なのか? 僕は取り立ててしたいこともない。


「まあ、いいじゃん。いつか、決まるよ」


 狭い天井を見上げると、黒い模様が染みのようについていた。取って付けたような扇風機が教室をぐるぐる回っていた。耳を澄ませると、風を送る音は力無いものだった。


「……井上さんの将来、初めて聞いた」


 会話が途切れそうだったので、僕はあえて独り言を呟くように言った。彼女は僕を振り返った。息を吸いこむ。白い上着と紺色のズボンの体操服姿が目に入った。


「初めて言ったからね」僕は息を吐いた。

「井上さんなら、もっとほかの人にも話してそうだけど」


 彼女は、首を横に振った。「君が初めて」


「どうして?」


 僕が尋ねると、井上は目を丸くして僅かに視線を逸らした。長い黒髪が左右に揺れた。次の言葉を待ったが、井上は無言で微笑んだまま言葉足らずのように僕を肘で小突いた。そして、僕をいたずらっぽく睨んで、その長身からなる涼しい身体を横に捻らせて、ようやく言葉がまとまったように、ふふ、と笑うような溜息を零して、言った。


「……君が大切な友達だから」


 ……顔が熱くなった。


 どうしても、今日は緊張してしまう。


 一瞬生まれた沈黙の隙も、廊下の窓からは文化祭の活気が絶えず流れ込んでいた。


 じっと長い空白があった。


「ねえ」と井上は囁いた。

「なに」と僕は答えた。


 誰も見ていない空間で、彼女は言った。


「なんかわたし、すごく緊張する」

「……僕も」


 ふふ、と二人で笑い合った。誰も目撃していない、僕と彼女のひみつ。彼女と話し合うと、心が安らぐ。風が少し冷たかった。教室の窓も教卓も段ボールも、廊下から零れる雑音も井上の体操服も井上の白い顔と黒い髪も、全てがやけにうつくしく見えた。

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