人生定年60歳
人生の定年が60歳と定められた世界ーーそこではすべての人はAIに管理され、完璧な人生を歩めるようになっていた。ナノマシンが体調管理、本人確認から安らかな終わりも与えてくれる。完璧で完全な世界で生きるのは果たして幸福なのだろうか。
「あと一か月か・・」
朝起きて一番、俺はそうつぶやいた。
歯止めの利かない高齢化社会をどうにかするべく、日本政府が30年前に打ち出した政策。
【人生定年60歳】
人生の定年を60歳と定め、そこで全ての人は人生から「定年退職」する。
早い話が国主導の下、60歳で安楽死処置が取られる。
これは日本に限った話ではない。日本が始めたこの政策は、そのうちほとんどの国が真似し、今では世界中の9割以上の国が人生に定年を定めている。
これにより人類のライフスパンは大幅に変わった。
今の世界では20歳までが教育期、21-40歳が労働期、41-60歳が終末期となっている。
つまり、20歳までに大学教育を終え、40歳まで働き、60歳で死ぬ。それが一般的な「人生」だ。
そして俺は現在59歳11か月、定年まで残り1か月だった。
「いよいよエンドロールってところか?早かったような長かったような」
誰にでもなくつぶやく。事実上、今俺はこの世界のほぼ最高齢といっても過言ではない。
もちろん世界の中には80歳、90歳の人もいる。だが、ほとんどすべての国がこの政策を実施している今、そういった人たちは非常に稀だ。
実際、この政策が発表された当時はえげつない批判の嵐だった。だが、結果的にこの政策は施行され、世界もそれに追従した。
どうしてこんなことがまかり通ったのか。それはおそらく、俺たちの世代が一番語るにふさわしい。
「いってきます」
誰もいない部屋にそう告げ、俺は病院に向かう。定年まで残り一年を切った時点で義務付けられている、カウンセリングのためだ。
「どうも。今日も調子は良さそうですね」
「はい、先生。なんたって僕は世界で一番おじいちゃんですから。少しは落ち着かないとね」
自分より30歳は年下の先生に向かっていつもの調子で返す。これは別に年下に良いカッコしようとしているわけでもなく、残り少ない寿命に自暴自棄になっているわけでもない。
「しかしすごいですね。このナノマシンってやつは。もうちょっと自分でも怖いとか、焦りとかあると思ってましたよ」
「ええ、私はまだ先が長いので実感はないですが、このカウンセリングに来られる方は皆さん落ち着いてらっしゃいますよ」
「10年?20年?かけてじっくりと恐怖を消してくれるんでしたっけ」
「旧式のものはそうですね。最新式だと生まれたときから脳を最適な状態に保ってくれますよ」
「はー、本当に便利な世の中ですね。知らないうちに操られている気がしなくもないですけど」
「もっともなお考えだと思います。ですが、いまやナノマシン無しでは生活できない世界ですからね。メリットのほうが大きいと納得するしかないでしょう」
「そんなもんですか。なんでしたっけ、シンギンティみたいな?」
「シンギュラリティですね。30年前に起こった技術的な大革新です」
シンギュラリティ。技術的特異点。今から30年前に起こったそれは、人の世界全てを変えた。
AIが最近進化してきたなーとみんななんとなく思っていた。ところが、AIがAIを改良する段階に入った途端、理解を超えた。
人より賢い種による自己進化。電気的エネルギーさえあれば無限に試行し続けるそれはあっさりと人類を追い越し、置き去りにした。
人類にとって最大の幸運だったのは、進化したそれらが人を敵とは見なさなかったことだ。
あくまで彼らは人によって作られ、人の命令を待っていた。それらが人間のような感情や意識を持っているかという議論は次第にされなくなった。
ただ、ひたすらに高速化した思考と合理化したシグナルで出力される”答え”に、人類は夢中になっていた。
彼らAIによる答えが指針から事実へと移り変わるのに時間はかからなかった。それでも、その政策は疑問視された。
曰く、幸福の最大化。極限に研ぎ澄まされた答えはあらゆる合理性を伴ってなお、人に強い忌避感を抱かせた。
国家の法律から今日の晩御飯までを決めていたAIが導き出した答えは「人が最も幸福に生きる方法は人生の定年を決めること」であった。
「人生の定年を60歳としましょう。20歳までは世の中を学び、40歳まで余裕を持って働き、残り20年は遊んで暮らしましょう。」
「人一人が学べることはそう多くありません。高級レストランのウェイターは二次方程式が解けなくても完璧に料理を運びますし、博物館で雄弁に歴史を語らない人にとっては日本の戦国武将の名前は知らなくてもいいのです。」
「私たちが遺伝子、環境、素質から全てを汲み取り、その人に最良の教育プランを定めましょう。初等から高等教育、大学教育、就職前の専門知識全てを合わせても週に3日出席すればその人が必要な知識をすべて習得できます。」
「全ての子供たちはゆっくりと自分のペースで自分に合った教育を受けることができます。勘違いしないでください。未来のすべてを決められているわけではありません。」
「いくつかの希望の中から自分の興味のある職業を選択することができます。私たちの診断は興味を持つ内容まで予測することが可能です。」
「少なくとも、ただ間口を広げるために天体の動きや一生行くことがないであろう国の昔の話を覚える必要はありません。それらの計算や蓄積は私たちの仕事です。」
「そして十分な知識と自信をつけた段階で労働の期間です。これまで学んできた期間と同じ20年、勤労に努めましょう。現状の予測では個人にあった就職先を早期に決められることで、全職種の離職率は2%まで低下します。」
「これは労働年齢が狭まることによって世代間ギャップが起きにくいことも要因の一つです。特に社内の問題解決や万一の再就職の際にも、私たちはお役に立てるでしょう。」
「あなたの今までのキャリア、今後の展望、子供への影響に至るまでを考慮に入れた働き方をご提案できます。」
「そして40歳、まだまだ身体も健康なうちに老後に突入です。あなたはこれから先20年間、自由に生きることができます。」
「公正な年金負担と社会保障により、あなたの老後は保証されます。」
「そして60歳、めでたく定年となります。脳内のナノマシンが適切な濃度のドーパミンと塩化カリウムを放出し、安らかな眠りにつくでしょう。」
以上がこの世界における”完璧”、人類が最も幸福に生きるための”答え”であった。
それまですべてをAIに委ねてきた人々だったが、さすがに即断即決とはいかなかった。
事実上ある程度生きたら老いる前に死ねと言われているに等しい。だがこれまですべてに答えを出してきた人工知能はそれが最も幸福だという。
「30年前、私はまだ生まれていなかったのですがあなたはこの施策に反対されなかったのですか?」
「もちろん反対でしたよ。当時はAIの反乱だ、とか全てを機械に任せて死ねというのか、とかね。とにかく日本中が大荒れでした」
「私もなんとなく、勝手に殺されるのは嫌だな、と思っていました」
「それでも最終的には受け入れたと?」
「そうですね。今思えば問題の大きな部分は不公平感だったと思います。だってすでに60歳を超えている人はどうするんでしょう。今まで頑張って勉強してきた人は?40年近く会社に尽くして今まさに定年間近の60歳は働くだけ働いてすぐに死ぬことになるのか?」
「思えばあの時点で、みんな心の深い部分では受け入れていたんだと思います。ただ、発言力のある人たちはすでにオーバーワークをしていた」
「仕事は40歳まででそこから20年は自由に生きていいよ、なんてすでに60歳近い人にとっては不平等もいいところですからね。もちろん生涯現役を掲げて仕事に尽くしたい人もいたでしょう」
「そんなこんなで主に40歳以上の人からとんでもない批判を受けていましたね」
「もちろん、それは私も医師として働く上で知識としては知っています」
「20年の教育期間、ですね」
「ええ。ただやはり実際の時代を体験している人から聞くと熱量が違いますね」
「ああ、昔じいちゃんから聞いた戦争の話もそんな感じでしたね。現場の空気感というか、そういうの」
「結局、AIが一枚上手だったんですよ。いまじゃあ語り屋なんて商売がちゃんと成り立っているんだし」
「そうですね。彼らはそこまでくみ取って、データだけじゃない生の声を聴かせる職業まで作っています」
「先生はそういったものも聞かれるんですか?」
「私は主に患者さんから。この仕事をしていると他人の人生を聞く機会には恵まれていますね」
「そうか。そうですよね。私なんかよりよほど人生経験が豊富そうだ」
「そうでもないですよ。結局、一人の人間が一生で体験できることなんて知れています。人生は何かを成すにはあまりにも短いが、何も成さないにはあまりにも長すぎるって誰かが言っていました」
「はは、確かに。世界一の大国の大統領も私の人生は歩めてないわけだ」
「そういうことです。そしてそれなりに満足のできる人生を考えてくれるんですから、やはり今はいい時代なんだと思います」
「それでも死ぬ間際にはもっといろいろやりたい、と思いそうなもんですけどね」
「あなたは思っていないんですか?」
「ところが全く思っていない。私の人生はこれで終幕、という納得感のみを感じています。これが私の思いなのか、脳みその中のナノマシンの効果なのかは分かりませんが」
「間違いなくあなたの思いですよ。実のところナノマシンは恐怖を取り除く物質しか排出していません。これは通常人が老いて行くプロセスでも自然に排出されるものです」
「なるほど。まあ、そうですか。あの人道的な機械たちのすることですからね」
「ええ、なので・・もう少し時間がありますね。差しさわりなければもう少し当時の様子を聞かせてくれませんか?あなたのように丁度世代の切り替わりにいた方は珍しいので」
「まあ、第一世代ってところですからね、僕たちは」
そう、当時AIが打ち出したこの最高の施策は大きな反対がありながらも受け入れられた。
それは当時の日本国の首相が圧倒的なカリスマを持っていたからということも大きな要因といえる。
あまりに生産性のない意見を繰り返し述べる当時の政党から彗星のごとく現れた一人の男。
結果彼は当時31歳という若さで日本の代表を務めることとなった。
あまりに選ぶべき人がいないから消去法で繰り上がったんだ、なんて揶揄されることもあったが、彼はまさに本物だった。
若者も高齢者も見事に味方につけた彼に、AIまでついてきた。
AIが例の施策を打ち出して以降、すべての国民が彼の動向に注目した。ほぼAIのいうことを聞くだけとなっていた人々も、さすがにそんな決定を許すわけにはいかない、という空気が出来上がっていた。
彼は、AIの提案を受けた。ただ、それは自分たちの世代からだ。今までこの国に尽くしてくれた人々にはできる限りの老後を確保し、ただ自分たちの世代からは60歳で死んでくれ、と彼は言った。
もとより本気で反対していたのは40歳以上のオーバーワーク世代だ。30歳以下の俺たちのような無気力世代は、あまり表現の仕方を知らなかった。
なんとなく、当時のSNSで老害は悪いとか、現役世代が老人の年金や医療費を払っているとか。そういう分かりやすい”悪”が俺たちの世代でなくなるんだ、と説得力たっぷりに話されるたび、世論は肯定派に傾いてきた。
多分あの頃が一番政治に目を向けた時期だっただろう。老若男女全ての人がこの施策を通すのか、本気で考えていた。
彼は上の世代には痛みをすべて受けるから俺に任せろ、同世代には頼む助けてくれ、下の世代には俺についてこい、と常に言っていた。先輩は若者が前を歩く姿に心を打たれ、同輩は素直に助けを求める男に協力し、後輩は頼もしさを感じざるを得なかった。
結局、年配世代は今後も変わらないなら、と矛を収め、俺たち以下の世代も最初は反発していたものの、今まで見せられてきたAIの正しさと同世代のカリスマの力で意見はまとまった。
その後の発展は目覚ましいものだった。本格的にAIが教育や労働に使われ始め、懸念されていた死への恐怖からくる暴動もナノマシンの力で起こらなかった。
それどころかナノマシンはくまなく全身を巡り動脈硬化や糖尿病といった疾患の治療、脂肪燃焼による痩身、アミノ酸レベルでの栄養バランス調整によって好きなものだけを食べて健康に生きられる世の中が到来した。
健康面だけではない。生体認証機能による指先をかざすだけでの本人確認、料金支払い、家の開錠にいたるまで生活インフラそのものがナノマシンありきへと変わっていった。
もちろんそれを主導したのは当時のカリスマ首相だ。同時に現行のシステムも全て無理のない形で残していたのだから隙が無い。
そういった便利さに後押しされ、ナノマシンの注入が義務化されていない高齢の人々にも徐々に広まっていった。
別にナノマシンを入れたからといって当時の年配者に60歳で安楽死する義務はない。それもカリスマが言っていたことの一つだ。
だが、子供が自分より確実に早く死ぬという事実や、決して全能ではないAIが老いには勝てないという現実が広まるにつれて、徐々に人生定年を選択する人も増えてきた。
このころになると世界も日本の状況を見て同じ施策を実施する国が増えてきた。寿命は神が与えたまさに天命、人が決めていいはずがないという意見も根強く残っていたが、結局は便利さには勝てなかったわけだ。
気が付くとほとんどの人が70歳前でナノマシンに救いを求め、今や80歳を超えている人はごく閉鎖的な国のさらに一部に残る熱心な宗教家くらいである。
そして今、当時30歳だった俺が定年まで残り一か月を切っている。
あの頃からだいぶ世界はよくなった・・と思う。最初期こそいわゆる負の遺産が国の財政を圧迫したり、ナノマシンの影響のない世代が迫る家族の死に恐怖したりと混乱はあった。
しかし徐々に労働人口と老後の人口が釣り合ってくるにつれて、様々なことに余裕が出てきた。
病院の圧迫は解消され(これには無論ナノマシンの治療の影響もある。現在の病院は先天性の難病の治療とカウンセリングが主たる業務だ)、40歳という若さで仕事から解放された親たちによって育児や教育の質も高まった。
それはそのまま出生率の改善にもつながり、今や日本は高齢化を脱しつつある。
世界はある意味で刺激的な生から穏やかな死へ向かったという人もいる。
ただ、一般人の俺からすると大国間の一触即発の空気やどことなく漂っていたやる気のない終末感はなくなり、まあ有り体に言うと世界はよくなったと思う。
子供たちは堂々と夢を語り、将来の不安もなさそうに道を歩いている。サラリーマンはもう俺38だよーと言いながら定年退職に向かって働いている。さして年も取っていないような人がハツラツと趣味や子供の話をしている。
まだ少しだけ違和感を感じるが、どこもかしこも活気にあふれていた。生活の豊かさと教育の質の高さは犯罪率の低下にも繋がり、全国で6割の刑務所が閉鎖した。
そこで働いていた人々や弁護士や裁判官といった相対的に需要が減少した職業の人たちは、これまた人類よりもはるかに賢いAIにより別のルートが与えられた。
結局、あの間違いなく人類史に残る一大イベントであったシンギュラリティ以降、世界はうまく回っている。
「とまあ、こんな感じでしょうか。ナノマシンについては先生のほうが詳しいと思いますが」
「ええ、私もいわゆる出生と同時にナノマシンを入れているナノマシンネイティブ世代ですからね。医者としてもですが、なんとなく体になじんでいる感覚はあります」
「これからは先生たちが時代を作っていくんですからねえ。どれだけAIだナノマシンだって言っても、やっぱり最終的に決めていくのは人間だと思いますよ」
「おそらくそうなんでしょうね。まだ世界から犯罪が消えたわけでもないですし、こうして私と話してくれる人もいますからね。アドバイスやメンタル管理だって、はるかにAIの方が上手なのに」
「それが多分僕らに残された人間性ってやつなんですかね。僕もあと一か月後に死にますけど、最後に見るのは家族の顔がいいですもん。仮想世界で理想の人たちに囲まれて逝く方法もあるみたいですけど。子供の頃の友達とか、尊敬するアーティストとか、推しのアイドルとか」
「これは一応全員に聞くことになっているんですが、延命は希望されませんか?特例の制度もありますが」
「ああ、あのどうしてもやり残したことがあるっていう。私はいいですかね」
「そうですか。まあ、私もこの仕事をしてから一人も希望者はいないので、一応の確認でした」
「それでは今日はこれまでになります。次は定年三日前ですね」
「はい、ありがとうございました」
ご精読ありがとうございました。