第一章 1 旧主役の再演・新主役の登場
――――長野県久留米市は人工数約七万人。長野県ならではの山間と坂道が点在する平凡な盆地である。
郊外には田畑が広がり、街中心に近づくにつれ、人口密度が密集していく。
街中心には商業施設や商業ビルが軒を連ねる、特出する所も無い普通の街。
目立ったニュースは無く、特出する異常も無い。地元が発行している新聞の見出しでさえも、とくに代わり映えの無い一面を飾っていることが常であった。
もしも仮に、変わったことがあったとしても、それはどこそこの地域で熊が出たとか、行方不明になっていた近所の老人が見つかったとか。そういった広報が知らせる身近な事件がほとんど。
よく言えば治安が良い。悪く言えばつまらない。平和ボケを体現したような、緩い雰囲気の街。
そんな穏やかな街はいま、雰囲気だけでなく、季節までもが、浮かれるような陽気に包まれている。
四月上旬の新と旧が入れかわる時期。つまりは春である。
そして、始まりと終わりの季節とくれば、やはり、最も影響を受けるのは学校だろう。
その中で、長野県久留米市立高等学校はその名が表す通り、久留米市が初めて建てた高等学校である。
名のある地主から田んぼの一部分を譲られ建てられたそれは、全校人数三百数十人程と今の基準からすると少し小さめの規模だが、それでも建てられた当時は十分な収容人数として市の皆から感嘆を零された歴史がある。
通学路はきちんとアスファルトで塗装されてはいるものの、学校周辺を見渡す限り民家はなく、遠くの山々が空の色に混じり合う。学生たちへとノスタルジーを感じさせる田舎道。
その周辺に広がる未だ稲も植えられていない田園風景の水面には、すぐ傍を走る電車の振動が、波紋を作る。今、通学路から見える田んぼのあぜ道に人はいないが、時を変えると電車を画角に収めようとする写真家を視界に映す事も少なくはない。
唯一見受けられる人の営みの名残たる、鍵のかかったコミュニティーセンターが見送るのは、通学路に咲き誇る色鮮やかな桜色。
そして、桜吹雪と同色の絨毯が、学校正門まで敷き詰められ、学生は明るい顔でその道標を歩いていく。
「きゃぁ」
その時ふいに、春風が足元を駆け抜け、通学路の制服をなびかせた。
不運にもその場にいた女生徒たちの多くは、いたずらな風に顔をしかめ、強くスカートの端を掴み、耐え凌ぐ。
一方、男子生徒は千差万別な動きを見せた。とは言っても目的は皆同じだ。
眼福にあずかろうと目を見開く者。脳裏に焼き付けるため眼鏡を掛け始める者。一瞬のうちに携帯のカメラをかざした者は、女生徒の鉄拳制裁の後、あえなく御用となった。おそらく今日一日は、生徒指導とワンツーマンで、倫理と道徳のお勉強と洒落込む事だろう。
そんな不可抗力と言う名の悪徳の一部始終を見ていた少年の一人が、桜の道標の先に控える久留米市立高等学校二年生の北東悠馬である。
悠馬は朗らかな瞳を持つ、日本人にしては珍しい茶髪の少年で、平均よりやや高い身長をしている。
その他大勢の学生と同じ、学校指定の学生かばんを肩にかけ、同様の青を基調としたブレザーの学生服を着ている。
その時不意に、悠馬は両手を合わせ合掌した。青春を送る『男子生徒』を見て、少なからず抱いた尊敬を念仏として送ったのだ。
悠馬は一見細身なのだが、着やせするタイプだったのか、腕を動かすと制服が膨らむ程度には筋肉が詰まっていた。
ただ、もちろん共犯者と思われるのは避けたかったので、すぐに目を伏せ腕を降ろし、学校が間近にせまった残り少ない通学路に歩みを戻すが、
「おい、ユウマ何人見た? 俺は七人全部しかとこの目に記憶したぜ」
下品な挨拶を発した少年が、悠馬の背後から、肩越しにぬっと聞いて来た。
少年は、悠馬より少し背が高かった。彼は、悠馬と小学校からずっと同じクラス、いわゆる幼馴染みでもある人物で、名前は西臣明道。通称ニシと呼ばれている。
彼も例にもれず、学校指定の学生かばんを右手に携え、ブレザーは前を開ける形で軽く着崩している。
ニシは幼少期に負った、右の額から瞼へ抜ける傷を隠すため、左から右に掛けて長くなるアシンメトリーな髪型をしている。ただ、顔が整っているため違和感は感じない。むしろ、似合っているとさえ思う。
「甘いなニシ。俺は一人だよ」
悠馬はフッと嘲笑するように、茶髪を手でなびかせてみせた。
ニシはその余裕の表情に疑問を持ち、少し垂れ目がちな瞳を細めた。
「…………その人数でなんで誇らしげ? 」
「俺はスピードより、クオリティを重視する男。お前とは視座が違うのさ」
二人は軽口を叩き合える気の置けない仲。親友だった。しかし、以心伝心とまではさすがにいかない。
つまりは、頭がよろしくない悠馬の説明では今一要領をえないということ。ニシは、意味がわからん。と片眉を上げ、詳しい説明を求めた。
「アレ」
悠馬が指さす方向を見た時、ニシは絶句した。見たことのない女生徒の後ろ姿があったからだ。
ニシにとってそんな事はあり得ない事。なぜなら、入学と同時に全女生徒の情報を脳内フォルダに記憶しているはずなのだ。取りこぼしはないと自負があった。
しかし、前方に見える後ろ姿は間違いなく初見。
「その顔だと、やっぱ知らないか…………」
悠馬のしたり顔を尻目に、ニシは携帯を取り出し、すぐにズーム機能を使ってその詳細を確認した。やはり、知らない背中。知らない輪郭だ。
だが、その姿勢、足はこび、髪のなびき方からとてつもない美人だと分かる。
その時、ニシは愕然と理解した。悠馬が先刻放った言葉――――クオリティの意味合いも自然と融解して、ニシの脳内にジワリと広がったのだ。
「…………ちょっと待て、お前…………クオリティってまさか、おまえ…………」
わなわなと震えるニシの肩へ優しく手を置いた悠馬は、そのまま親友を、己が背後へ押し戻しながら、勝ち誇った顔で言いのけた。
「ふつくしい」
「…………っ!! 」
瞬間、悠馬との友情と入れ替わるように、嫉妬心が顔を出した。
許せなかった。間違いなく美人であろう、例の少女のスカートの中を覗いたその運の良さが、着眼点の鋭さが、ニシのプライドを傷つけたのだ。
目の前のしたり顔の友を、一発殴らなければ気が済まない。いいや、加えてその秘めた下着の色も聞き出すまでは終われない。
ニシのただならぬ気配を背後で感じた悠馬は、それでも悠然とニシへ振り返った。
「どうした、ニシぃ、お得意の爽やかスマイルが陰ってるぜぇ」
何かスイッチが入ったらしい。
普段の誠実なムードメーカーはなりを潜め、完全にキャラ崩壊をおこしていた。
悠馬は学生かばんを肩に担ぎ直すと、ブレザーの襟首を上から数個外す。そして、堂に入った悪役ムーブをかまし始めたのだ。
その際、残念ながら、周囲にいた学生達は、また始まったよ。と言わんばかりに、距離を取り、遠巻きに見るか、巻き込まれないよう小走りに目と鼻の先にある正門へ走って行ってしまう。
こういった無益な争いを止める学級委員長的存在は誰一人としていなかった。
「色を教えろぉ、ユウマああ!!!! 」
ニシの発した大きな声を受け、悠馬は慌てて、静かにしろ。と口元に人差し指を当てた。しかし、悠馬の反応は遅かった。突き刺すような視線が両者へ割って入ったのだ。それはひどく冷たい悪寒を通り越した殺気。
何事かとニシが見やれば、遠巻きながら先ほどスカートを翻していた女生徒達が、存在を否定するようにこちらを見ているのが確認できる。
「しー!静かに!ニシバカお前…………まずいってバレるだろ…………」
悠馬が慌てて訂正し、小声でやりとりを行う事で体裁を繕った。
ニシが冷静になって辺りを見てみると、辺りには先に学校へ入っていったはずの生徒達が視界に入る。
どうやら茶番劇を繰り広げているうちに、正門を抜け、校舎前にまで足を踏み入れていたらしい。
「あぁ…………悪い、スマン」
と、ニシの謝罪の最中、
「おい、何してるお前ら」
その背後から野太い声か覆いかぶさった。
何事かと振り返ると、生活指導の宅村先生が眉間に皺を寄せ、ご機嫌な斜めに立っている。しかも、宅村の手元に視線を移せば一人の男子生徒が首根っこを掴まれて意気消沈としていた。十中八九先ほど携帯を取り出した猛者だろう。
「先生なんすか? オハザース」
軽く挨拶をするニシと悠馬は、こんな早朝からどんな用事が有るのかと怪訝を浮かべる。
すると、宅村の方こそ、何を怪訝を顔をしているのだ。とため息を零したのだ。
「おはよう。いや、なんすかじゃねぇだろ。なにしてんだもう授業始まるぞ」
「え?」
顔を見合わせた悠馬とニシは、弾けるように校舎に備えつけられている大きな丸時計へと、視線を投げた。
そこから読み取れる時間は、今現在八時四十五分。ホームルーム開始が八時五十分。彼らのクラスは二階の中央。ここから走ってジャスト五分ほど。今から走ればまだ希望はある。
「それとも、お前らもコイツと一緒に俺と授業するか? 幸いにも、右手は空いてるぞ」
宅村がその太い右腕を伸ばしかけてきたとき、悠馬とニシは猛ダッシュでその場を切り抜けた。
そして、玄関を抜け、階段を駆け上がり、廊下は走るためにあるとばかりに、足を回し、なんとか、ホームルーム三十秒前に、教室の後ろ側へ滑り込むことに成功した。
「ほぉ…………悠馬、明道、二人共遅刻ね」
成功はしていなかった。
窓際に佇む担任教師の小山ゆかりは眼鏡をクイとかけ直す。すると無情にも、遅刻の二文字を生徒名簿に記入したのだ。
「そんな!?」
「なんで!?」
項垂れるバカ二人の視線を、ゆかりは記入を終えたばかりの生徒名簿で、黒板の方向へ促した。
壇上に居たのは、女生徒だった。見覚えの有る女生徒。悠馬が色を知り、ニシにとっては友情に亀裂が入りかける要因となったあの少女だ。
「最近多いがな。見ての通り、今日は転校生がいるのよ。新しい子は到着してるってのに、お前らが遅れちゃダメだろう」
少女はハーフなのだろうか、黒髪だが、青い瞳、白い肌の日本人離れした美少女だった。
白く程よい肉付きの足は、丈が短めのスカートからすらっと伸びていた。ブレザーを程よく押し上げる胸部のふくらみも相成り、教室中の皆がその視線を奪われていた。
皆と同じブレザーを着ているはずなのに、彼女が着ると、コスプレでもしているような印象を受ける。
もちろん似合っていない訳ではない、逆だ。似合いすぎて、まるで漫画やアニメの中から抜け出てきたように錯覚するのだ。
「悪いが、もう一度自己紹介をしてくれるかな」
「はいはーい」
思いのほか軽い感じで返事をした女生徒は、黒板へ振り返る。その際に翻ったスカートは、完璧な角度を持ってその中身を死守した。
黒板には今しがた消したと思わしき文字痕があり、彼女はその痕の上をなぞるように、チョークを走らせる。
描き上がった筆跡は、少女の容姿と同じく、端正で達筆だった。
「どもども~、改めて女ノ上世津っていいまーす。よろしく」