プロローグ 題目の降板
一面の銀世界なんて生易しい。ホワイトアウトという言葉が似合う猛吹雪の中。
生者をひたすらに拒む、ひどく真白な雪山に対し、一つの人影だけが黒点を作っていた。
「はぁ…………はぁ…………くっ…………はあ…………」
険しい山岳を行く少年の荒い息使いが、極寒に凍てつき続けている。
ひざ下まである積雪に、進路を阻まれながらも、止まる事のない歩みは、登山ルートから外れて既に久しい。
「…………まだ…………」
少年は自殺するため、白一色の視界をかき分け、一心不乱に歩いている。
少年は日本の東北生まれ。はた目に見ても、両親と姉と義兄と妹がいた幸せな家庭。
この雪山へ足を踏み入れたのは、死に場所を探していた時、偶然見たTVで知ったにすぎず、いたって浅い縁により白羽の矢が立っていた。
一か月前、少年がTVを見ていた時のこと。
この雪山で凍死体が見つかった、というニュースに興味を引かれ、続いてニュースキャスターが、凍死体の表情は、不思議ととても穏やかだった。と締めくくった事が、骨をうずめる決め手になった。
死は一世一代の大イベント。ならばせめて、気分良く逝きたいと思うのは当然であり、別段珍しい事でもないだろう。
少年はこれまで生きてきて、山に特に思い入れも無く、登山も初めてだった。
ゆえに、家に登山用の装備はなく、また、知識もなかったため、服装は防水性のジャンバーに、長靴といった軽装で足を動かしている。
人によってはコンビニへ出かける気軽さにも見えるだろう。
「まだ…………眠くならない…………こんなに……もう……足が重いのに…………」
凍死する者は、眠るように逝ける。
少年の凍死に対する知識はその程度のデマしかない。これまでの人生で、死ぬことなど、とんと考えもしなかったのだから、仕方なかった。
しかし、だからといって調べようとも思わなかった。結局死ぬのだから、知識を貪るのも、蓄えるための労力も無駄だと考えたからだ。
そして、雪山にいる以上、頭は常に冷却され続ける影響で思考は止まらない。
ずっとどうやって死ぬかを考えている。ずっとようやく死ねると思っている。
ただ、それでも、長靴の中がうったえてくる物理的な不快感が、その思考へノイズを走らせる。
長靴の中身を占めているのは、足が半分、残り半分は、雪と、その雪が溶けだした湿り気だ。
歩くたび、長靴の内部へ侵入する雪は、確実に重量をかさ増ししていく。そして徐々に徐々に、踏み下ろす足の深度が深くなっていき、遂に、踏み出した右足の、鼠径部までが雪に潜った。
「うわ」
唐突に視界が上へ流れた。足元が崩れ、下へ落ちたのだと気付いた時、ようやく終わりか。そういう安堵が少年の瞳を閉じさせた。
直後、時間差で落ちてきた雪が少年の上へ覆いかぶさり、身動きを封じた。雪は柔らかい感触で痛くはなかった。ただ、少し生き苦しい姿勢で動けなくなった事は誤算だっが、
「…………まあいいか」
少年は死にに来たのだ。この程度妥協できる。
少年は雪の冷たさに、身震いした。ようやく死ねるのかと思うと嬉しくて。
少年はもう声を出さなかった。万が一救助が来ても気付かれないために。
少年は全てをあきらめた。そして、数時間以上が流れた。
「ん…………」
まばゆい光が、少年の瞼を貫通し、暗い眠りから意識を吊り上げ目を醒まさせた。
残念ながらあの世ではないことは、知っていた。だって、あの世にしては暖かく、この世にしては冷たい。先ほどの雪山と感じる温度は大差なかったからだ。
高い明度に適応できていない瞳をこすり、周囲を見渡すも、分かったのは白一色の空間にいる事だけ。
――――ここって…………
少年の虚ろな意識を総動員しても、なんなら思考が冴えわたっていたとしても、出てくる感想は、かまくらの中。それぐらいしか言葉に表す術を少年は知らない。
なぜ、こんなところにいるのか。
微睡の余韻が残る脳みそでは、己の状況を正しく分析する事は叶わず、少年はほとほと困り果てた。
その時、
「りありー? 起きた」
くぐもった拙い英語が、少年の意識を誘った。綺麗な女性の声だった。まるで、木々の間を吹き抜ける冷風のような清涼さを持っている。
その声が少年にとって、今の己の状況を知る唯一の手掛かりだと思った。だから、訳も分からないままに、声のする方へと半ば無意識に顔を向ける。
――――お、お歯黒?
声の主は口元が黒かった。その様相に束の間古風な感覚に囚われた少年だったが、じっと見つめていると、ようやく焦点が合ってきた。そして、最初に抱いた感想は違うと知る。
お歯黒ではなかった。おそらくは、女性は黒のマスクをしているのだとわかった。
とは言っても、少年はその女性の全体像を見やっても、全く身に覚えがない。
それどころか、ここに来るまでの道程を友人に知らせてすらおらず、少年の登った雪山は、冬季期間登山禁止でもある。
したがって、登山届にも記載はない。少年は完全な透明人間。救助などくるはずもないのだが…………。
「命の恩人だぞー、崇め奉って」
たしかに、少年は女性に助けられたらしい。
その事実を、胴体を覆っている毛布が伝えるじんわりとした暖かさが教えてくれていた。
体が温まった事で身体機能も正常に近づき、瞳孔の制御が完全に戻った時だった。
ちょうど女性がマスクをずらし、顔がきちんとあらわになったことで、少年はギョッとした。実は知っていたのだ女性のことを。
もちろん女性との面識はない。これが初対面である。しかし、確かに彼女のことを、知識として記憶している。
「なにその顔。鳩が豆鉄砲喰らったみたいじゃんね、いとおもろー」
女性の顔――――雪解け水のような青い瞳が、名の有る彫刻家が掘ったとも思わしき、端正な顔に収められていた。
白い肌は薄氷のように柔く張りがあり、新雪を思わせる見事な真白色の長い髪を加えると、一つの美術品が如く、畏れを抱くほど美しい。
女性は吐く息白くなるこの厳しい真冬にもかかわらず、艶化粧と言わんばかりに、肩をはだけさせた白い和服を着つけている、その姿はまさしく、
「…………雪女?」
問われた女性は、自信満々にピースをしてみせた。その際、ちらりと見えた爪の色は真っ黒で、マニキュアもしているお洒落さんだとも分かった。
「あ、知ってる感じ?なら話が早いじゃんね。どもどもー男性諸君あこがれの的こと、雪女ですって、どしたの、ずっと鳩豆じゃん?」
女性の口調はこれまた、既視感がある。
少年のイメージにある古風な噺家と言った感じはまるでなく、むしろ現役バリバリ現代人。それも、ダウナー気味なおじゃべりといった印象を受けた。
「…………いや、なんか思ってたのと…………」
「あぁ、ジェネレーションギャップってやつ。あるあるじゃんね、ママの代までは結構古い感じで喋ってたらしいよ。でも今の子はそうでもないかなぁ? あ、でも、アタシもママと話すときはちょっと小難しくなるかも…………? 」
「そう。そ、そんな方言みたいな感じなんだ…………」
少年の中の雪女の情報が、想像が、否応なく更新されていく。そして、その事に少なからずのショックを受けた。
こんな事ならば、熱にうなされていた方が、幾分か頭の動きが鈍り嫌な情報をシャットダウンできたものを…………と、少年がそう思ってため息を吐いた時、雪女がその端正な顔を、ずいと少年へ近づけた。
「ところで、アナタさぁ、なんで山に入ってきたの?ここ、冬季期間入山禁止だよ」
「死ぬためだよ」
間髪入れず、迷う事も無く、少年はさらりと言ってのけた。
対して雪女は「やっぱりか」と哀しそうに少し瞳を伏せる。
なぜ、見ず知らずの人間の心配を、あろうことか怪異がするのだろう。と、少年が首を傾げた時、「寝言で聞いてたからね」そう言って、雪女は外した視線を戻した。
「ま、悪夢にうなされての言葉のあやだと思いたかったけど」
「…………そっか、迷惑かな?」
少年は気になっていた事を聞いた。
まさか怪異が生息している山だとは知らなかったが、死のうとしている事実は変わらない。
下山して他の山に移るのも面倒だと思う中、ここが目の前の怪異の縄張りならば、お伺いを立てるのが筋だと持ったゆえの言葉だった。
対して、雪女は眉をひそめ、むむむ。と唸った。
常人ならば、目の前の人物が死ぬと口に出そうものならば止めるのが常なのだが、やはりそこは怪異。他人の生死に興味関心は薄いのか、文字通り冷たい女性な態度を取ったのだ。
「わかった。じゃあ死んでいいよ」
でも、雪女性の冷たさは少年にとっては好都合。だから思わず笑みがこぼれた。
「ありがと」
「あ、こらこら、ただじゃないよ~。第一こっちはそっちの命を助けたんだから、アナタの命はアタシが握っているじゃんね」
一筋縄ではいかないということなのか。雪女は人差し指を立て、ある条件を提示してきた。
「アタシの質問に答える事。隠し事あるでしょ、遺言聞いてあげる」
その口調はやはり気軽で、少年は友人へ軽口を叩く程度の気持ちで「幾つ答えればいいのかな」と返す。
「もちろん、アタシの興味全部じゃん?」
「全部、ね…………」
はっきり言って面倒くさいのは事実。しかし、超常の者に主導権を握られている以上、おとなしく従っておくかと少年は思う。ここに来るまでも長い道のりだったのだ。少しくらいのお話くらい我慢できない訳ではない。
言うなれば、今わの際の寄り道と考えたのだ。
「…………そうしたら、死んでもいいんだね。分かった。いいよ。何が知りたいかな」
「まず、アタシを見てどうして驚かなかったのか。すんなり受け入れたのか」
「雪女のことは昔から知識として知っていたからね。それと、死のうとしている人間が、今更怪異に遭遇してもお迎えが来たのかな程度で、驚きもしないよ」
「嘘じゃんね」
「どうしてそう思うの」
「少し前にここで凍死した人間さんは、アタシを見て超驚いてた」
おそらくは、ニュースで穏やかな表情で死んだ人間の事を言っているのだろうことは少年にはすぐに分かった。だから、
「個人差があるんじゃない?僕も多少なりとも驚いたよ」
「ううん。さっきは驚いてないって言ったじゃんね」
「…………まいったね」
「嘘を言うようなら、このままアナタを助けちゃうからね」
「あはは、それは困るなァ。わかった。次こそは本音を言うよ」
「何で死にたいの」
「んーーやることなすこと全部逆転するからかなぁ」
「よくわかんないんだけど…………」
「…………僕の歩く道は、進行方向と逆に流れるエスカレーターで、どんなに頑張ってもその場に留まるのが精一杯なんだ」
「どういうこと?」
「うん、みんな僕を置いて行っちゃうんだ。僕の両親は頭のいい人だった。姉ちゃんも義兄ちゃんも容姿がよくて、秀でた人間だった。弟は言うまでも無く天才で…………僕はね、ポンコツだった。何をやっても力を入れ始めると、途端に伸びなくなる。僕は主役にはなれなかった」
「だから死にたいの? 」
「まさか。これでも、腐らずこの年まで頑張ってきたんだよ。友達だっていたし、でも、家族が殺されたんだ。目の前で、さんざん辱められて、嬲られて…………姉ちゃんのお腹には赤ちゃんがいたんだけど、生きたまま食われた…………」
「なんで死んだの? 」
「僕がどうして君を見て驚かなかったか。その理由がそれさ。僕は、怪異に既に遭遇したことが有る。怪異――――化け物に家族を殺された。」
「家族の敵を討ちたいとは思わない? 」
「それは主役の仕事でしょ?僕にはなれないんだ。僕は脇役さ。目の前で家族が殺された後、僕にもやつらは襲い掛かってきた。でも、僕は死ななかった。一足遅く現れた専門家が対峙した。それでおしまい。あっけない。もう僕には、すべきことは無いんだよ」
言い切った少年は、思いのほかすっきりとした気持ちだった。
怪異に出会って家族を殺された。そんなことは知人友人にも言えはしない。秘密だったからだ。
他人にきちんと聞いてもらえることが、こんなに心軽くなるものなのか。と、軽く笑ったくらいだった。
とは言っても、胸の内を打ち明けたのは、家族を殺したのと同類の、同種とはいかないまでも怪異ではあったのだが…………。
「…………そっか、死にたくなる程辛かったんだね」
「そうだね」
少年も雪女もそれからしばらくの間、喋らなかった。静寂が訪れていた。
でも、不思議と少年は居心地が悪くなかった。まるで、気の置けない友人か、家族と居る様な気楽さで、その感覚が少年に訪れたのも本当に久しかった。
――――もしかして、これが魅入られるって事なのかな…………
沈黙が心地いいとさえ思ったのは、やはり家族と居た時くらいのものだったからだ。
その時の少年に芽生えた微かながらも温かな思い。思わず視界が潤むほどだった。
でも、そんな優しい静寂を破ったのは物騒な一言。
「…………アタシが殺してあげる」
「え?」
聞き間違いかと、雪女にどういう意味か尋ねると、やはり、雪女は同じことを言った。
しかも、最初にい放った時よりも優しく微笑んで、優しいまなざしで真っ直ぐに少年を見て、
「アタシがアナタを殺してあげるね」
こんな気持ちにさせてくれる相手が殺してくれるというのなら、願っても無い話だと、男は笑った。でも、同時に思う。
「嬉しいけど、どうしてまた?」
雪女は、男をしっかりと見たままだった。
その表情は、これから告げる言葉は真実であると、信じてほしいとその青い瞳が訴えていた。
「うーん、雪女の性ってやつなのかな…………アナタみたいなダメな人を見るとね。無性に何とかしてあげなきゃ。アタシが傍にいてあげなきゃ。って、そう思っちゃうんだよねぇ」
彫刻のような端正な顔を崩し、「ま、そういうこと」そう言って、雪女はにへらと笑う。
まるで人間の女性のように。人間臭く。少し照れたように言った。
それは、告白をする少女のようにも見え、男も照れくさくなり頬をかく。
「そっか、ありが――――」
「――――でもまぁ、死ねるなら、なんだけど。」
一転。不穏な流れを感じ取り、少年は緊張に少し強張る。
「専門家は一足遅れでやって来たんでしょ、なのにどうしてアナタは家族が襲われている間、襲われなかったの?」
言われて、痛い所を突かれたと、渋面を作った少年へ、さらに雪女は質問をぶつけた。
「アナタ言ったよね。専門家が対峙したって。退治じゃないの?いったい、誰と誰が対峙したの?」
艶やかなその口から吐き出されるなぜなぜ口撃。
最初の頃は、冷たいそよ風程度だったものが、どんどんと苛烈さを増していく。
それはまるで、雪山から一度転がり落ちた雪が、最終的には大挙して押し寄せる雪崩のようにどんどんと増え続ける。
「分かってるんでしょ?もう何回死のうとしたの?何かいうまくいったの?目の前で家族を殺されている時アナタも襲われていたんでしょ?どうして生きているの? 」
「君はっ…………」
少年は、思わず起き上がり、めまぐるしく、矢継ぎ早にまくしたてる雪女の顔を見た。
これまでのとっつきやすい態度はなりを潜め、凍り付くような冷笑を浮かべ、冷気か呼気か、口から白い霧を吐き出していた。
「そうか、君もあれらと同じ……………………」
怪異然とした雰囲気を前面に押し出した雪女は、恐ろしく、怖ろしく、畏ろしかった。
少年は冷気に負け、掛けてあった毛布を握り締めた。その時、毛布の隙間から、己のジャンバーが見えた。ひどくボロボロで、素肌が見える程引き裂かれていた事実にゾッとした。
「実はアタシも専門家なの。アナタを殺しに来たハンター。アタシがでもアナタを助けた時、いいや、ここに運んできたとき、何回もアナタの腹を刺したんだけど、傷一つつかなかった。こんなことは初めて」
「あはは…………まいったな」
雪女の伝承は数多くある。その中の多くは遭難者を介抱し、添い遂げるというもの。
しかし、逆に雪山であったが最期。そのまま雪像に変えられる。命を取られるといった伝承も少なくはない。
以前発見された、雪山の凍死体についてもそうであった。
少年が思い返してみれば、雪女はこう言っていた。
アタシを見た際に驚いていた――――生きた状態で出会ったと発言していたのである。しかし、現実として、彼は凍死体で発見されている。
「実はね、さっき話した人間もそう、死を望んでいた怪異だった。だから、アタシが優しく殺して上げた」
目の前の雪女は後者だったってことなのかな、と、少年は震えた。
しかし、その震えは恐ろしさからではない。歓喜に身が震えたのだ。
だってきっと、ようやく願いが叶うのだ。もうずっと、願い続けた思いが実を結んだのだと。
目の前の雪女は自分へ死を与えてくれる。天の御使いに違いない。そう思わざるを得なかったのだから。
「ねぇ、死にたがりのアナタは何者なの?」
「もう答えたよ。僕は死のうと思っても『逆』に死ねない。やる事成す事ダメになる。そう言うロクデナシなんだ。」
「ふーん…………『逆』……か……じゃあさ、こうしようよ」
雪女性はそっと男の傍により、着物の裾に手を添えながら、上品に膝を着いた。
その白い和服は白無垢のようで、真白の髪は角隠しの様で。
まるで、男の指へと指輪でもはめるかのように、男の手を取って言ったのだ。
「あなたが死にたくないと思えるその日まで、アタシがあなたを殺し続けて上げる。」