第一章 13
昼間の酒乱騒動から時計の針は進み、今は夜九時半。
悠馬は、約束場所である逆神神社へ歩みを進めるため、いつも使っている部屋着の上から防寒対策をばっちり着込み、ノワールの手綱を右腕に括り付けた状態で、スニーカーを履いていた。
「悠馬君、もっとあったかくしていかないと、ほら、これ着ていって」
玄関を出ようと、重たい引き戸を開けた時、背後から香織がダウンジャケットを持ってきた。
それは、フードの部分にもこもこのファーが付いた見るからに暖かそうな一品で、
「い、いいよ。流石に。俺もう五枚も厚着してるんだよ?これから歩くし、汗かいちゃうよ」
と、悠馬は思わず半目で呆れてしまう。
しかし、香織は湯冷めして風邪をひくよりもいいから。そう言って頑として引かなかった。
そのため、逃げるように手綱を引くと、玄関を抜け出発した。
庭の砂利道を駆ける事で発せられる、ゴリゴリとした環境音を持ってして、香織が背後から呼び止める声を無いものとした。
結局、悠馬が下り坂の前に来る頃には観念したのか、背後で玄関の引き戸が閉じられたのを聞く。そして、ひと段落着いたな。と軽く息をついた。
そして、今度は目の前に広がる暗く黒い下り坂へと視線を向けた。
昼と夜とでは知っている道も全く違った顔をみせる。
日が出ている時には、絶景を拝ませてくれていた場所。しかし、今は十メートル間隔に黄ばんだ街灯由来の薄明かり。昔ながらの白熱電球が、じーっ。と、異音を発しながら地面を照らしているのだ。
その時ふと、悠馬の脳裏を『根の国』という言葉がよぎった。
仕事先でお世話になっている先生の言葉であり、日本固有の死後の世界だと先生は言っていた。
それは地下にあり、かつ、地下にあるものを食べるともう、現世へは戻っては来れないらしい。
今、悠馬の眼下に落ちていくような下り坂は、それを彷彿とさせたのだ。
「…………さて、行こうか、ノワール 」
馬鹿馬鹿しい。と愛犬に問いかけた。
「……………………」
ノワールは答えない。
それどころか、その黒い毛むくじゃらは完全に夜闇に溶け同化している。
首輪から続く手綱を握っているはずなのに、その先には飼い犬ではなく、この世の暗黒そのものが結びついているかのようだ。
「我ながら想像力たくましいな」
そう鼻で笑って、悠馬は手綱を引き、下り坂へと足を下ろした。
降ろしてみればどうということはない。普段歩いているアスファルトの感覚を体は忘れる事はないのだ。
すっすっすっす。と、重力に逆らうことなく、自然と脚は前に出る。そして、その度に膝へと跳ね返ってくる体重の衝撃が、一寸先すら闇の視界を、たしかに上下にとゆらした。
そうして体を揺らしながら歩くと、数分もしないうちにいつもの通りへと出た。街灯の数は坂道と変わらないのだが、明るさは格段に違う。まるで暗いトンネルを抜けたかのように視界が開けた感覚になる。
離れて植えてある街路樹すら照らしている所を見るに、きっとこちらはLEDライトを使用しているのだろう。
「逆神神社は、こっちだったな」
悠馬は迷う事なく、進行方向へ体を向け、歩き出す。
そちらも明るい街灯が続いており、その真下まで来て、悠馬はようやく手綱の先にノワールが収まっている事を確認する。
しかし、その光源が放つ光の根元を抜けた時にはもう、また、その姿は夜闇へと溶けいく。
そんな事を何度繰り返しただろうか、既に悠馬の体は出来上がり、ぽかぽかとつま先から髪のてっぺんまでもが熱を帯びている。
「やっぱ、あのダウンはいらなかったな、なぁ、ノワール」
「……………………」
ノワールは答えない。だが、今回に限っては、手綱が引かれる感触があった。悠馬は肯定と捉え、満足げに頷いた。
逆神神社の公園まではすぐそこ。浮浪者対策か、防犯のためだろうか、公園にはライトが等間隔で配置され、家の中からカーテンを閉めれば就寝には問題はないだろうが、現地に居ると些か眩しくうつる。
「…………そろそろかな」
公園に足を踏み入れた悠馬はまず、出来るだけ陰になる場所を選んで移動してから、スマホを見た。
時刻は九時五十分。十分前行動。上出来だろう。
ここまで歩いてきたおかげか、体はストーブに当てられているかのように温かい。いや、熱いくらいだろうか。ゆえに、悠馬は防寒対策の上着を脱ぎ、部屋着の格好となった。
そしてその後、悠馬はおもむろにしゃがみ込んで、ノワールの首輪を外した。
ノワールは突如訪れた自由に歓喜し、公園を走り回る。その時悠馬が思ったのは遊具の数が昔に比べ減っていてよかったであった。
おかげで愛犬が文字通り、犬が棒に当たる可能性が格段に減るからだ。
しかし、その思いは今しがた敗れ去った。
ノワールが黒い二本の棒にぶつかったのだ。その二本の棒は人の足である。ノワールを見て、次にまたぐようなしぐさで、大股に動くと、悠馬の前に立った。
「こんばんわ、小山先生」
小山ゆかりが無表情で悠馬へと視線を注ぐ。
明るい色のセーター。灰色のひざ丈のスカート。夜更けなのだから風呂上がりのはずにもかかわらず、衣装に違いな見当たらない。もしや、この一種類しか持ち合わせがないのだろうか。
ただ、長髪だけは結ぶことも無く、背中に流している。
今いる薄明かりも相まって、黒と白のコントラストがよく映える。おかげで、その器量がいつもより際立ってよく見える。
願わくば、能面のように無表情でなければもっとはしゃげたのだが…………。
その残念を、悠馬は別の言葉に変換して窘める形で口にした。
「先生。感心しないですよ。子供一人。こんな夜更けに呼び出すなんて…………それでも教育者ですか」
「お戯れを」
ゆかりは能面の顔で言う。よく見てみると、その瞳はほんのり赤く、泣きはらしたような跡があった。
それでも、淡々と平坦に、伝言役として何の感情も無いようつとめているのがわかる。
「止めてください、そう言うのは。それで、今夜は何の用ですか」
悠馬も特に変わり映えのない感情でもって返す。
そして、両者の間に数秒ほど、静寂が訪れた。
悠馬はゆかりが何か言いたそうにしているのに気づき、根気良く待った。その間、ノワールが二回、遊具へとぶつかり、悠馬はあちゃーと頭を抱える。
このまま放し飼いにし続けて騒音被害が出ても困る。そう思い、悠馬が軽く右手を振ると、何をどう感じ取ったのか、ノワールは悠馬の傍へと戻り、行儀よく座った。
それをきっかけとしたのか、ゆかりは遂に重い口を開いた。
「私の妹が、ここで先日襲われました。やったのはあなたの言った通り奴でした」
きっと、ニシが逆神神社で助けた中学生程の子供の事を言っているのだろうことは、悠馬にはすぐにわかった。
「そうですか」
「…………なぜその時貴方様が助けて下さらなかったのでしょう。貴方様の庇護に入れて下されば…………」
何かあったのは明らかだった。
だから、悠馬は一度目を閉じ、そしてゆっくりと開けた。
そこには、真剣に、真っ直ぐに。しかし、申し訳ないとばかりに少し瞳を伏せた悠馬の姿があった。
「助けられなかったのは俺の怠慢。だから俺も腹をくくったんです。どう取り繕っても先生は納得しないでしょう。どんな罵りも甘んじて受け入れます」
「ーーっ…………っ…………!!」
ゆかりは必死に感情を押し殺していた。
しかし、相当大きな感情の波に飲まれている。その証拠に、歯ぎしりの隙間からは唸りが漏れているのだから。
「予想は出来ていましたが、伝言役である先生が、感情を荒だたせるということは何かありましたね」
悠馬の疑問に対しての答えは、ゆかりの手に握られていた。
刃渡り八センチを超える。銃刀法違反の元。包丁だ。
ライトの仄かな光すらも反射し、悠馬の顔にしろい白粉のように映る。
鋭い切っ先は悠馬に向け、ゆかりはそれを両手で握りしめ、及び腰になりながらも、涙を浮かべたその瞳はしっかりと悠馬へと向いている。いや、悠馬しか見えなくなっていると言った方がいいだろう。
「大方、妹さんを人質に取られた。そして、俺を消せって唆された」
瞬間、悠馬の足元から気配が漏れた。
濃厚でどす黒い暗夜の皇。闇の気配が、主の危機に秩序を捨て去り、四足で立ったのだ。
黒い触手のような毛皮。その中に埋もれている、すらっとした肢体が纏う漆黒の存在感。
あらゆる光を飲み込まんとする井戸の底のような黒い犬。
ノワール――――黒。
名は体である。意向を示さんと、ぬらり。と、焦点の合わない双眸をゆかりへとむけていた。
「っこれ――――」
――――犬じゃない。犬ではなかった。犬に似たナニか。人間に害を為す異形なモノ。
大抵の物では見抜けない。普通の犬と区別がつかない程の擬態が出来る高位の存在。
邪悪で険悪、混沌で無秩序。影のようにぬるりと這い寄る化け物。
「あ、アランカヌイ!?」
「ノワール、『待て』これは俺への罰だ。受け入れよう。」
主人の一瞥で、ノワールはまた秩序を取り戻した。その姿はやはり、ただの雑種犬にしか見えない。
そして、そちらに気を取られていたせいで、もう一つ、気配が増えている事に全く気付かなかった。
「あらまぁ…………」
邪悪な気配に誘われて、ゆかりはビクリと悠馬の背後を見やった。
ありえない。今までそこに人はいなかったはずなのに、どういうからくりなのか、ゆかりにはわからない。だというのに、
「悠馬はんの思った通ぉりんなりはったなぁ…………」
そこは既に闇の盟主の御前であった。
わかるのは、はんなりとした女性の声。
人食ったような魔性の着物姿を用い、妖艶にも口元を隠している。
左右で結っている濡れ烏の黒髪は、うす暗さも相まってえも言えぬ色彩を放っている。
そして、何よりも印象的な切れ長の双眸へ納められた黄金の瞳は爛々と光り、ゆかりを捉えていた。
抗いがたい魅力が手招きをしている。欲せざるを得ない肉欲が胎を苛むのだ。
古風な絶世の美女が垂れ流す妖艶に逆らえない。逆らってはいけない。逆らうなど畏れ多い。
ゆかりは気付いた、いや、分かった。ここはもう現世と隔絶されている。
既に、ここは――――
「――――ここはもう根の国やょ…………」
その時、ずいっ。と、はんなりとした女性が、ゆかりへと悠馬を押し込んだ。
「さぁ…………最後の晩餐や、悠馬はん、たぁんとお上がりぃ…………」
突然のこと過ぎて、ゆかりには反応が出来なかった。しかし、そんな事はお構いなく惨劇は始まったのだ。
「ぇ…………」
ゆかりが持っていた包丁に、生々しい肉の感触が伝わる。
それは、鶏肉を切るよりも固く、しかし、一定の部分を抜けるとズズズズ…………と悠馬の体重だけで刃が入っていく。
腹が直に死を食っていく…………。
そしてあっけなく、悠馬は吐息を漏らし、力なく地面へ倒れた。
絶命に至る刃はゆかりの手からは抜け、悠馬の腹に深々と突き刺さっている。
「ぁ…………ひっわ、わたしが…………」
ゆかりはパニックにろれつが回らない。
視界は揺れ、いま、どうして自分がここに立って、悠馬を眺めているのかが分からなくなる。
たしかに殺すつもりで来た。妹を人質に取られて、仕方なかった。でも、成し遂げられるとも思ってなかった。人を殺す勇気などなかった。だから、ここにくるまで、ずっと、謝りながら、吐きながら、泣きながら、来たのに、
「あ~ぁ…………あっけないもんやねぇ、にんげんさんはぁ…………」
はんなりとした女性の一言が決め手となって、ゆかりの感情が決壊した。
その場にへたり込んで腰を抜かし、しかしその手だけは別の生き物のようにポケットの中のスマホへと伸びた。
「…………け、警察…………びょ、びょうぃんっ…………」
情けなくも、止まらない涙でスマホの画面がよく見えない。タップしても、零れた涙の水滴で、うまく反応しない。
「なんでよ!なんで!?早く早く!いやっ…………」
ゆかりを見つめるアランカヌイの四つの瞳。
はんなりとした女性の黄色い双眸が罪悪感を煽る。
黒犬の虚ろな双眸が不安を後押しする。
でも、これで、妹は助かるかもしれない――――
――――私は今、なにを考えてっ…………
魔が差したジレンマが、ゆかりを壊しそうになった時、
「せ、先生…………」
悠馬の口から血液が赤く漏れ出た。
子供の遊び場が、あってはならない、化物の愉しみの場へと変わっていく。
口から血を吐いたのだ。きっと内臓も傷つけた。ハッと我に返り、ゆかりは悠馬にひたすら謝った。
「ほ、北東様!申し訳ありません、申し訳ありませんっ…………私は…………私はなんてことを」
ゆかりは己に知識がある事を恨んだ。いっそ無知ならば、ここまで心荒れる事も無かっただろうに、
そう思った矢先、未だにわが身可愛さでそう思う、自己中心的な己に対し、ゆかりは顔をグシャグシャにした。
「そんな顔しないで。先生のせいじゃありません…………妹さんをお大事に――――」
その瞬間。悠馬の首が飛んだ。
悠馬の首は綺麗な放物線を描いて、ゆかりから二メートルばかり離れたところへと、落ちた。
介錯をしたのは、はんなりとした女性。気付けば犬の方は姿を消している。
「――――未練がましい男は嫌われてまうよぉ?…………」
女性は、人一人殺したというのになんの負い目もないようで。
流れるように悠馬の懐からスマホを取り出すと、あろうことか、その首なしの胴体を写真に収めた。まるで、記念写真とでも洒落込むように。
その時炊かれたカメラのフラッシュでちらりと見えたはんなりとした女性の顔にゆかりは戦慄する。
笑っていた。嗤っていたのだ。
三日月と見まごう裂けた口で楽しそうに、嬉しそうに、邪気たっぷりな愉悦に塗れ、悪徳を享受していた。
そうして存分に堪能してからその後、「さて」と、黄金の瞳がゆかりを見る。
「……………………ヒッ」
その時ようやく、ゆかりは魔性の魅力から逃れた。代わりに今は、それを遥かに凌駕する恐怖にまとわりつかれているが、
「そない熊さんみるよぅな目つきぃ、うち悲しぃわぁ…………べっぴんさん同士仲良ぉしてぇな」
はんなりとした女性はその恐怖に囚われた視線が芳しくないようで、わざとらしくおどけてみせた。
しかし、
「あ、…………の、すみません」
ゆかりはうまく言葉が出てこない。語彙力が消失し、思考が著しく低下していた。防衛本能が、白痴へと片足を浸けていたのだ。
「妹はんによろしゅうなぁ…………」
そう言われても、こんな血なまぐさい事を、妹になど、どうして話せようか。
とはいっても、ゆかりは睨む勇気も、異を唱える気持ちも起きず、下を向く。
すると、その視線の先にある悠馬の生首を女性がスッ持ち上げた。
「ん。ほぉら、これ持って帰りぃ…………胴体の方も、後はおねぃさんに任せるさかいに…………」
はんなりとした女性が手渡すその命の重さを、ゆかりは受け取るしかなかった。
初めて持った人の生首。二十キロから三十キロほど。未だ、したたる命の痕跡は、首の断面からとろとろと流れ、地面へと零れていく。
顔を持つのは躊躇われ、髪の部分を持った。
その感触は、ナイロンを薄く裂いたようで、ゆかりの手汗で湿った手の平に嫌という程絡みついた。
「ふふふ…………嫌そな顔やねぇ…………おねぃさんのために死んだんにぃ…………あ~ぁ、かぁいそうな悠馬はん…………」
ゆかりは図星を受け、頭を落とす勢いで肩を跳ね上げる。
可哀そう。かわいそう。可愛いそう。カワイソウ…………延々繰り返される意地悪。
耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるも、両手は既に塞がっている。
「…………ぅ…………ひ…………わ、わかっていますっ…………もぅヤメテ…………」
ゆかりは泣いて懇願する。
自分が悪いのなんて分かっている。これ以上責めるのはやめてくれと外聞も無視して零した。
もう、言葉を交わしたくなかった。その姿を見たくもなかった。記憶を消し去りたかった。この魔性の女と話していると、猜疑心を掻き立てられ、罪悪感が増幅される。
何が正しく、どれが間違っていないのか、とんと分からなくなってくる。この邪知と、相対したことがそもそもの運の尽きだったのだろう。
「ふふ、久々の自由…………楽しまんなんてぇ…………そないなバチ当たりなこと、どうしてできましょか…………」
んーっ。と、一つ伸びをしたはんなりとした女性は、簡単に踵を返すと、
「ほな、さいなら…………大罪人のおねぃさん…………」
最後に一言だけ告げると、何処へともなく、夜の闇へと消えていった。
それからどれだけの時間放心していたのだろうか。
ゆかりが我に返るまで誰もこの場に来なかったことが奇跡としか言いようがない。
「…………最悪ね…………私はでも、あの子はこれで助かると思ってる…………は、はは…………」
力無く、ゆかりは高校生――――ハンターへと電話し、事の顛末を語った。
北東悠馬を殺した事で、魔性のアランカヌイが、漆黒の化物が、世に解き放たれたことを、ゆかりは呆けた顔で、ゆっくりゆっくりと語ったのだ。




