寒気
テレビからは近年の出生率低下について伝えるニュースキャスターの声が流れ、三人掛けのソファの前に置かれたガラステーブルの上ではレンジで温めたばかりの冷凍チャーハンから微かに湯気が立ち昇っている。
時計の針が七時を回ったばかりの宵宮家のリビングではいつもと変わらない夕食の風景が広がっており、夜一はスプーンを手に持つと静かにチャーハンを口の中へ運び始めた。
冷凍食品は下手に自分で作るよりも完成度が高いことも多いけれど、似たような味付けが多くて飽きやすいのが難点だ。
そんなことを考えながらスプーンを動かしているうちに、夜一は車庫の方から車の音が聞こえてくるのに気がついた。
てっきり、今日も帰ってこないと思っていたけれど。
車の音がしたということは、どうやらこの家のもう一人の住人が帰ってきたらしい。
夜一が思わず渋面を作っている間に車のエンジン音は止まり、代わりに玄関の扉を開き誰かが家の中に入ってくる音が聞こえてきた。
「またそんなもの食べてるの?」
扉を開けリビングに入ってきたのは黒髪を肩のあたりで切り揃えパンツスーツに身を包んだ女性で、彼女はブラウンの瞳を夜一に向けると僅かに眉間へ皺を寄せた。
「……いいだろ、別に。わざわざ作るより、こっちの方が楽だし」
夜一が女性の方へ視線を向けることなくぶっきらぼうな口調で応えると、彼女は手に持った鞄を漁ってから財布を取り出しガラステーブルの上に一万円札を置いた。
「悪いとは言わないけど、毎日それじゃ栄養が偏るでしょ。明日は、それを使って少しはマシなものを作りなさい」
「今月分の生活費なら、まだ余って――」
「こうして別に渡さないと、出来合いのものしか買わないじゃない。余りは小遣いに加えていいわ」
一万円札に描かれた肖像を複雑そうな表情で睨みつける夜一の背中へ言葉を投げかけてから、女性はリビングを出て洗面台のある方へと歩いて行った。
後に残された夜一は暫し無言で一万円札を見つめていたものの、やがて馬鹿らしくなったのか大きく息を吐き出し二つに折った一万円札をポケットへ突っ込んだ。
夜一にお金を渡した女性、宵宮夕夏は彼の母親であり現在はこの家に夜一と二人で暮らしている。
とはいえ、夜一と夕夏の二人が毎日顔を合わせているかというとそういうわけでもなく、二人暮らしという表現は間違いとまでは言えないものの実態を正しく言い表しているとも言い難い。
夜一と夕夏の二人が同じ家で寝泊まりするのは各週の土曜日だけというのがほとんどであり、大抵の場合それ以外の曜日は夕夏が家を空けている。
一応、今日は木曜日にも関わらず夕夏が帰ってきたけれど。
税理士として個人事務所を構えている夕夏は事務所に併設された居住スペースを事実上の生活空間としており、仕事を終えても宵宮家には帰らず事務所で寝泊まりしている。
夜一は何度か事務所を訪れたことがあるけれど。
私室の隅には整頓しきれていない書籍が積み上がり、夜一と共用の安物しかない家とは違って風呂場を覗けばお高いシャンプーだのリンスだのが並ぶ空間は、物が少なく整然としたこの家にある母の部屋より余程生活感があった。
義務感から自分の顔を確認しにきてはいるけれど、本音を言えば事務所の方が遥かに居心地がいいのだろう。
正直なところ、夜一としても母と一緒にいる時間は息が詰まるし、下手に顔を合わせるよりはこちらのほうが気楽だ。
昔、まだ両親が離婚していなかった頃は家族は一緒にいるのが当たり前だと思い込んでいたけれど。
いざ父と呼んでいた人がいなくなってみると、残された夜一が感じたのは解放感だけだった。
結局、家族なら仲よくできるなんて、そんなのは幼稚な思い込みでしかなかったのだろう。
◇
四限目の数学の授業が行われている教室にて、黒板の数式をノートに書き写していた夜一は不意に感じた冷気に反応し体を震わせた。
四月も中旬を迎えた今となっては上着を着ていると暑く感じられることも増えたし、実際に今日も気温は低くないはずだけれど。
ほんの一瞬ではあるが、彼の右半身には真冬の屋外に放り出されたのではないかと思う程の冷気が浴びせられ、右手は雪でも掴んだかのようにかじかんでいる。
理由に心当たりなどない夜一が怪訝そうな表情で冷気のやってきた方向へ目を向けると、そこには淡々とノートへ書きこみを加える千奈と、そんな彼女の首へ背後から抱き着くようにして両腕を回している光の姿があった。
別に、光が千奈に抱き着いているだけなら姉妹なのだしそういうこともあるだろうと流せるけれど。
今の光の顔には生気を感じられない無表情が張り付き、肌の色も心なしかいつもより白くなっている。
「光?」
いつもとは異なる隣人の姿に夜一が思わず光の名を呼ぶと、彼女は緩慢な動作で首を横に向け千奈の首に回していた腕を解くと、左の人差し指を伸ばし夜一の眉間に押し付けた。
光の手は氷でも押し当てているのではないかと思うほどに冷たいけれど、彼女の手が触れたことで感じる刺激はそれだけであり爪が幾ら肌へ食い込んだところで痛みはない。
周囲へ目を巡らせてみれば寒そうにしている生徒は他にいないので、恐らくこの冷気は物理的に温度を下げているわけではないだろうし、夜一の霊感がそう感じさせているだけなのだろうけど。
冷気の発生源と思しき光はずっと虚ろな雰囲気を纏ったままであり、先程の夜一の声にも反応する様子はない。
「これ……もしかして」
様子のおかしい光を見ているうちに夜一の表情は曇り始め、力なく開かれた右手から落ちたシャーペンは床とぶつかり微かに音を立てた。
すると、その音に反応したらしい光が急に瞬きを始め、次いで夜一の額に押し当てられた自分の人差し指を信じられないといった面持ちで見つめ始めた。
「……えっと?」
怪訝そうに首を傾げる光の表情は既にいつも通りのものに戻っており、指先から伝わってくる冷気も消え失せた。
ひとまずは、元の平穏が戻ったと解釈していいのだろうけど。
夜一の表情は晴れず、ただ気づかわしげな目で光の顔を見つめ続けている。
◇
数学の授業も終わり昼休みを迎えた教室では、いつも通りに夜一が購買で買ってきた惣菜パンを口に運び、千奈が総務委員の二人と弁当を囲んでいた。
「数学の小テストって、どんな問題が出るのかな」
「始まったばかりでそんな難しい問題も出さないだろうし、無難に教科書の例題を数値だけ変えたやつじゃない」
総務委員を務める康介と心の二人が先程の授業で予告された小テストについて話していると、何か思い出すことがあったのか千奈が僅かに反応を示し首筋を右手で撫で始めた。
「そういえば、数学の授業中だけやたら寒かったわね。この教室、どこかから隙間風でも入ってるんじゃないかしら」
千奈としては近くの席に座る相手なら共感を得られると考え何気なく発した言葉だったのだろうけど。
生憎と今の発言に彼女が予想したような反応が返ってくることはなく、総務委員の二人はただ困惑したような表情を浮かべるだけだった。
まあ、それも当然のことではあるのだろう。
総務委員の二人からすれば窓際の席で受ける授業は窓から入ってくる日光のせいで暑いくらいであり、空気を冷やしてくれる隙間風なんてものも存在しない。
だから、千奈の発言に共感できる人間がいるとすれば、それは近くで彼女たちの会話を聞き流していた一人だけだ。
たとえ共感している本人がその事実に一番驚いているのだとしても、事実として彼は彼女と同じ冷気を感じていた。
「待て。寒かった? 何でお前がそんなことを言うんだよ」
机に両手を叩きつけながら勢いよく立ち上がったせいで少し音が響いてしまったし、そのせいで幾ばくかの注目を集めてもいるようだけれど。
そんなこと、今の夜一にとっては心底どうでもよかった。
あり得ない。
夜一の心の中では、その一言だけが延々と渦を巻いている。