青い鳥
美化委員が集められた部屋には未だ教師は来ておらず、室内にはどこか弛緩した空気が流れている。
もはや欠片も緊張した様子のない上級生と違って一年生の中には体を固くしている者もいるけれど。
大半は近くの生徒と話すなりスマホをいじるなりしていて、休み時間と大差ない雰囲気だ。
これなら、私語を咎めるような人間もいないだろう。
そう判断した瑞希はちょうど右隣の席に座っていた別クラスの男子へ声をかけた。
「昨日はごめんね。千奈も悪気はないんだけど、光さんのことになるとちょっと周りが見えなくなっちゃうみたいで」
「……別に、昨日のことはもういい」
声をかけられた夜一は無愛想に応じてから、うんざりした様子でため息を吐いた。
「それより、悪いと思ってるなら今からでもあいつのこと止めてくれ。僕は光のことなんて大して知らないのに、やたら張り切ってて怖いんだけど」
「えっと、それは……」
昨日は千奈を止める側に回っていたので、或いは彼女なら千奈を止めてくれるかもしれない。
夜一が抱いていた微かな願望は、この歯切れの悪さから察するに叶うことはないだろう。
「ハァ……とりあえず、あいつが言って止まるようなやつじゃないってのはよくわかった」
夜一が諦めたように言うと、瑞希は乾いた笑みを浮かべながら僅かに視線を逸らした。
「あ、そうだ。そういえばまだ自己紹介してなかったよね。私は園原瑞希。クラスは三組だから、もしかしたら選択授業で一緒になるかもね」
夜一は暫しの間、露骨に話題を逸らしにかかった瑞希を半眼で見つめていたものの、選択授業の話が気になったのかやがて表情をいつも通りに戻し口を開いた。
「選択授業……っていうと、確か芸術科目がそうなんだっけ?」
「そうそう。中学時代の先輩に教えてもらったんだけど、一、三、五の奇数組と二、四、六の偶数組が合同でやるらしくてさ。千奈が一緒のクラスだって言ってたし、宵宮くんも一組でしょ?」
夜一からすればまだ選んでもいない選択授業についてよくもまあ、そこまで詳しく知っているものだと感心するけれど。
瑞希は夜一とは正反対のオーラを放っているし、彼女のような人間からすればこの程度の情報は自然と耳に入ってくるものなのだろう。
「ねえ、もしかして宵宮の言ってた友達って棗のこと?」
会話の中に出てきた千奈の名前と先程の夜一には友達がいるという話を結び付けて考えたのか、夜一の右隣に座っていた鈴が興味深そうに声を上げる。
「全然違うけど。何でそんな意味不明な発想が出てくるんだ?」
「だって、千奈って私たちのクラスの棗千奈のことでしょ?」
「だから?」
「宵宮が名前覚えてるってことは、仲いいんじゃないの?」
暗に夜一は同級生の名前すらロクに覚えていないだろうと言われているような気はするけれど。
その指摘は正しいと言わざるを得ないし、夜一が最も多く会話した同級生が千奈だというのも確かだろう。
まあ、それは仲がいいからなどではなく光からの頼み事を引き受けた副作用のようなものなのだけど。
光を見ることのできない鈴には言っても詮無いことだ。
「そんなんじゃないよ。僕は、あいつにあらぬ疑いをかけられて困ってるだけだ」
「あらぬ疑いというと、痴漢冤罪的な?」
「……一応聞くけど、そのふざけた発言の根拠は?」
「だって、ほら、宵宮ってヤバいやつオーラ出まくりだし。そういう疑いを持たれることもあるのかなーと」
「あるわけないだろバカ」
夜一が不貞腐れたように前を向き横からの言葉に対して反応を示さなくなると、瑞希は苦笑を浮かべながら夜一を挟んで向かい合っている鈴へ声をかけた。
「まあ、千奈にもいろいろあるから。できれば、あんまり詮索しないであげて」
「はーい。てか、そう言うってことは園原は棗と仲いいの?」
「うん。家が近所で、小学校からずっと一緒」
「へー、幼馴染ってやつ? いいなー、私そういうのいなくてさ」
夜一は話を一切聞いていないように見えて、実際は自分の悪口を言っているんじゃないかと気になり密かに二人の会話へ耳を傾けているのだけれど。
よりにもよって二人が自分を挟んでやり取りしているせいか、こうしているとどうにも居心地が悪い。
夜一が僅かばかりの気まずさを抱えながら聞き耳を立てていると、やがて二人の会話は瑞希と千奈の小学生時代へ移っていった。
「小学校の七不思議?」
「うん。三年生の時に、そういう噂が流行ってた時期があって。まあ、内容は誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえてくる、みたいなありがちなやつばっかりで私は信じてなかったんだけど。一回だけ、千奈が無人の音楽室から流れてくる第九を聞いたって言ってたの」
何やら幼馴染に憧れを持っているらしい鈴はともかく、夜一にとっては千奈と瑞希の小学生時代のエピソードなんて特別興味を引かれる話題ではないけれど。
七不思議という単語については少しばかり思うところがある。
七不思議、或いは学校の近くにある心霊スポット。
今の夜一ならそんなものを話題に出している同級生を見れば鼻で笑って終わりだろうが、実のところ昔の彼はそうではなかった。
誰かがその手の話題を出すたびに、実は彼、彼女にも自分と同じものが見えていて、語られているのは遊び半分の創作などではなく本当に見たままの情報なのではないか。
そんな風に思って、密かに期待していた。
まあ、現実にはそんなことがあるはずもなく、噂の大半は単なるでまかせで、稀に本物の心霊現象があっても夜一以外には誰一人反応を示さなかったのだけれど。
当時の夜一は自分と同じように霊感を持った誰かがいるかもしれないと考えており、同じように霊が見える人なら或いは友達になることもできるかもしれないと期待していたのだ。
煉理に友達を作れと唆されていたのも原因の一つとはいえ、今となっては思い出すだけでのたうち回りたくなる黒歴史と言う他ない。
特に、小学校の宿泊体験で希望者だけで行う肝試しに自分から参加したときなんて最悪だった。
首を吊った女の幽霊が出るという曰く付きの大樹を前にしてクラスメイトは甲高い声で騒いでいたけれど、夜一から見れば大樹は単なる太い樹で幽霊なんてどこにもいない。
そして、当時の夜一は今と違って煉理の命令を馬鹿正直に実行しようとする愚かな子供だったので、周囲に感謝されたい一心で的外れな親切心を発揮した。
みんなが幽霊の声だと言っているのは風の音で、遠くに見えたという白い着物を着た幽霊は木に引っかかったビニール袋を見間違えただけ。
こんな具合で夜一はクラスメイトが騒いでいる内容を一つ一つ吟味し、その全てが勘違いであることを懇切丁寧に説明した。
わざわざ自由参加の肝試しにやってきた挙句、ひたすら白けた発言を続け場の空気を盛り下げた夜一が周囲からどのような扱いを受けたかについては言うに及ばずだろう。
「あー、やなこと思い出した」
夜一はげっそりとした顔で独り言を漏らし、嫌な記憶を追い出そうとするかのように深呼吸を始める。
窓から入って来た一羽の青い小鳥が彼の前に降り立ったのは、ちょうど大きく息を吸い込み胸を反らしたタイミングだった。
「うーん、今年の新入生も可愛い子が多くて実にいい。半分も余計なのがいるのは残念だが、そこにさえ目を瞑ればスカートの中に入るのが楽しみな子ばかりだ」
「ハ!? ゴホ! オエッ」
息を吸い込んでいる際中に頭のおかしい台詞が聞こえてきたからか、夜一は盛大にむせ咳き込み始める。
小鳥はというと、そんな夜一の様子を見て首を傾げながら嘴を小刻みに開き始めた。
「うん? 何だ? この挙動不審な男は。よくわからんが、可愛い女の子に挟まれているのは万死に値する。無駄に顔がいいのもムカつくし、頭に糞でもかけてやるか」
どうやって発声しているのか知らないが、小鳥の口からは若い男の声でその愛くるしい容姿には見合わない台詞ばかりが紡がれていく。
見た目には普通の鳥と大差ないが、夜一にはわかる。
こいつは、妖怪と呼ぶべき存在だ。
「おい、焼き鳥にされたくなかったら妙な真似はするなよ」
夜一が小鳥を睨みつけながら口を開くと、彼の青い瞳と目が合った小鳥は暫し微動だにせず固まってから、大げさに翼をはためかせた。
「はああ!? 俺様が見えてる!? 何だコイツ、気持ち悪!」
動転した様子で飛び立とうとする小鳥の体を夜一が鷲掴みにし、そのまま潰れない程度に締め上げていく。
「誰が気持ち悪いって。お前、自分の体を掴んでるのが誰なのかよーく考えてから口を開けよ」
夜一にとって小鳥とのやり取りは何らおかしなものではなく、彼は自分の言動に一つたりとも疑問を抱いてはいないけれど。
彼の両隣に座る少女たちはそうではないようで、夜一が喋り始めたのに合わせて会話を中断した彼女らの視線は小鳥に向かって伸ばされた夜一の右手に向いている。
もしも夜一が妖怪の姿を見ることができるのは自分だけで、周囲の人々には見えないのだということを今すぐ思い出したなら、或いはまだ言い訳のしようもあったのかもしれないけれど。
生憎と彼の意識は突如として現れた喋る小鳥に向けられており、両隣の少女のことは既に意識の彼方へ追いやられている。
結果、周囲の目には大きな声で独り言を口にしながら虚空に手を伸ばす少年だけが映ることになる。
「ねえ、宵宮のこと放っといてもいいと思う?」
「え、それは……流石に、可哀そうじゃない?」
不幸中の幸いというべきか、二人の少女は人間ができていたのでまだ最悪の事態にはなっていないけれど。
今の夜一が周囲に良い印象を与えていないのは確かだ。
「んー、これの知り合いだと思われるのやだなー」
鈴が堂々と口にした言葉に、瑞希は控え目ながらも内心で同意した。