心安らぐ祠にて
人混みに嫌気がさして出席するはずだった入学式から逃げ出してきた少年、夜一は果てが見えない程に長く伸びる石段を上りながら先程出会った少女たちのことを思い出していた。
肉親が気がかりで成仏できずにいる幽霊。
それ自体は特別珍しいわけじゃない。
今までだって、そういう手合いには何度も会ったことがある。
ただ、今までの経験を基に考えると、幽霊というのは基本的に不安定な存在だ。
出会った直後には現世への未練を延々と垂れ流していたやつも、大抵は一週間も経てばいつの間にかいなくなっている。
それなのに、光は自分が死んでからもう二年経っていると言っていた。
これは、流石にちょっと珍しい。
一応、夜一は一年間幽霊として彷徨い続けていたやつなら知っているし、そういう特殊なも例もあるというのは理解しているのだけれど。
光もその類だとすれば、彼女とは長い付き合いになるかもしれない。
「そういえば、反射的に逃げちゃったけど、あの千奈とかいうやつちゃんと諦めたよな? ……また絡んできたりしないよな?」
光のついでにその妹である千奈のことも思い出した夜一が表情を苦り切ったものに変え、自分を安心させるかのように独り言を呟いていると、次第に彼の周囲が霧で覆われ始めた。
霧の中では三つの火の玉が宙に浮かびじゃれ合うようにして揺れ動き、耳を澄ませば女のすすり泣きのような声が聞こえてくる。
普通なら気味悪がって逃げ出しそうな状況ではあるが、夜一に動揺した様子は一切なく足元さえおぼつかない霧の中を迷いのない足取りで進んでいく。
「夜一!」
夜一が石段を上りきり五本の短刀によって囲われた祠が鎮座する空間へ出たところで、彼の名を呼ぶ鋭い声が響き辺りに満ちていた霧が一斉に吹き散らされた。
「お主、今日から高校だと言っておったろう。なぜここにおる」
霧が晴れると、祠の屋根に尊大にも思える堂々とした態度で座る女が現れ、責めるような調子で言葉を紡ぎつつ金色の瞳をばつが悪そうに視線を逸らす夜一へと向けた。
女の髪は鮮血で染められたかのような鮮やかな赤色で、後ろで結った髪のうち十センチ程度を檀紙で包み白の水引で留めている。
身に纏っている千早と緋袴も相まって、巫女を連想させる出で立ちではあるけれど。
袴の丈が膝上までしかなく、そこから伸びる足を黒のストッキングが包み履物には白のブーツを使用していることも踏まえると純粋な神職にも見えない。
見た目から判断すれば、年の頃は二十前後といったところだろうか。
「……それは、まあ、ほら、初日なんてどうせ退屈なスピーチ聞いてクラスの顔合わせしたら終わりだしさ。行かなくても問題ないって」
「ほう? では、ただでさえ他人と話すのが苦手なお主が、顔合わせすら放り出した状態で友を作れると、そう言いたいのか?」
「それはもちろん……無理だけど。でも、僕にはお前がいるだろ、煉理」
開き直り高校での人間関係を初日から諦めようとしている夜一を見て赤髪の女、煉理は羽毛が宙を舞うかの如き軽やかな動作で夜一の眼前まで跳躍してから、白く細い指を彼の顎に添えそのまま顔を持ち上げた。
「阿呆。たとえ見鬼の才に恵まれ我の契約者となれたとて、お主はあくまで人間じゃ。人の世との関わりを完全に断つことはできん」
煉理の言い分に反論が浮かばなかったのか、夜一は頼りなげに瞳を揺らしながら完全に黙り込んでしまった。
煉理は未だ何か言いたげにしていたものの、夜一の様子を見て追い打ちをかけることは憚られたらしく、顎に添えていた手を離しそのままゆったりとした動作で銀色の髪を撫で始めた。
「夜一、人は嫌いか?」
先程までとは打って変わって穏やかな声音で問いかける煉理に対し、夜一はどこか拗ねたような表情を浮かべてから口を開いた。
「当たり前だろ。あいつら、煉理たちのことが見えないどころか、僕がお前らと話してるだけで下らない悪口ばっか言ってくるし。ホント、何考えてるのか全然わかんない馬鹿ばっかだよ。……嫌いに決まってる」
夜一の言い分を聞くと煉理は苦笑を浮かべながら髪を撫でる手を止め、手招きで誰かを呼ぶような仕草を見せる。
すると、それに呼応するかのようにして周囲に生えた木々が揺れ始め、やがて額に月の紋様が浮き出た熊や、宙に浮かんだ状態で燃え続ける火の玉が姿を見せ始めた。
「お呼びですか、姫様」
熊の口からは人間と遜色のない流暢な言葉が紡がれ、火の玉は自分の意思を示すかのように明滅する。
夜一にとっては見慣れた何でもないやり取りだけれど、きっと今日学校にいた同級生の中に彼と同じ感想を抱く人間はいないだろう。
そう考えると、仮に入学式に出席していたとしても他の生徒と話が合ったとは思えないし、ましてや友達など望むべくもない。
煉理はいろいろと口うるさく言うが、夜一としては学校でよくわからない連中に囲まれているよりもここで煉理たちと一緒にいた方が余程有意義だと感じるし、何より楽だ。
「近頃この辺りに流れてきた猫が何やら騒がしくしておってな。本来なら夜一が学校へ行っておる間に会いに行くつもりだったのじゃが、見ての通り今はこの阿呆の相手をせねばならんのでな。悪いが、代わりに様子を見て来てくれんか?」
「かしこまりました」
熊が恭しく頭を垂れ、火の玉が一際大きく燃え上がる。
煉理はそんな熊たちの様子を見て満足そうに頷くと、夜一の方へ向き直り酷薄な笑みを浮かべた。
「さて、我の言いつけを破り逃げ帰ってきた愚か者には相応の罰を与えねばな」
「待て。僕はお前に言われた通り学校には行ってきたぞ。まあ、ちょっとだけ帰るのが早かったのは認めるけど、寧ろ僕にしては頑張ったほうだと思わないか?」
「思わんわ。だいたい、お主は中学の卒業式を欠席したときにも似たような言い訳を口にしておったろうが」
自分の言い分を聞き入れる様子のない煉理を見て形勢不利だと悟った夜一は踵を返し走り出そうとしたが、彼が足を踏み出すよりも一拍早く煉理の手が彼の首根っこを掴み動きを封じ込めた。
「今日の罰は……そうじゃな、我への供物として少しばかり酒を買ってもうらとするか」
煉理は夜一の鞄からスマホを取り出すと手慣れた様子で操作し、通販サイトのカートに日本酒の一升瓶を投入した。
肉の体を必要とする人間の魂であるが故に物に触れることすらできない光のような幽霊とは違って、煉理や先程姿を見せた熊の妖怪は最初から霊体であることを前提に生まれてきた存在だ。
夜一以外の人間の目には映らず声も届かないという点は同じだけれど、彼女たちの場合は肉の体がなくとも魂だけで直接物体に干渉することができる。
そのため、せめてもの暇潰しにと昔スマホを貸してやったことがあるのだけれど。
煉理は夜一の想像以上に人間の文化に対する理解が深く、あっという間に彼以上にスマホを使いこなすようになってしまった。
おかげで、代金を払うのは夜一であるにも関わらず、今では何かにつけて自分の好物である酒を通販で買おうとしてくる。
「おい、ふざけんなよ! 今月の小遣いには、お前の酒なんか比べものにならない大切な使い道があるんだぞ」
「ふむ、もしや高校で必要なものを買い揃えるのに使うのか? であれば、別の罰を検討してやらんでもないが……」
流石に学校生活の妨げになるような行動をするのは気が引けるのか、煉理が残念そうな表情を浮かべると夜一は追い打ちをかけるかの如く自信満々に口を開いた。
「いいか、よく聞け! 今月は、あの国民的大人気ゲーム、パチットモンスターが発売――」
「注文確定、と」
「あー!? なんてことすんだ、このアル中!」
小遣いの使い道がゲームだとわかった途端に煉理は話を無視して日本酒を注文し、それを見た夜一は悲鳴に近い叫び声を上げてからスマホを奪い取り、がくりと膝をついた。
「ああ、今回のパチモンもいつもの如くバージョン違いで二つ出るから、ちゃんとダブルパックを買って他人に頼らずモンスターをコンプするつもりだったのに……これじゃあ、一つしか買えないじゃないか」
「……前々から思っておったのだが、お主のゲームに対する拘りはよくわからんの」
煉理からすれば似たような内容のゲームを二つも買うのは金の無駄ではないかと思うのだが、どうやら事はそう単純でもないらしく、夜一はこの世の終わりだとでも言いたげな悲痛な表情を浮かべている。
まあ、そもそも夜一がちゃんと入学式に出ていれば酒を買わせるどころか逆に入学祝いとして煉理の所有する宝物の一部をくれてやるつもりだったので、今回の件に関しては特に同情もしないのだけど。
「やれやれ、この調子では我とお主の契約が果たされるのはいつの日になることやら」
煉理がため息交じりに昔日の約束へ思いを馳せていると、夜一はゲームが買えなくなったことを嘆いていたときとは打って変わって落ち着いた表情を浮かべ、何でもなさそうに口を開いた。
「心配しなくても、約束通りご先祖様がかけた祠の封印は解いてやるって」
夜一が容易く解放すると口にしている祠の封印は、千年前に陰陽師を名乗る男がかけた戒めだ。
たとえ血を引いていようとも既に術の継承は途絶えており、夜一には何の技術もない。
彼はただ、見えるというだけだ。
普通に考えれば、できるはずがない。
けれど、その一方でこうも思う。
かつて陰陽師たちを特別足らしめていたのは、研ぎ澄まされた術の冴えでも蓄えられた知識に裏打ちされた賢さでもない。
彼らはただ、常人には見えぬ妖怪変化の類を見ることができるという一点をもって陰陽師と呼ばれていた。
夜一には煉理のことが見えている。
ならば、彼もまたこの祠を打ち立てた男と同じ陰陽師足りえるのだろう。
「ま、千年前の我も人間の陰陽師如きと侮った結果、半身を封印され神から妖怪崩れにまで落ちぶれたわけじゃしな。一応、期待はしておくかの」
かつては神と呼ばれ人々に奇跡の恩恵と抗えぬ罰を与えてきた女は、たった一人の少年に友達を作らせるため悪戦苦闘している今の自分に苦笑してから、再び彼の頭を撫でるため手を伸ばした。