見えてもなお異なる僕ら
夜一たちに向け言葉を発する千奈の顔は強張っていて、頬には一筋の汗が伝っている。
自分の言葉に価値がないと判断すれば今すぐにでも光を殺すであろう相手を前にしているのだから当然かもしれないが、随分な緊張具合だ。
「先程、宵宮君は姉さんに起こっている変貌の原因が他人から負の感情を取り込んだことにあると言っていた」
「……だから?」
夜一の口から発せられた冷たい声に怯みそうになりながらも、千奈は両手を固く握りしめ青い瞳から目を逸らさずに言葉を紡ぎ続ける。
「私はあなたの言う幽霊という概念について理解できていない部分が多々あるけれど。これまでのあなたの発言を総合して考えると、現在姉さんに起こっている変化は不可逆なものである。そして、その変化が暴力的な性質を伴っているのは他人の持つ負の感情に影響を受けたから。そうでしょう?」
「その通り。だから、もう光を殺す以外に方法はない」
「本当に、そうかしら」
千奈からの反論に夜一が目を細め、苛立たし気に表情を歪ませる。
妹である彼女が光を助けたがっているのはわかる。
だが、彼女自身が口にした通り幽霊から別の存在に至る変化は不可逆だ。
そもそも、もし本当に光を救う手立てがあるのなら、誰に言われるまでもなく夜一が実行している。
「さっきから何が言いたいんだよ、お前」
昨日まで光の姿を見ることすらできなかったくせに。
そんな罵倒の言葉すら胸の内に浮かべながら、夜一が千奈を睨みつける。
「変化それ自体を止めることはできずとも、誰かを傷つけない方向へ誘導することならできると思わない?」
「……なるほど。お前の言いたいことは理解できた」
確かに、夜一は千奈も聞いている状態で光の変化が穏当なものであるなら放っておく選択肢もあると口にしたし、事実として変化する幽霊が全て破壊的な性質を持つわけじゃない。
というか、単純な数としては放っておいたところで問題のない霊の方が多いくらいだ。
光の変化を無害なものに誘導できるなら、彼女を殺す理由がなくなるというのも道理だろう。
とはいえ、それはあくまで可能ならの話だ。
「けど、その仮定に何の意味がある? 言ったろ、光は他人から押し付けられた感情のせいでこうなってる。本人の意思は関係ないのに、どうやって誘導するんだよ」
「そんなもの、姉さんの周りにいる人間全員が正の感情だけを抱くようにすればいいでしょう。幸い、この場には私たち三人しかいないのだから、不可能なことではないわ」
夜一と千奈はお互いに体が熱を帯び頭に血が上り始めているのを自覚していたけれど。
どちらもクールダウンのために休憩を取ろうなんて発想は一切なくて、ただひたすらに胸の内にわだかまっている想いを吐き出し続けた。
「不可能だよ。無理に決まってるだろ。どんなに気分のいい時だって、心の奥底にこびりついた不安は消えない。わかれよ、そのくらい」
「わからないわね。事実として、先程の姉さんは私に攻撃が当たらないよう配慮しながら戦っていた。まだ軌道修正をする余地は十分にあるわ」
「だから! そういう光らしい部分がこれからどんどん消えてくんだって言ってるだろ」
「仮にそうだとしても! 平和的に解決できる手段を模索しない理由にはならないでしょう」
二人の口論は次第に激しさを増していき、剥き出しになった感情は互いの心をざらつかせる。
夜一にだって、千奈の言いたいことがわからないわけじゃない。
幽霊が他人の悪感情に引っ張られて周囲に危害を加えるのなら、逆に善意だけで満たしてやれば誰も傷つかない平和の出来上がり、確かにそうだ。
けど、そんなのはあり得ない。
人の感情は正と負が入り混じっていて完全に切り離すことはできないし、善意と悪意がどんな割合で発露するかなんて神様である煉理にさえ操れない。
それに、最悪なことに光は夜一の影響を強く受けている。
夜一の胸の内にあるものなんて他人への恐怖とか、嫌悪とか、そんなのばっかりだ。
今はまだ辛うじて千奈への執着だけは残しているようだけど、それもじきに消えゆく。
夜一たちにできることなんて、その前に彼女を殺してやることしかない。
「じゃあ! お前と光が二人きりで逃げてたとき、光の変化はどうだった? お前の手に血がついてるってことは、悪化しただけだったんだろ。結局、お前だってできてないんだよ、そんなこと!」
「な!? 確かに、そこは私の落ち度よ、認めるわ。けれど、二度と同じ失態は繰り返さない。今度こそは――」
「ああ、もう! どうせ、幽霊のことなんて昨日までは見えもしなかったんだろ。なら、いいだろ。お前は他の連中と同じように生きてる人間の話でもしてろよ。これは、僕の問題だ」
痺れを切らした夜一が千奈の横をすり抜け、祠の周囲に突き刺さっている短刀へと手を伸ばす。
先程の一幕では地面が捲り上がる程の衝撃を受けようともびくともしなかった短刀は、夜一が触れただけでそうあることが当然かのように地面から抜け、彼の手の内に収まった。
短刀が抜けた瞬間、夜一は何かを堪えるかのように顔を顰め、閉ざされている祠の扉はほんの少しだけ表側に向かって動いていたけれど。
千奈がそれに気づくことはなく、彼女はただ刃物というわかりやすい暴力の象徴に反応して駆け出し、動きの鈍くなっていた夜一の足を払いそのまま正面から押し倒した。
「ふざけないで! あなたこそ、姉さんの何を知ってるのよ。……姉さんは、私の家族なの。勝手なことばかり言わないで」
馬乗りになった千奈により体の自由を奪われた夜一は何とか拘束を解こうとしばらくもがいていたけれど、頬に垂れてきた水滴に気づくと動くのをやめ黙って水の溜まった瞳へ目を向けた。
「最初に会ったとき、言ったろ。僕は光のことなんて大して知らない」
「だったら――」
「けど、あいつが妹に怪我をさせたときどんな顔をするかくらいは想像がつく。お前は、どうなんだ?」
千奈が夜一の胸倉を掴み、上半身を持ち上げる。
「私の怪我なんて、どうでもいいのよ。いいじゃない。どんなに悲しい顔をしたって、どれだけ血が流れたって、それで姉さんが生きていてくれるなら、私は他に何も望まない」
たぶん、現代日本という比較的平和な環境においては、夜一は死を身近に感じている部類の人間なのだろう。
物心ついたときから彼の目には当たり前のように死者の霊が見えていたし、そんな霊たちが二度目の死を迎えある日当然いなくなることにも慣れてしまった。
幼い頃、病院のベッドで横になった祖母を母と共に看取ったときも、珍しく涙を堪えるような顔をしていた母とは違って夜一は悲しいとは思わなかった。
だって、死んだ祖母は幽霊になって夜一の目の前にいて、話しかければちゃんと答えてくれたのだ。
もちろん、そんな祖母の幽霊も一週間も経てば消えてしまったのだけれど。
老いた肉体から解放された影響か生前よりも余程元気に動き回り、笑いながら夜一に別れを告げていった祖母の幽霊を見ていると、それは正しいことなのだと感じた。
そして、母には見えない祖母の本当の最期を見届けることこそ、自分に与えられた役目なのではないだろうか。
漠然と、そんなことを考えた。
きっと、あのときと同じなのだろう。
光の姿は夜一たちにしか見えない。
なら、引導を渡す役目は自分たちが担うべきだ。
夜一は自分と光の関係をそんな風に考えている。
そして、心のどこかで説得さえすれば千奈は自分の抱いた使命感に同調してくれるのだと思っていた。
紆余曲折を経て、彼女には夜一と同じ景色が見えるようになった。
だから、彼女の至る結論も自分と同じなのだと錯覚していたわけだ。
けれど、泣きながら光を庇おうとする千奈を見てようやくわかった。
彼女と自分はどうしようもなく違う。
彼女には、光を殺せない。
たとえ他者を傷つけ異形へと変じていく姿を目の当たりにしても、彼女は光を生かす選択をする。
「そっか。……見えるとか見えないとか、そういう問題じゃなかったんだな」
何かに納得した様子で独り言を漏らしてから、夜一が顔を横に向け黙って成り行きを見守っていた煉理に視線を向ける。
「煉理、もういいぞ」
夜一の声を合図として煉理が千奈の横に一瞬で移動し、首筋へ人差し指を当てる。
すると、彼女は糸の切れた人形のように崩れ落ち、そのまま微かに寝息を立て始めた。
「お前、最初からこの結論に僕を誘導するのが目的だったわけ?」
夜一がいつもより少しだけ鋭い視線で煉理を見据えると、彼女は感情の読めない真顔で首を横に振った。
「別に、ここまで上手くいくと思っておったわけではない。ただ、お主が他人に興味を持つことなど滅多にないからのう。どうせなら、我が出しゃばるよりもお主ら二人をとことんぶつけ合わせた方が得るものがあると思っただけじゃ」
それで、すぐには光に止めを刺さず、千奈の妨害にも抵抗しなかったわけか。
意図はどうあれ、些か悪趣味だと思わずにはいられない。
「不服か?」
「……別に、そんなんじゃないけど、お前は神様なんだろ。だったら、もう少しくらい棗千奈のことも――」
「気にかけるべき、か? まあ、我とて無為に人を苦しめたいとは思わぬがの。我にとって最も優先すべきは、お主よ」
煉理の言っていることが世辞でも何でもなく百パーセント本音なのは夜一にもよくわかる。
だって、夜一だってそうだから。
この世にたった一人しかないない友達と何を考えているのかわからない宇宙人たちなら、夜一は何の躊躇いもなく前者を選ぶ。
そのはずなのに、倒れ伏す千奈の姿を見ると妙に心がざわついた。
「せっかく何十億と人の溢れておるこの世界で、他人を一纏めにして宇宙人のラベルを貼るのは些かもったいない。お主はいらぬお節介と言うじゃろうが、我はそう感じた。なにせ、千年前の我も人間を取るに足らぬ弱者と一纏めにした結果、えらい目におうたからのう」
最後は冗談めかしていたけれど。
煉理の言うことはたぶん正しいのだと思う。
今まで、夜一は他人のことを自分とは同じものを見ることのできない理解不能な宇宙人だと思っていた。
でも、生まれて初めて現れた自分と同じものを見ることのできる人間は、最後まで夜一とは違う選択をしていた。
きっと、夜一が他人と違うのは見えるからじゃないのだろう。
人間は誰もが他人とは少しずつ違っていて、人の間で生きることで自分と他人のズレを自覚しながら上手くやる方法を探していく。
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれない。
でも、世の中にいる人間を見える自分と見えない他人という区分けでしか認識してこなかった夜一には、ずっとわからなかった。
今さら、遅すぎる気もするけれど。
自分にも、できるだろうか。
一瞬だけ答えを考えてから、夜一はすぐに首を横に振った。
その答えを確かめるために今は眠りについている少女ともっと話をしてみたい気持ちはあるけれど。
それよりも先に、たとえ彼女が二度と口をきいてくれなくなろうともやらなきゃいけないことがある。
こればかりは、他人がどうとかそんなことは関係ない。
「あのときお前が声をかけてくれてよかった……今は、そう思うよ。ばいばい、光」
心臓に刃を突き立てる直前、少女は妹の方を見て笑っていた気がするけれど。
彼女の体はすぐに光の粒となって空気の中に溶けてしまったから、それが確かな事実なのか、或いは自分の心が見せた幻なのか、もう確かめる手段はない。