命乞い
祠の鎮座する空間に居並ぶ三つの影のうち、二つは互いを支え合うように隣り合っていて、それらと相対する一つはゆったりとした動作で移動を続け祠の前まで進み出た。
「そう身構えずとも、あやつが来るまでお主らに手を出す気はない。我が先んじて顔を出したのは、一言礼を言っておくためよ」
「礼? ……あなたに、感謝されるようなことをした覚えはないのだけれど」
赤髪の女、煉理が口を開くと千奈はどこかぎこちない口調でそれに応じる。
「じゃろうな。とはいえ、我に関することに覚えはなくとも、夜一についてならあるじゃろう」
「夜一……宵宮君のこと?」
「うむ。良しにしろ悪しきにしろ、お主の存在はあやつに小さくない影響を与え再び人に興味を持つきっかけとなった。その結果がどうなるにせよ、我はお主に感謝しておる」
知っている名前が出てきたからか、緊張で張りつめていた千奈の体から少しだけ力が抜ける。
もちろん、光を殺すと宣言した夜一の関係者を相手に気を許すわけにはいかないけれど。
着ている服から立っている場所、話し方に至るまで全く現実味がなく宇宙人でも相手にしているようだった煉理のことが、夜一というフィルターを通して見ることで少しは実体を持った気がする。
「そう。なら、もう用は済んだでしょう。これ以上、私と姉さんに構わないでくれるかしら?」
震えが声に出ないよう気をつけながら何とか言葉を紡ぐ千奈に対し、煉理は小さく首を横に振ってから目を細めて光の姿を見やった。
「できぬ相談じゃな。見よ、そやつは今にも我に飛びかかってきそうではないか」
言われて目を向ければ、確かに蛇の如く鎌首をもたげた光の髪は全て煉理の方を向いていて、周囲の気温も異様に下がってきている気がする。
千奈だって、これだけで光が誰かを襲うなんて思いたくはないけれど。
先程、夜一の腕を凍りつかせていたことを思えばあまり楽観してばかりもいられない。
「姉さん、落ち着いて。警戒するのはわかるけれど、ここは下手に刺激せず逃げることを考えましょう」
宥めるような声音で耳打ちする千奈には目もくれず、光が右腕を突き出し何かを握りつぶす様な仕草を見せる。
光が何をしたのか、その答えは千奈の目にもわかる形ですぐに現れた。
にわかに煉理を取り巻く空気が風切り音を上げたかと思えば、彼女を閉じ込めるかのように竜巻が巻き起こる。
破壊的な音を響かせる風は上空の雲を割り、地面を捲り上げ、周囲の木々を薙ぎ倒していく。
もはや天変地異としか言いようのない有様だけれど。
これでも光は満足していないらしく、いつの間にか空には百は下らないであろう氷の柱が現れていて、それらは全て尖った先端を煉理に向けながら地上へ降り注いだ。
耳を覆いたくなる轟音と、立っているのも難しい地響きが間断なく続いている。
どう考えても、中心にいる煉理はもちろん千奈も巻き込んで辺り一帯が荒野と化すであろう攻撃だ。
なのに、不思議と千奈の体には未だ傷一つ付いておらず、彼女へ迫る爆風や土くれは全て不自然に軌道を変え横に逸れていく。
それに、千奈がよくよく周囲を見てみれば石段に続く道や地面に突き刺さった短刀、古びた祠はどれだけ攻撃の余波を受けようとびくともしておらず、常に変わらぬ姿を保ち続けている。
「やれやれ。我の霊力に釣られてここを訪れる妖怪変化は数多いが、こやつの力はその中でもとびきりじゃな。一体、どうするつもりじゃ? のう? 夜一」
攻撃の中心となっている場所から声が響くと同時に竜巻が引き裂かれ、辺りに突き刺さっていた氷の柱が煙を上げながら蒸発する。
これまた、常軌を逸した光景ではあるけれど。
千奈の意識は既にそれらから外れていて、彼女の視線は未だ無事に残っている石段……正確には、そこを上って来た一人の少年へ向けられていた。
「どうもこうも……殺すに決まってるだろ」
石段を上り切り姿を現した夜一と千奈の視線が交錯し、一瞬だけ互いの瞳に相手の顔が映り込む。
交わった視線は千奈の方から逸らしたので、すぐに別々の方向を向いてしまったけれど。
今の一瞬でも、何となくわかってしまった。
きっと夜一の意思が揺らぐことはないし、彼には自分と違って確信があるのだろう。
自分は自分のするべきことをしている。
そういう確信があるから、夜一はいつものように目を逸らさなかった。
そして、たぶん、今の千奈にはそれがない。
だから、彼の青色の瞳から、そしてその中に映っている異様な状態の光から目を逸らしてしまう。
千奈にだって、わからないわけじゃない。
本当の光はちょっとだけ口うるさいところもあるけれど、優しくて、他人を思いやることのできる人間だ。
間違っても、自分から人を傷つけようとする人間じゃなかった。
けれど、たとえ夜一たちの方が正しいのだとしても、千奈はこの世にたった一人しかいない、棗光の妹なのだ。
◇
千奈と光が逃げ出したとき、夜一には彼女たちの行き先が最初からわかっていた。
こうして祠の前で顔を合わせたことにも、何ら驚きはない。
「よく、ここがわかったわね。この早さだもの。別に、彼女から連絡を受けたというわけでもないんでしょう?」
「そりゃまあ、煉理に聞かなくても予想はついてたし」
時間稼ぎのつもりなのか、千奈はわざとらしいくらいいつも通りに声をかけてきた。
何も本気で夜一の答えに期待しているわけではないだろうし、無視しても構わないのだろうけど。
どうせ、煉理を相手に逃げられはしない。
少しくらいなら、応じても問題ないだろう。
「せっかくだし僕からも一つ聞いときたいんだけど、お前どうして人通りの多い駅の方じゃなくこっちに逃げて来たんだ?」
「どうしてって、それは……」
夜一からこんなことを聞かれるのは予想外だったのか、千奈が言葉に詰まり黙り込む。
「当てようか? お前は、他人が光をいないものみたいに扱うところを見たくなかったんだよ。だから、人のいない場所を探すうちにこんな所まで迷い込んだ」
「そんなことは――」
千奈は否定しているけれど、この場所には夜一のご先祖様が張った結界だか何だかがあるらしく、霊感のない人間は絶対に立ち入れない。
やってくる者がいるとすれば、煉理の力に当てられた妖怪たちか、或いは人を拒絶するこの場の空気にこそ惹かれ吸い寄せられてきた他人に馴染めない人間だけだ。
夜一が、そして今の千奈がどちらに当てはまるかなど言うまでもないだろう。
「そもそも、僕から逃げるだけなら人混みの中の方が圧倒的に有利なんだ。僕は他人と上手くやるなんて無理だから、てきとうにストーカーとか叫ぶだけでも時間稼ぎくらいにはなってた」
千奈は何か言いたげに口を開いてから、結局何も言わないまま表情を歪ませた。
「お前の感じた通りだよ。光は僕ら以外には見えない幽霊だ。そして、このまま放っておけば周囲の人間から取り込んだ負の感情に押し潰されて棗光としての記憶も姿も消え失せる。残るのは、ただの化物だ。わかれとは言わない。ただ、邪魔するな」
問答は終わりだと告げるかのように夜一が千奈から視線を外し、煉理に向かって首を縦に振る。
自身の身に迫る危機を感じ取ったのか、光は体を動かし何か行動を起こそうとしていたけれど。
それが実を結ぶより早く煉理の姿は背後に移動していて、千早の袖をはためかせながら振るわれた裏拳は光の背を強かに打ち付けるとゴムボールを相手しているかのように軽々と吹き飛ばした。
冗談みたいな光景だけれど、事実として光の体は十メートル近く吹き飛ばされ地面を何度も転がってからぐったりとした状態で停止した。
「煉理、止めを」
夜一の声に応じた煉理が光の前に立ち、彼女の頭上で手刀を振り上げる。
煉理が手を振り下ろすときが、光の終わるときだ。
千奈にも、それがわかったのだろう。
彼女は生唾を飲み込んでから意を決した様子で駆けだすと後ろから煉理の腕を掴み、強引にその動きを止めた。
「……煉理?」
煉理がその気なら、千奈が何をしようと絶対に動きを止めることはできない。
だから、今の彼女はわざと千奈に腕を掴ませたということになるのだけど。
夜一には、その理由がわからなかった。
千奈の気持ちはどうあれ、光はもう後戻りのできないところまできている。
煉理だってそのことは承知しているはずだし、今さら絆されたわけでもないだろう。
困惑した夜一が煉理と千奈の間で視線を行き来させていると、千奈は夜一の方へ向き直り緊張の滲む固い表情のまま口を開いた。
「宵宮君! それから、煉理さんも。もしも、あなたたちの目的が姉さんを害することではなく、彼女の暴走による目の前の危機を回避することにあるのなら、一つ提案したいことがあるの」
自分や煉理にさえどうにもできない光のことで、千奈に有用な提案ができるはずはない。
夜一の中の理性は、冷静に至極当たり前の結論を下している。
けれど、今もなお彼の口は閉じたままで千奈の提案を遮る言葉は出てこなかった。