たどり着いた先は
間矢峰学園の正面を通る太い道を抜け通行人のほとんどいない生活道路に足を踏み入れた千奈は、氷のように冷たい光の手を握りながらがむしゃらに走り続けていた。
千奈の胸中を満たすのは、おびただしい数の疑問の群れだ。
光は死んだはずなのに、確かにここにいる。
夜一だって、散々ここにいるのは光じゃないと言っていたくせに、最後には彼女のことを光と呼んだ。
この季節に雪が降ってきた理由も、まるでわからない。
夜一の腕がいきなり凍り付いたときなんて、心臓が止まるかと思うくらい驚かされた。
手を引いて共に走っている相手が本当に光なのか疑う気持ちだって、もちろんある。
少なくとも千奈の記憶にある光はこんなに髪が長くなかったし、赤色の斑模様だって付いていなかった。
恐れる気持ちも、ないとは言わない。
だけど、それでも、夜一が光を殺すと言ったとき、千奈はそれを嫌だと思った。
もう二度と、光を失いたくない。
千奈が光と共に夜一から逃げ出した理由なんて、結局のところそれだけなのだろう。
自分がどこを走っているのかもわからなくなった千奈がそれでも必至に足を動かし続けていると、前方に犬の散歩をしている女性の姿を見つけた。
女性は千奈の姿を認めると軽く頭を下げ、それから足元で動き回る犬にリードを引かれて少しだけ歩みを早めるとそのまま何も言わずにすれ違っていった。
おかしい。
女性の視界には、千奈だけじゃなく光の姿も入っていたはずだ。
今の光はまっ白な制服に身を包み、赤の斑模様が目立つ長髪を地面につくのも厭わず引きずりながら走っている。
普通なら、多少なりとも目を引かれるだろう。
少なくとも、千奈が街中で同じ格好の相手に出くわせば、思わず振り返って二度見してしまう。
それなのに、先程から道ですれ違う全ての人が千奈たちを見ても大した反応を示さないまま通り過ぎ、光には一瞥もくれない。
まるで、光の姿が見えていないみたいだ。
ただの杞憂だろうか。
普通に考えれば、そのはずだ。
千奈はもちろん夜一にだってはっきりと見えていたのに、それ以外の人間は光の姿が見えないなんてあるわけがない。
だから、そう、光の写真を撮って瑞希に送れば彼女は酷く驚くはずだ。
そして、そうなったら事情を話し、彼女にも光を助けるための協力を頼めばいい。
光の存在を確かなものだと思いたくて、それを誰かに保証してもらいたくて、千奈は足を緩め鞄からスマホを取り出すとカメラで光の顔を撮影し、メッセージアプリを使って瑞希へと送った。
返事は、すぐにやってきた。
この電柱がどうかしたの?
瑞希からのメッセージに書かれている言葉はそれだけで、光には一切言及していない。
確かに、写真を撮ったとき光の背後には電柱があったけれど。
写真の中央には、間違いなく光の顔が映っている。
電柱なんて、端の方で一部が見切れているだけで大半は光の顔に隠れている。
光とは家や学校で何度も顔を合わせ葬式では涙を流していた瑞希が、写真を見て光に触れないなんてあり得ないはずなのに。
返ってきた言葉はあまりにも期待と乖離していて、見ているだけで光の存在を否定されたような気分になってしまう。
千奈は衝動的にスマホの電源を切ると、乱雑に鞄の中へしまい込んだ。
「私だけは、いつまでも姉さんの味方だから」
千奈は自分に言い聞かせるような口調で光に声をかけ、繋がれた手を強く握りこんだ。
「……ありがとう」
千奈の献身に対して、光が感謝の言葉を口にする。
千奈は嬉しそうにその言葉を聞いていて、微かに頬を緩めたけれど。
その笑みが長続きすることはなく、千奈の表情はすぐに痛みをこらえるときのそれへと変わり、繋がれていた手は勢いよく別たれた。
「っ……ハア、大丈夫。これくらい、怪我の内に入らないわ」
視線を下に向ければ、いつの間にか冷たさ以外は昔と変わらなかったはずの光の手から氷の結晶が幾つも生えていて、その内の一つには千奈の手を傷をつけたことによって付着した一筋の血が流れているけれど。
大丈夫。
あの日、光を失ったときの痛みに比べれば、こんなもの蚊に刺された程にも思わない。
◇
光を夜一から遠ざける。
千奈にとってそれは必須事項だし、そのために走り回っていたのは事実だけれど。
では、この逃走劇がいつ終わるのかと問われれば、正直なところ千奈にも答えはわからない。
そもそも、ゴールを決めることができないのだ。
千奈は今の光がどうなっているのかについてあまりにも無知で、どこへ行って何をすれば彼女を助けたことになるのか皆目見当もつかない。
名前も知らない山の中へ延びる登山道と、これまで通りに続いている生活道路。
目の前に現れた分かれ道のうち、どちらへ進めばいいのかについても、やはり正しい答えはわからなかった。
「こっち」
悩む千奈をよそに、光は躊躇いなく登山道へと足を踏み入れみるみるうちに背中が遠ざかっていく。
千奈は慌てて光の後を追いかけたけれど。
どうやら登山道の整備はかなり甘いらしく、道の三分の一くらいは脇からはみ出してきた雑草に覆われているし、本来は登山客を案内するはずの白の立て看板は風化して文字が読めなくなっている。
普段の千奈なら、好んでこんな道を通ろうとは思わなかっただろう。
しかし、今の彼女は世界から忘れ去られたかのようなこの空間に不思議と心地のいい安心感を抱いていた。
◇
山を登るうちにいつしか足元の土は石段に変わり、辺りは霧で覆われてしまった。
踏み入る前に山を見上げたときには霧なんて一切見えていなかったというのに、気がつくと注意しながら進まなければ足元さえおぼつかない。
千奈としては、山に慣れていない人間がこんな状態で下手に動き回るべきではないと思うのだけれど。
光に視界の悪さを気にする素振りはなく、迷いのない足取りで石段を上っていく。
仕方がないので千奈も後に続いてはいるものの、果たしてこの石段を上り切った先には何があるのだろう。
延々と続く石段を前に当然といえば当然の疑問を抱き始めたころ、千奈が歩き通しで下を向きがちだった顔を上に向けると、いつの間にか光の姿が見えなくなっていた。
一瞬、光がいなくなってしまったのかと思い焦ったけれど。
何のことはない。
見上げた先の石段は途切れて先が見えなくなっており、そこが終着点であることがわかる。
どうやら、自分たちは石段を上り切ったらしい。
千奈が微かな達成感と共に最後の一歩を踏み出しようやく平らな地面に足を乗せると、彼女の視界から霧が消え失せ代わりに異様な雰囲気を放つ祠が映り込んだ。
古めかしいその祠は中に大人が二人は収まる大きさで、周囲には見事な装飾の施された短刀が五本も突き刺さっている。
ここにあるのが祠だけなら、それ程珍しくもないけれど。
短刀もセットとなると、少し不思議な感じがする。
だからだろうか、鍔の部分に赤い宝石らしきものが埋め込まれた短刀のことが、千奈には酷く気になった。
「その刃は、我を封じおった陰陽師の置き土産よ」
唐突に響いてきた女の声に反応して、千奈が肩を跳ねさせ驚きによって見開かれた目を声の発生源へと向ける。
「初めましてじゃな。我は煉天炎理神なり、なんての。今となっては単なる妖怪崩れじゃし、気軽に煉理とでも呼ぶがよい」
千奈の視線の先では、太陽がそこにあるのではないかと思われる程の濃密な存在感を放つ女が一人で佇み、光と千奈に向かって微笑みかけている。
見た目だけなら、それ程怖い相手には見えないけれど。
自分でも気づかないうちに、千奈の足は小刻みに震え始めていた。