見える二人の決裂
吹きすさぶ風が収まり辺りに静寂が訪れても、夜一の口からは白い吐息が漏れるだけで意味のある言葉は聞こえてこない。
こういう日が来ると、予想していなかったわけではない。
思っていたよりは幾らか早いけれど、それも誤差の範囲と言ってしまえばそれまでだろう。
感情の抜け落ちた無表情でこちらを見やる少女、棗光の発する冷気も、雪も、薄っすらと凍り始めている地面でさえも、夜一から見れば本当は驚くようなものじゃない。
いや、光のことだけじゃない。
彼女を見て、千奈は姉さんと呟いた。
つまり、千奈には光の姿が見えているということだ。
夜一以外の人間が、光の姿を見る。
それは、本来ならあり得ないことだけれど。
夜一の信じる神様が、そのあり得ない事象を現実に変えることこそ夜一の望みなのだと言っていた。
だから、今のこの状況は夜一のせいで起こったことなのだろう。
千奈に見つけて欲しかったのはいつもの光であって、今の異様な雰囲気を放つ誰かじゃない。
なんて台詞も浮かんではくるけれど、結局のところそれも言い訳だ。
「本当に、姉さんなの? いえ……そんなはずはないわ。姉さんは、もう死んでいる。あなたが、姉さんであるはずはない」
何も言わずに立ち尽くしている夜一をよそに、千奈が光へ向かって手を伸ばしながら声を震わせる。
光は何も言わず伸ばされた手を受け入れていて、千奈が割れ物を扱うようにして頬を撫でている間、身じろぎ一つせずされるがままになっていた。
「……冷たい。ねえ、あなたは誰なの? 姉さんじゃ、ないんでしょ? 私の幻覚? 誰かのいたずら? お願い……答えて」
いつもの千奈とは違う弱々しい物言いを聞きながら、夜一が空を仰ぎ見る。
遠くの方に広がる青空と、学校の上空にだけ現れ白い粒を降らしている灰色の雲たち。
とてもじゃないが、ゴールデンウィーク明けの景色とは思えない。
間違いなく、光の仕業だろう。
おまけに、グラウンドで空を指差しながら何事かを喚いている生徒や、それに追従して騒ぎ声を上げ始めた他の生徒を見るに、この雪は夜一以外の人間にも見えている。
単なる幽霊なら、そもそも何をしたところで霊感のない人間に影響を与えることはできない。
幽霊よりも影響力の強い妖怪たちなら、炎を吐いて木を燃やしたり牙で肉を嚙みちぎることはできるかもしれないけれど。
霊感がなければ炎も牙も見ることはできず、彼らの目には行動の結果として残された木の燃えカスや噛み痕の残る肉しか映らない。
空から降る雪も、周囲で騒いでいる生徒たちの目に映るなら、理屈としては木の燃えカスと同じもののはずだ。
つまり、雪それ自体は霊的なものではなくて、あくまで光が天候に干渉した結果の副産物ということになる。
妖怪には単純な力比べで人間に勝るやつは幾らだっているし、規模に差はあれど炎を吐いたり手のひらから水を出したりするやつもそれ程珍しくないけれど。
生憎、天気を好き勝手に変えられるようなやつとなると、夜一には心当たりが一人しかいない。
心当たりの彼女は誰にも負けない神様だから、光の力が同レベルに達したということはないだろうけど。
神様を引き合いに出さなきゃいけない時点で、光が幽霊と呼べる範囲から逸脱しているのは間違いない。
そして、その事実は夜一の知る幽霊、棗光と目の前で雪を降らせている存在が別人であることをも意味する。
見た目は光のままだし、まだ完全に変化したわけではないのだろうけど。
ここまで来たら、もう止まらない。
棗光は死に、別の何かになる。
「棗千奈、念のために、そいつからは離れといた方がいいぞ」
夜一が声をかけると千奈はハッとした表情を浮かべて振り返り、駆け足で詰め寄って来た。
「宵宮君、どういうこと? あなたは、彼女が何者か知っているの?」
「もちろん知ってる。……今このタイミングでお前にあいつが見えるようになった理由も含めて、僕には全部がわかる。で、だからこそ断言するけど、あれは光じゃない。似てるだけの、別人だよ」
淡々と告げる夜一を前に千奈は納得いかなそうな表情を浮かべていて、明らかに夜一の言うことを信じていないのがわかる。
「本当に? だって、彼女は姉さんとそっくり――」
「光は死んだ。お前だって、知ってるだろ」
夜一が口にした一言を聞いて、千奈が顔を俯け黙り込む。
幽霊としての光を知っている自分がこんな言い方をするのはずるいと思うけれど。
あながち、嘘というわけでもない。
もう千奈の知っている光はどこにもいない。
その証拠に、夜一の視線の先では光の纏う制服から色が抜け落ち純白に変わり、蠢きながら伸び始めた髪が千奈の長さを抜いて地面に届こうとしている。
夜一に手で促された千奈はその様を見やると口元に手を当てて固まり、やがてふらふらと揺れながら光に近づき始めた。
「おい、そいつには近づくなって言って――」
「どうして?」
光が口を開き、たった一言疑問の言葉を投げかける。
それだけで、千奈の足は止まり夜一は口にするつもりだった台詞を飲み込んだ。
「どうして、そんなこと言うの? 死んだら、もうどうでもいいの? 私は私。別人なんかじゃないよ?」
悲壮感の漂う光の訴えを聞いて、千奈は顔を曇らせ更に一歩前へ踏み出した。
「ずっと、苦しいのが終わらないの。……ねえ、助けてよ」
救いを求める言葉を吐きながら、光が千奈だけを見据え手を伸ばす。
千奈はその手を取るべきなのかどうか悩んでいるようで、何度も差し出された手と光の顔を見比べているけれど。
徐々に持ち上がり始めている右手を見るに、理性が感情に負けるまであまり時間はないだろう。
夜一にだって、気持ちはわかる。
他人に話せば一笑に付されて終わりの荒唐無稽な景色だろうと、いざ自分の目で見ることができたならそれは紛れもない現実となる。
ときには、その現実に都合のいい想像を加え脚色してしまうことだってあるだろう。
いきなり現れた光を前にどう見たって冷静さを欠いている千奈ならなおさらだ。
けれど、夜一はこの荒唐無稽な光景について千奈よりは多くの知識があるし、少なくとも今の彼女よりは冷静だ。
だから、彼が光の手を取ることはない。
「助けてやるから、とりあえずお前の名前を教えてくれ」
冷めきった表情の夜一が問を投げかると、途端に光の表情が苦し気に歪み始めた。
「わ、私は……私の、名前は」
光が頭痛を堪えるかのように両手で頭を抱え、延々と意味のない呟きを漏らし続ける。
千奈は反射的に駆け寄り肩を支えようとしたが、光に触れる直前で後ろから伸びてきた夜一の腕が彼女の制服を掴み強引に後ろへ引き寄せた。
「宵宮君、何を――」
「いいから、こいつは僕に任せろって」
千奈を無理やり後ろに下がらせた夜一は躊躇いなく右手を伸ばすと、苦し気に揺れる光の頭に手のひらを置いた。
「っ!?」
青みがかった黒髪に触れた瞬間、夜一の腕が肘の部分まで凍り付く。
夜一の腕を覆う氷は非常に透明度が高く、そのおかげで夜一から吸い上げられた赤い水のようなものが氷の中を伝って光の髪に吸い込まれていくのがわかる。
「これ、血を吸ってるんじゃないな。似てるけど、もっと純粋な力……生命エネルギーとかそんな感じ?」
自分の腕が凍り付き得体の知れない力が抜かれている最中にあっても光を見やる夜一の目は揺れることなく真っすぐに目の前の相手を見つめていて、声には欠片程の怯えも乗っていない。
「まあ、何でもいいけど、これ無意識にやってるんだろ? ……記憶の残りカスを頼りにそれらしく振る舞ってるだけで、もう変化に必要なエネルギーを集める以外のことは考えられないんだよな? いいよ、お前は何も悪くない」
夜一の声は状況に反して酷く優し気で、赤い水を吸ううちに赤色の斑模様ができ始めた光の髪が獲物を求める蛇のように蠢くのを見てもやはり眉一つ動かさない。
「もっと大人しい変わり方をするなら放っとくこともできたんだけど……ここまで強い力を持って暴走してるのは、たぶん僕のせいだ。ごめん。謝って許してもらえるとは思わないけど、責任は取る」
夜一が右手に力を籠め、軽く腕を持ち上げる。
すると、彼の腕を覆っていた氷は砂糖菓子のように簡単に砕け、辺りにきらきらと光る粒子をまき散らした。
「お前が大切な人間……棗千奈を傷つける前に、お前のことは僕らが殺す。だから、安心していいよ、光」
夜一が光に向かって微笑み、大きく息を吸う。
「れん――」
「だめ!」
誰かを呼ぶ夜一の声は大きな叫び声にかき消され、体は背後から伸びてきた手に突き飛ばされてたたらを踏む。
「姉さん! 来て!」
夜一を突き飛ばした千奈はそのまま光の手を取ると、振り返ることなく走り出した。
夜一は体勢を立て直すと反射的に光の髪へ手を伸ばしたけれど、繋がれてなお凍ることのない千奈の手を見て一瞬だけ掴むのを躊躇した。
光にとってはそれだけで十分な隙となったらしく、夜一の体は光を中心に巻き起こった猛烈な吹雪に包まれ白の中に消えてしまう。
風が収まった後には千奈と光の姿はなく、ただ一人体のあちこちに氷が張り付いた状態の夜一だけが残されている。
「……棗千奈のこと、ちょっと甘く見てたかな」
どうせ、混乱してまともに動けやしないだろう。
千奈についてはそんな風に考えロクに注意していなかったけれど、どうやら光の姿をした誰かを殺すという宣言は彼女にとって体を動かすのに十分な力を与えたらしい。
二人を逃がしてしまったのは夜一の判断ミス……或いは、千奈と同じ、光を殺したくないという理屈に反した感情の発露だろうか。
どちらにせよ、霊に関わることに限っていえば知識でも経験でも遥かに勝る夜一が千奈に出し抜かれた事実に違いはない。
自分の情けなさに思わず嘆息してから、既に見えなくなった二人を追って夜一がゆっくりと歩き出す。