棗光は目を閉じる
自分にとっての未練とは何だろう。
なぜ、自分はまだここにいるのだろう。
棗光という人間が死んで、誰にも見えない幽霊になった日からずっと、彼女は同じ問を繰り返してきた。
もちろん、誰に届くこともないただの自問自答だ。
この先、永遠に答え合わせをする機会など訪れないだろう。
とある少年に出会うまでは、そう思っていた。
けれど、彼は突然に現れた。
妹が高校へ入学する晴れの日に、宵宮夜一は幽霊となり誰の目にも映らなくなった光と唯一、目を合わせてくれた。
青色の瞳の中には、確かに光の姿が映っていた。
今にして思えば、彼には迷惑をかけてしまったけれど。
ずっと届かないと思っていた自分の声が千奈に届くかもしれないと思うといてもたってもいられなくて、彼に千奈への伝言を託した……いや、彼の面倒くさそうな表情を思うと押し付けたと言った方が正確だろうか。
何にせよ、光の言葉は夜一を通じて千奈へと届いた。
もしも自分が幽霊としてこの世に留まっていたことに意味があるとするなら、彼と出会い千奈へと言葉を届けた時点でそれは果たされたのではないだろうか。
光は本気でそんな風に考えていたし、あの日以来いつ自分が消えても後悔はないと思っていた。
もちろん、本音を言えば、死なずに千奈や両親、学校の友達とずっと一緒にいたかったと思う気持ちはある。
自分の人生に百パーセント満足しているなんて、口が裂けても言えはしない。
だけど、それでも、自分が死に幽霊となって千奈の傍にい続けた二年間に対する答えは、夜一のおかげで知ることができたと本気で思っていた。
実は自分が答えだと思っていたものは単なる建前で、本当に正しい答えはもっと醜くてどうしようもないものなんじゃないか。
そんな風に思い始めたのはつい最近、夜一が千奈を見ても嫌そうな顔をしなくなってからのことだ。
「自分の部屋を当時のまま残しとくんじゃなくて、ちゃんと片付けて有効活用しろ……とか、光なら言うと思うけど」
「確かに、姉さんなら言いそうだけれど。……姉さんの部屋を当時のまま残しているなんて話、あなたにしたことがあったかしら?」
「え!? あ、いや、それは、前に言ってなかったっけ? だいたい、お前が何かの拍子に喋ったんじゃなきゃ、僕にお前の家の部屋事情なんてわかるわけないだろ」
まだ運動部の姿も少なく広々としている放課後のグラウンドを横目に二人で並んで歩きながら、夜一が入学式の日に光が口にしていた言葉の一部を遅ればせながら口にする。
千奈の方は相変わらず本人から直接伝えられたとしか思えない台詞を訝っていて、夜一は慌てて下手なごまかしをしているけれど。
別に、これは光が頼んだことじゃない。
夜一曰く、これまで幽霊としてこの世に留まり続けてきた光にも、いよいよ終わりの時がくるらしい。
せめて、言いたいことは全部言ってから終わりたいだろう。
これは、そんな夜一の気遣いの結果であり、光としては感謝しかない……そのはずなのに、そうしているのが当たり前かのように千奈と共にいる夜一を見ていると、もう動いてはいないはずの心臓が強く脈打つ錯覚がある。
光の人生はとっくに終わっていて、自分でもよくわからない幽霊としての日々もそう遠くないうちに終わるというのに、目の前を歩く二人の毎日はこれからも続いていく。
光にとっては寧ろ喜ばしいことのはずなのに、二人の後ろ姿を見ているとどす黒い感情が海を満たす水のようにとめどなく湧き上がってくる。
どうして、自分はここで終わるのだろう。
今でさえ千奈と直接言葉を交わすことができず、何を掴もうとしてもすり抜けるだけの虚しい日々を送っているのに。
どうして、自分は彼らと違う。
自分の胸の内に渦巻く感情が気持ち悪くて吐きそうなのに、どす黒い水の噴出はいつまで経っても止まってくれない。
その事実が何より認めがたくて、光の意識はより一層暗くて深い場所へと沈んでいく。
或いは、今の彼女の胸の内を幽霊を見ることができる少年が知ったなら、それは学校という場所に渦巻く負の感情を取り込んだせいであって、光が悪いんじゃないと言ったのだろう。
また或いは、少年の友達である神様ならば、彼女が負の感情に飲み込まれているのは未練を失い今にも成仏しそうな彼女を、寂しがりやな少年が無意識にこの世へ繋ぎ止めているからだと言ったのかもしれない。
けれど、この場に神はおらず、少年は託された伝言をどう伝えるか考えるのに頭が一杯で後ろを振り返る余裕がない。
だから、致命的な変化が訪れるその瞬間まで、事態は誰にも気づかれることなく静かに進行していった。