挨拶
銀髪の少年が青みがかった黒髪の少女を前に困った様子で視線をさまよわせ、口を開いては閉じるという動作を繰り返してから少しだけ少女から顔を逸らす。
「……おはよう」
夜一の口から紡がれた言葉は注意していなければ聞き逃してしまいそうなか細いものだったけれど、少しだけ意外そうな千奈の顔を見るに、彼の声は確かに彼女へ届いたらしい。
「何だよ、その顔。僕はただ、挨拶を返しただけだろ」
微かに顔を赤くした夜一が早口で捲し立てると、千奈はその勢いに押されるようにして小さく頷いた。
「え、ああ、そうね」
言葉とは裏腹に物珍し気な視線を注ぎ続ける千奈と向き合っているうちに、夜一は唐突に踵を返しそのまま何も言わずに早歩きで昇降口へと消えていった。
後には、目を瞬かせる千奈と二人のやり取りを興味深そうに眺めていた鈴たちが残される。
「今の、何だったのかしら」
「宵宮くんも千奈に慣れてきた……ってことで、いいんじゃない?」
千奈がぼそりと漏らした独り言に反応して、瑞希が少しだけ楽しそうに声を上げる。
「やっぱ、宵宮と棗って仲いいよね」
「そうかしら? 自分で言うのも何だけど、どちらかと言えば私は彼から避けられていると思うのだけど」
千奈としては光のことで何かしら言いたくないことのあるらしい夜一が自分と距離を置きたがるのは理解できるし、それこそ同じ委員会の鈴の方がまだ夜一と親しくしている印象があるのだけれど。
反応を見るに、瑞希も鈴も彼が千奈を避けているとは思っていないらしい。
「まあ、彼にはいろいろと聞きたいこともあるし、本音を言えばこうしてすぐに逃げられない程度には仲良くしたいところね」
千奈が夜一と光の関係について調べてわかったことは、誰も彼と光の接点を知らないということだ。
もちろん、彼の口から光の名前が出てきた以上は本当に無関係ということはないはずだけれど。
ここまで何の情報もないということは、二人の関係は他人が把握することの難しいものだったのだろう。
結局、これは本人に聞かなければ答えのわからない類の問題なのかもしれない。
「とはいえ、それができれば苦労はないわね」
自分の中で出した結論に苦笑を漏らす千奈の横で、鈴がハッとした表情を浮かべ水に濡れていない幾つかの鉢植えに目を向けた。
「て、そういえばまだ水やりの途中じゃん!? 宵宮、何勝手にいなくなってんの!」
「あー、よければ手伝おっか?」
千奈としては夜一に悪意があったとは思わないけれど。
こういうところで周囲に気が回らないのも彼が教室で浮いている一因なのだろう。
そんなことを考えながら、千奈は先に手伝いを申し出た瑞希と共に水やりへ加わった。
◇
廊下を歩きながら、夜一が先程の一幕について思いを巡らせる。
おはよう。
それは何てことのない朝の挨拶で、別にそれを口にしたところで何かが変わるわけじゃない。
けれど、夜一はもう何年もこの一言を煉理以外の前で口にしてはいなかった。
なのに、なぜ先程の自分は棗千奈に向けその一言を口にしたのだろう。
自問に対する答えはすぐに見つかった。
認めるのは癪だし、心の片隅にそんな気持ちを抱えていることが自分でも信じられないけれど。
おはようの一言を無視して嫌われたくないから、或いはちゃんと挨拶をしてもっと仲良くなりたいから。
そんな子供みたいな理由に突き動かされて、夜一はおはようを口にした。
煉理に見透かされた通りだ。
夜一は千奈のことが怖くて、理解できなくて、それなのに同じ景色を見て欲しいと願い友達になりたいと思っている。
これは、矛盾だろうか。
もしそうなら、自分はどの気持ちを優先したいのだろう。
問の答えに想像はつくけれど、今はまだ蓋をして目を逸らしていたい。