霊感少年と憑かれた少女
校門の傍に植えられた桜の樹が薄く色づいた花弁を散らし、アスファルトに彩りを添えている。
真新しい学生服に身を包み、どこか初々しさの残る足取りで歩く少年少女の大半にとっては地に落ちた花弁など興味の埒外であり、一瞥をくれることさえないけれど。
一人の少女が足を止め、アスファルトの上で数多の生徒に踏みしめられ土に汚れた花弁を見て、そっと息を吐き出した。
地に落ちた花弁など一々気にしたところで意味はないし、自分だって一歩動くたびに何枚もの花弁を踏みつけている。
無論、そんなことは少女も承知しているけれど。
美しく咲き誇り多くの人々からその様を湛えられた桜の花であろうとも、いざ舞い散り人々の意識から外れてしまえば後はもう顧みられることもなく土に汚れていくのみだ。
その事実を少しだけ寂しいと思うのは、些か感傷に浸り過ぎだろうか。
「千奈? どうしたの?」
急に地面を見つめて足を止めた友達に向け、園原瑞希は後ろを振り返りながら少しだけ気づかわしげな様子で声をかけた。
瑞希は明るい茶髪をボブカットにした快活な印象を受ける少女で、自分を含む間矢峰学園の一年生が晴れて入学式を迎える今日という日をそれなりに楽しみにしてきた。
だが、彼女の胸の内にあるのがまだ見ぬ学園生活への期待だけかというとそういうわけでもなく、かつてこの学園に通っていた一人の先輩のことを思うと一抹の寂しさを感じるのも確かだ。
共に歩く友達は自分よりも遥かに先輩との関係が深かったし、いろいろと思うところがあるのかもしれない。
「いえ、別に何でもないわ。気にしないで」
瑞希の心配は杞憂だとでも言うかのように、声をかけられた少女は笑みを浮かべ落ち着いた声音で返事をする。
少なくとも、見た目には何かを思い悩んでいるようには見えないし、これ以上あれこれ口出しするのは却って迷惑だろう。
そう判断した瑞希は友達が歩き出したのを確認すると再び前を向き、体育館へと向かう新入生の流れに身を任せた。
「……ハァ、ダメね」
青みがかった黒髪をなびかせ歩く少女、棗千奈の口からはため息と共に前を行く友達には聞こえない程度の小さな声で自虐の言葉が吐き出された。
千奈はすらりとした百七十センチの長身と理知的な相貌が相まって凛々しいという形容がよく似合う少女であり、その際立って優れた容姿故に先程から男女問わず視線を向けられているのだけど。
本人に周囲の視線へ気づく様子はなく、その意識はずっとこの学園で先輩として自分を迎え入れていくれるはずだった人物へと向けられている。
棗光、かつて間矢峰学園に通っていたその人物は二つ程年の離れた千奈の姉であり、今になって思えばかけがえのない大切な人だった。
光は千奈が中学二年生のときに交通事故で命を落とし、今ではもう言葉を交わすことすらできはしない。
既に二年前のできごとだし、自分では平気だと思っていたけれど。
いざ間矢峰学園に足を踏み入れてみると、何かの拍子に姉が現れ入学おめでとー、などとてきとうな祝いな言葉を伝えてくれるような気がして、つい感傷的な気分になってしまう。
今さら姉の不在を嘆いたところでもう一度会えるわけではないし、ただ瑞希を心配させるだけだと頭ではわかっているはずなのに。
千奈の脳裏には今の自分と同じ黒のブレザーを着た姉の姿が焼き付いて離れず、いつまでも彼女の心をざわつかせ続ける。
「……っ!?」
余計な考え事のせいで注意力が散漫になっていたからだろうか。
千奈は体育館へ向かう人の流れを逆走してきたらしい誰かとぶつかり、その歩みを止めることとなった。
「ごめんなさい。あなた、怪我はない?」
自分とぶつかった拍子に体勢を崩し尻もちをついてしまったらしい相手へ手を差し伸べると、伸ばした手の先にいる少年は怯えたように千奈の手から距離を取りそそくさと一人で立ち上がった。
少年は周囲と同じく間矢峰学園の制服を身に着けており、千奈と同じ新入生なのは間違いなさそうだけれど。
彼は珍しい銀色の髪を目にかかるまで伸ばし、たまにうつむきがちな顔を上げては青色の瞳でこちらを見つめ、目が合うとすぐにまた下を向いてしまう。
端的に言って、非常に特徴的な容姿の少年だ。
そして、これだけ特徴的な容姿をしているにも関わらず少年の存在感は驚く程に希薄だ。
本人の振る舞いが人目を避けるようなものだから、というのも当然に影響しているのだろうけど。
少年を見ていると、まるで半透明の幽霊を相手しているような気分になる。
「僕は大丈夫だから。えっと、じゃあ、そういうことで」
少年は口早に自分の無事を告げると、数秒だけ千奈の背後の虚空へ目を向けてから再び人の流れに逆らい校門の外へ向かって移動を始めた。
「千奈、そんな所で止まってたら置いてくよ」
「ごめんなさい、今行くわ」
千奈は奇妙な少年の背を見つめ狐につままれたような気分になっていたけれど、自分を呼ぶ瑞希の声に反応して少年から視線を外し踵を返そうとした。
少年が誰かに呼び止められたかのように足を止め、心底嫌そうな顔でこちらを振り返ったのはちょうど千奈の視線が彼から外れる寸前のできごとだった。
「確かに見えてるけど、それが何だよ。人目がある所でお前らと話すの、後で絡まれて面倒くさいから嫌なんだけど」
少年は千奈……より正確にはその背後の虚空を見つめながら先程までの怯えなど欠片も感じさせない口調で喋り始め、何やらよくわからないことを言っている。
正直に言って、千奈には少年の頭がおかしくなったようにしか見えないけれど。
彼の視線をたどり後ろへ振り返ると、ほんの一瞬、自分と同じ制服を自分よりも慣れた様子で着こなし切実な表情で何かを懇願する見知った顔を見つけた気がした。
もちろん、現実にはあり得ないことだとわかっている。
あんなものは感傷的になった千奈の心が見せた錯覚に過ぎない。
なぜなら、彼女が見つけたのは既に亡くなっている姉、光だったのだから。
◇
宵宮夜一は今、非常に困っていた。
原因は考えるまでもなくはっきりしている。
まず、彼の目の前には自分と同じくらい身長の高い、思わず委縮してしまいそうな雰囲気を放つ恐ろしい少女がいる。
いや、彼女に限らず夜一にとって世の人間はその大半が恐ろしいのだけれど。
何はともあれ、別にこの恐ろしい少女のことはさほど重要ではない。
重要なのは、そのすぐ後ろにいる目の前の少女とよく似た人物のことだ。
彼女は目の前の少女が制服を着崩し髪を短くすれば概ねこんな感じになるのだろうなという見た目をしており、とても強く目の前の少女との血の繋がりを感じさせる。
大方、目の前の少女の姉か何かだろうとは思うのだけれど。
問題なのは、彼女と目を合わせても夜一の心は落ち着きを保ったままであり、恐怖どころか安心感さえ覚えていることだ。
夜一は他人を恐れている。
だから、彼が恐ろしいと思わない相手というのは犬や猫のような人間以外の生き物か、そうでなければ既に生きてはいない人間という枠組みの外に出た者たちだ。
「私は棗光といいます。あなたに私が見えているなら、どうかお願いします。ここにいる千奈……私の妹に、私からの伝言を伝えてください!」
夜一に向かって勢いよく頭を下げる光にきちんと目を向けている人間は彼以外におらず、妹の千奈でさえ一瞬だけ背後に目を向けた後はすぐに夜一の方へ視線を戻していた。
これらの事実が意味するのは一つ。
今、自分に向かって頼み事をしている光は既に死んでいる人物、即ち幽霊なのだろう。
本当に、困ったことになった。
これまでの人生で夜一は自分には生まれたときから当たり前に見えている幽霊や妖怪の類が、他人には見えていないのだと知っている。
どうやら、自分には霊感があるらしい。
その事実に気づくまでは散々に嫌な思いをしたし、気づいてからもつい人前で幽霊と話してしまったときには大抵ロクなことにならなかった。
できることなら光のことは無視してしまいたいけれど、ここまで必死に懇願されてしまうとこのまま歩み去るのは非常に気まずいのも確かだ。
「ハァ……わかった。伝えてやるから、手短にまとめろよ」
夜一が仕方なさそうに頼みを了承すると、光は嬉しそうに顔を輝かせ、千奈は怪訝そうに眉をひそめた。