反対幻日
目が覚めた瞬間、つい「以前まで」の癖で、今がいつなのか意識しようとする。未来を意識し過去と繋げる現在がいつなのかを。
一瞬後にはそんな意志は自然と消える。カレンダーも予定表も、誰かが訪問するためだけにある。そして明確な予定は一つもない。
細い腕をもぞもぞと布団から伸ばし、少女は身を起こした。細い体躯に纏った薄い寝間着代わりのシャツが衣擦れの音を立て、寝ぐせのついたショートウルフの頭髪が揺れる。
寝ぼけ眼で立ち上がり部屋のカーテンを開ける。丘を切り開いて作られた住宅街――おそらく日本中にあるとてつもなく平凡な景色――がいつもと同じように少女の目に映る。髪と同じ明るい紅茶色の瞳の虹彩が光を受けてちらちらと輝きを散らす。赤みがかった、深く明るい色。
いつもと同じように部屋を出て顔を洗い、朝食を取って着替える。身支度は当然手慣れたもので、手を動かしながら頭は別のことを考え続ける。
――まだ、誰も来ない
自分でも明確には意味の分からないフレーズが意識の縁を流れるのを感じて、少女は一瞬動きを止めてその場で瞬きを繰り返した。誰も来ない。来るはずの誰かが来ない。そのために何かが、あるいは何もかもがおかしくなっている。
今はいつなのか。今はいつもだ。ここはどこなのか。ここは住み慣れた地元だ。行くべき場所はどこなのか。高校だ。
降って湧いたような疑問に、当然の答えをくっつける。そのどれもが自明で、しかし違和感にまみれている。と、突如メッセージが着信する。
『神立 向日へ。事前登録済みの訪問者一名あり』
考え事に耽っていた少女――神立向日――は、慌てて居間のテーブルに置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取った。ロックを解除し画面を目に映しそこで首をかしげる。メールもSNSのメッセージも音声通話の着信もない。だがメッセージは更に届く。
『訪問者――伊吹 秋雨』
「アメ?」
起床して初めてのつぶやきが口の端から零れた。
『訪問者』とやらの名前は、よく知った名だった。同じ高校に通う、中学時代からの友人の名だった。見慣れた名前、多くの記憶の中にある名前。
「なら、駅か」
囁くように――あるいは自身に言い聞かせるように、向日は独り言ちて、顔を上げた。学校と駅とは別方向だったが、仕方ない。訪問者への対応は最優先だった。そのために自分はここにいるという実感があった。
身支度の続きを終えると、向日は高校の制服姿で玄関扉をくぐった。他に思いつく服装もなかった。
*
街の駅は高架線路とそれを支える白い躯体からなる小さなものだった。海岸沿いに作られた工場地帯の脇に位置し、辺りは開けた見通しの良い場所となっている。
到着したのはラッシュ後の微妙な時間帯で、人気は少ない。そのため、高架上の駅から下るエスカレーターの出口付近に立つ影がそれだとすぐに分かった。
明るい朝日に照らされた情景の中、そこだけ影を落としたように錯覚される――一つの人影。
知らない男だ、と向日の意識が囁いた。
しかし同時に、視界にマーカーが表示される。その男こそが訪問者であり、自分が合うべき人間であると、丁寧に分かりやすいポインターが表示されている。
(表示? 何に?)
疑問が頭を駆け抜けるが、考え込むより先に、無意識的に足が動いていた。男に近づき、呟く。
「……アメ?」
向日の声と同時に、男が視線を上げた。やや小柄な向日よりも頭一つ高い背丈に、思慮深さと意志の強さを併せ持つような鳶色の瞳をもった、細身の男だった。僅かに赤みを帯びた銀に近い色の頭髪が彼の動きに合わせて揺れる。旅装のような、どこか未来的な意匠の黒いコートを羽織っており、その裾が重く静かに垂れている。
向日の姿を認めて、男は大きく目を見開いた。まるでとてつもなく奇妙な幽霊でも見たような驚愕の表情だった。
「向日」
そっと重い陶器をテーブルに置くような、低く滑らかで心地よい声音が彼の口から放たれる。それを聞いた途端に、向日は理解していた。
(知ってる)
聴き慣れた声――何年も友人として過ごした人間が今目の前にいる男なのだと、直感する。
「久しぶり、というべきなのかどうか、分からないが……」
戸惑うように眉根をわずかに寄せる男に、反射的に向日は言葉を返していた。
「そうだね、でも、久しぶり、アメ」
柔らかな挨拶が自然と滑り出でる。
なんだろう、これは。向日の意識の中で、知らないはずの大人の男に対する疑問と混乱が、よく知った友人に対する親愛と理解と共に渦巻いていた。
知らない大人――いや、知っている。よく見知った友人。男友達。背反するはずの二つの認識が混ざり溶け合って向日の中に存在していた。
「なんで、ここに?」
気が付けば彼女はそう問うていた。
アメと向日が呼んだ男は、問いかけに惑うように、濃いブラウンの瞳を一瞬揺らがせた。少しばかり痩せた印象のある、落ち着きと厳粛さを感じさせる相貌が微かに震え、答えを口にする。
「俺は、君をシャットダウンしに来たんだ、向日」
*
街の中心地、大通り沿いに建てられたとある有名チェーンのファミリーレストランは、およそ流行りの店とは言い難かった。大抵客数は少なく、店内はファミレスにあるまじき静けさに支配されていることが多い。そのくせ向日が中学高校に通う間ずっと潰れることなく営業し続けていた。向日にとって、学校帰りや休日に何度も友人と、例えばアメと呼び中学時代から親しくしていた男友達と入り浸った便利な店だった。
「これは……懐かしいな」
とりあえず、話があることは分かりきっていた。駅で出会った、『知っているはずの知らない大人』を、向日はこのなじみの場所へと誘っていた。
学生時代、何度も座った二人掛けの窓際のテーブル席に向かい合い、見るともなしに外を見やってから向日はくすりと笑いをこぼした。
「なんだか、わけ分かんないな。学校サボってるし、アメはおじさんになっちゃってるし。なのに、私あんまり焦っても混乱してもいないし」
何もかもが奇妙だった。見慣れたはずの街と日常であるというのに、またそれを乱す意味不明さが目の前にあるというのに、自分はそれをどこか当然のように受け入れている。そのことが一層意味不明だと感じていた。
「人格の保護機能のせいだ」
ぽつりとアメが呟いた。昔よりも低い、ほんのわずかにざらつきが混ざった声音で。
「君はここがどういう場所で自分などういう存在かを自覚している必要がある。だが同時に、君はできるだけ『元の君』である必要もある。だからスリープしている間の君の人格は昔の――普通に暮らしていた頃の人格をトレースし余計な情報を含まない状態で駆動している。今色んなことを理解できていないのは、その期間が長すぎたせいだろう。おそらく、すぐに思い出す」
聞き取りやすく心地よい声で、どこか歌うようにすらすらと彼は語った。
いい声だな、歳をとったアメの声は。などと心のどこかで思いながら、向日は彼の意味不明な・意味不明であるはずの言葉を飲み下していた。
「ここが、どういう場所か」
相手の言葉の一部をなぞるように口にして、考える。見慣れた町、ずっと暮らしているはずの街。思い浮かべたあたりまえの認識に、別の認識が重なって浮かび上がる。
会うべき人々が、自分に会いに来る場所。最も親しい友人だったアメや、家族、それに――
「日影は、来ないの?」
無意識的に口走っていた。日影は、彼はどうしたんだろう、と。
鈴石 日影は、家族と共に最優先でここを訪れるはずの人間だった。アメと同じ学友であり、アメとの友人関係を介して知り合い、交際に至った、大事な少年はどうしたのか? そんな疑問が湧き上がる。
「彼は、来ない」
何かに耐えるように、アメが硬い表情で答える。
その様子を見て、向日の中で何かが揺らいだ。ここがどこなのか。その答えが一瞬自らの中に見えた気がした。
アメは正面から向日を見据えて、彼女の中の答えを引き出すように、静かに告げた。
「ここは、天国施設なんだ、向日。君は……君のオリジナルは、俺の主観時間から見て二十年ほど前に、亡くなっている」
「オリジナル……」
天国。死んだもの。オリジナル。
単語と意味が渦巻き、意識が一瞬乱れる。
「君は、避けがたい病で亡くなった。その少し前に、天国施設に登録したんだ。自分の意識構造をアップロードすることに同意した。近しい人々のために……家族や友人や、交際相手が自分の死を乗り越えて健全に人生を送っていくために、数人の訪問者を設定し、彼ら彼女らが一定の満足を、別れの受容を見せるまでという制限付きで自分をここにコピーしたんだ」
アメの言葉が染み入るように思考の中へ取り込まれ飲み込まれていく。同時に向日の意識の中でも、同じ内容の理解がどこかから戻ってくる。二つが混然一体となり、理解を、想起を促す。
高校時代の記憶、三年の半ばあたりで以前から抱えていた病が悪化したこと、避けがたい死が迫っていたこと、そして、天国施設のこと。
天国施設――人間の人格、意識構造をまるごとアップロードする場所。死者に会える場所であり死者の眠る場所。人工的に作られた天国。生者が死者と会える場所。先進各国を中心に普及した『他者の死に向き合うための』公共の施設。
死を目前にした自分の人格のアップロード。一体、それは本当はいつのことだったのか。アメは二十年前と言った。
「元々君は、天国施設の利用に否定的だった。自分のコピーを、死んだ人間の意識の複製を置いておくことの倫理的なおぞましさに拒否感を持っていた。だが家族や、俺や、日影の奴のことを考えて、君は最終的に結論したんだ。条件付きのアップロードを。親しい人々が自分との穏やかな別れを終えるまでここにとどまり、その役割が終われば消える。そういう条件で君は自分を天国にコピーしたんだ」
「なら」
衝動的に、向日は口を開いていた。止まらない理解の波が心に押し寄せていた。記憶の波、情報の波、理解の波が。
「どうして、アメだけが来たの……? それも、ずっと長い時間を経て……さっき、二十年って言った? 家族は、他の友達は、それに日影は、どうしたの……?」
頭が痛むような気がして、向日は軽く首を振った。窓の外の景色が視界の中で揺れる。見慣れたはずの街の景色。だがこれは、「違う」のだと意識が告げていた。天国施設が自分の意識と記録から作り上げた情景なのだと。天国の光景は住む人々により異なる。その日常がそこにはあるが、それは模擬的なものであり、訪問者と穏やかな面会のためにある背景なのだ。
「皆、亡くなったよ」
むしろ自分こそ死んだのだとでもいうような、ごっそりと何かが剥ぎ取られたような顔で、アメは言った。
「日影や、かつての友人たちだけじゃない。向日、君の知っていた世界に生きていた人々の九割以上が、いまはもう、いないんだ」
*
時間が空間に対して泡立ったのだ、と、アメは説明してみせた。
「君が亡くなって一週間もしないうちに異変が起こったんだ。世界全土を無茶苦茶に引き裂いた大異変が」
何の兆候もなく、突如として変化は起こったのだという。
液体の表面に大小様々な泡を立てたように、地球上の空間が無数の領域に分割されるようにして、それぞれ異なる時間の流れによって分断されたのだと、アメは語った。
ごくごく小さなミクロスケールの「時間領域」から、数キロ、数十キロ半径の大きな領域まで、まるで空間全てが泡状に分割されたかのように、時間的に区切られたのだと。
元々、時間の流れとは相対的で、可変だった。運動や重力によって変化する主観時間について、相対論の概要などは向日も知っていた。
だが世界に起こった異変は、そんな生易しい時間の「緩やかな局所性」を破壊し、捨て去った。ある場所と、そこに隣接する場所で、時間の流れが十倍や百倍も異なる。一歩境界を踏み出した途端に時間の流れが全く異なる場所へと移動してしまう。世界は、そういう場所になってしまった。
「『時間領域』の断面では時間の流れの差異から「あちらとこちら」で物理的な分断も起こる。ミクロな時間領域が都市のコンピューターを破壊し、インフラを破壊し、それよりも大きな領域が作る境界面がもっと大規模な破壊を起こした。そうした初期の混乱だけで悲惨な数の人死にが出た」
そして被害はそんな程度にはとどまらなかった、と彼は続ける。
「領域同士の時間の違いによって自然も荒れた。食物連鎖の地球規模での連関が寸断されたせいで多くの生き物が絶滅した。サイズの大きな時間領域のなかに偶然おさまっていたことで生き残っていた街やコミュニティも、相互の時間の流れが異なることで協力し合うことが難しくなった」
ある街が一年過ごす間に、隣の街は三十年が過ぎている。時間的な分断は離れた場所同士での協力や連帯を時間という刃物で断ち切ってしまった。
「それで、さらに多くの人々がじわじわと消えていった。『皆が大体同じ時間の中にいる』という状況にあった人類は、一気に狭いローカルな範囲でしか同時性を共有できない存在になったんだ」
そして人類の大半が失われた。かつての世界の景色は失われ、新しい世界が生まれた。少数の人間が生き残り、細々と、ローカルに、局所的に暮らす世界が。
俄かには信じがたい話だったが、アメは変わってしまった世界の景色や現状をいくらかデータとして提示して見せた。向日の「記録されている」この天国施設の外部監視装置のいくつかも生きていると言って、外の景色をテーブルの上の空間に映し出してみせた。
いつか見たことのある、大きなドーム状の建物、天国施設の建物の周囲にいくらかの廃墟と、それから廃墟とも呼べない原野が広がっているのを見て、向日はしばし呆然としていた。その映像が現実のものだということは、何故だか分かっていた。天国施設と彼女が繋がっているからかもしれなかった。
「じゃあ、さ、とっくに私は、日影は」
考えた末に、ふと思いついて向日は呟いた。
「二人で本物の天国かどこかに行ってよろしくやってるってわけだ」
口にしてから、自分の言葉のおかしさに、笑いを零してしまう。
「つまり、私、置いてけぼりをくらったんだ」
答えを口にする。変わり果てた世界。自分に続くように死んだ世界。天国施設で、あたりまえの生活を営むべき生前の親しい人々を待っていた、『神立向日のコピー』は、誰にも会えないまま、もうどこにもない景色の中で生きていたのだ。
自分はどれだけの時間をここで過ごしていたのか、この見慣れた町で。見慣れた町の虚像の中で。上手く思い出せそうになかった。長い時間がその精神構造を変質させないために、保護されていた。「いつもの日々」という認識だけがある日々をずっと過ごしていたのだ。人格の保護機能。
「最初の混乱の日々の中で、多くの人が亡くなった。知り合いの多くもそこに含まれた。日影のことも……助けられはしなかった」
すまない、とかすれた声でアメは詫びた。何年も、長い時間告げられなかった罪悪感のようなものがそこには滲み、滴っていた。
日影が、かつて交際していた少年が死んでいたという事実に当然の悲しみやショックは、しかしそれほど大きくはやってこなかった。自分のオリジナルもまた死んでいるのだと意識するからだろうか、どこか仕方ないという気分のほうが今の向日には大きく感じられていた。
代わりに、目の前の壮年に差し掛かったかつての友人への共感を感じていた。かつての彼の面影と今の彼を意識のうちで重ねる。繊細そうな整った面立ちは今も残っているが、表情のそこかしこに喪失や、失意や、哀しみや、そうした情動を置き去りにせねばならなかった虚無感の痕が見えるようだった。だが、決してくたびれてはいなかった。
「アメはどうして今になって、私を尋ねてきたの?」
訊くと、アメは下げていた視線を向日の瞳に合わせて上げた。昔に比べて色の深くなったように思える瞳には、孤独の影が貼りついているようにも見えた。
「混乱の中で国も土地もぐちゃぐちゃになって、長い時間が経ってしまった。そんな中で、ある時知ったんだ。世界中に存在した数百の天国施設のうち、数十か所が今も生きて稼働していると。元々天国施設は大災害に備えて独立したエネルギーや自立メンテナンス系を備えていた。中にいる死者を守り存続させるために。だが、そのせいで、短期間だけで消えるはずだった君は、事前に自分で設定した条件をクリアできず、ずっとこの天国に囚われることになった」
そして君のオリジナルはそんなことを望んではいなかった。アメは向日と、その過去を同時に見るように、目を細めた。
「情報ネットワークは時間の流れの境界面で寸断されて途絶えてしまった。だが元々天国施設は、どの施設であっても全ての死者にアクセスできる施設だった。日本の首都からでも、地方からでも、外国からでも。それは死者との対話を望む生者の利便性を考えてのことだった。当然全ての天国施設で死者の情報は共有され常に並列化されていた。アメリカの天国と東京の天国で人格や記憶に差が出てしまっては、死者が無数の、別々の記憶や体験を持った存在に分化してしまうからな。だが、ネットが寸断されて、天国施設のデータは、記録された死者は、ローカルな存在になってしまったんだ」
語られる言葉の意味を考え、向日はすぐに気が付いた。
「つまり……私は、生き残った数十か所の天国施設と同じ数に、分裂した?」
アメは黙して、頷いた。それからしばしの沈黙を挟んで、説明を続けた。
「……生前の君は、際限のない自分のコピーの存続を望んではいなかった。だから俺は――」
君を、君たちを、シャットダウンするために、天国を巡る旅に出た。
「無論、君が存続を望むなら俺は何もせずにここを去る。なにかしてほしいことがあれば可能な限りそうする。ここにたどり着くまで、本当に長い時間がかかってしまった。日影が亡くなる時、天国施設の君のことを頼まれていたんだ。どうにかしておいてくれと。だから、俺は来たんだ、ここに。今更かもしれないが」
どこか懺悔のような響きだと、説明を聞き終えて向日は感じていた。
眼前の、大人になったアメを見つめる。自分たちが持っていた、年若い世代の持つ多くの可能性の輝きや、人生経験が短いからこそ美しくあるイノセンスさは、今の彼からは多くが欠けていた。
だが代わりに、もっと強靭で息を呑むような何かが備わっていた。
腐らず輝く傷としての人生の積み重ね――老いとともに背負う苦痛や喪失を、慣れや怠惰で乗り切るでもなく、腐ってしまうわけでもなく、その苛烈な苦難を受け入れ相対し戦い続けているということが生み出す何か。それまでの生で得てきた価値を足掛かりに、世界に立ち向かう意志の美しさのようなものが宿っているような気がして、向日はどこかで納得していた。このアメは、とてつもなく、大人になったのだと。
「いいおじさんになったね、アメ」
なんと無しにそんな言葉が出てきた。なんとも唐突なその言葉にアメが驚いたような顔をする。目を見開くとかつての面影が少し強くなることに気づき、向日は笑った。
「シャットダウンってのはさ、ぱっとすぐにできるものなの?」
「ああ、望むなら、できる。俺の物理身体は施設の管理区域にいてそこからアクセスしてるんだ。君を……停止させるのは、難しいことじゃない」
「そっか」
そっか、そうか、そうなんだ――相槌を打って、その納得感に向日は何か穏やかなものを感じていた。終わらない『いつもの日々』、いつだかわからない『いつも』の終わりが、ちゃんと来たのだという納得感があった。かつての友人がそれをもたらしてくれるのだという事実に暖かな安堵があった。
「あのさ、アメ」
少しだけ思案して、提案する。
「学校、行こうか」
*
終わらせるならば、そこが適当であるような気がした。アメとも日影とも、最も長い時間を共に過ごした場所。地方の街にありきたりな、高台に建てられた学び舎。
「アメは、本当におじさんになったんだねぇ」
誰も人のいない校舎に入り、見晴らしのいい大窓のついた最上階の渡り廊下へと至る。そこから街を見下ろし、隣にたたずむアメに冗談めかしてそんなことを言ってみると、彼はわずかに顔を伏せた。
「ああ……本当に、歳をとった。おそらく君や俺自身、望みも想定もしなかった歳の取り方をした。正直なことを言えば、君に顔を合わせるのは恐ろしかった。あの頃のような自分ではないものを……ようするに、老いて失った後に残る空虚を見られるのが怖かった」
苦笑してしまう。まったく、とっくに死んだ人間の若さに臆する必要などないというのに。
「私には今のアメはそんな風には見えないよ。人生の初期の無根拠な華々しさでも、晩年の腰の下ろし方の綺麗さでもない、その間にあるものが、アメにはある気がする」
「なんだ、それ?」
「歩み続けられるかという困難さに立ち向かうということ。なんと言うのかな、私たちが持っていた価値ではないものを手に入れるということ。アメが今のアメみたいなおじさんになったのは、その道を上手く行けているんじゃないかって、今こうしてみてて思うよ」
それから、手を差し出した。一瞬戸惑ってから、アメも手を差し出し、握手する。彼の手の平は骨ばって、力強くなっていた。味のある古木のような手だった。
「じゃあ、やって。アメ」
告げる。彼は一拍置いてから、頷いた。
「ごめんね、後始末させてさ」
謝る。彼は生き残った施設がいくつもあるといった。何人も「神立向日」が死者として生きているというわけだ。彼はそのすべてと出会うつもりなのだろう。一体、どれだけかつての友人との別れを経験するのだろうか。これで終われる自分にたまらない安堵を感じながらも、向日はこれからのアメを想って、その覚悟と意思になにかたまらない価値を見たような気分になっていた。
「やめても、いいからね、アメ」
言ってやる。だが、彼は握った手にわずかに力を込めて、首を振った。
「続けるさ。君が――君たちが望む限り」
答えて、彼は笑みを浮かべて見せた。苦さと、喪失を含んだ――しかし同時にそうした痛みを纏いながらも歪まずに伸びる意志を含んだ笑みだった。強くささやかな笑い。
ああ――そうか。向日は唐突に直感していた。これが、彼が歳を取ったという、おじさんになったのだということなのだ、と。こんな笑い方は自分には絶対にできない。
「イケオジだね、アメ」
笑って、冗談を飛ばす。最後までその笑みを見ておきたくて。