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こんな心と、秋の空  作者: ハンカチ忘れ
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赤い星、青い光

がんばれぇ

 私の夏は、誰にも気付かれずに終わった。汗も涙も友情も恋愛も、海辺や祭の喧騒の中に引き籠もるばかり。クーラーの効いた部屋で暮らす私は、不意の秋の到来を、カレンダーに教わるしかなかった。

 高校生に百通りの夏があるとして。そのほとんどは、たぶん掛け替えのない時間として各々に刻まれる。小説でも漫画でも音楽でも、そうやって夏に育まれてきた思い出は色鮮やかに描かれる。灰色の青春などと儚む連中だって、案外自分なりに楽しんでる。この広い部屋で無意味に生きる私のこの時間だって、いつかそんな風に懐古されるときが来るのかもしれない。来るのかもしれないが、そう、来ないでいい。こんなにも色のない日常に、思い出したときだけ色がついてたら不気味だ。明日からは学校に行かなければならない。どうせ部屋の中と大した違いもないモノクロの教室を思い浮かべると、ベッドがあるだけこの部屋の方がマシだと思った。

 立ち上がり、パソコンを閉じる。伸びをすると背骨が不健康な音を奏でたので、ついでに首や手の指の骨も鳴らして陳腐なオーケストラを演出してみる。聴き手の存在しない部屋に、次いでため息が流れた。薄暗い空間に、冷蔵庫のわざとらしい白光が灯る。中には賞味期限が3週間前に切れた卵と、調味料各種、あとは……羅列するだけ無駄だ。要するに食べるものなど何もない。別にこのまま死んでもいいのだが、飢えて死ぬのは惨めだから嫌だ。私は床からスマートフォンを拾い上げると最寄りのコンビニへ向かった。


 玄関を開けると、外はこげ茶色の9月なはずなのに、赤々と晴れ渡っていた。暦なんて当てにならない。夏は終わってないのに、夏休みは終わる。あと10時間ほどでこの日曜日は終わって、そこから8時間ほど過ぎただけで、私は今日まで当たり前だった部屋の中の日常をすっかり捨て去らなければならない。それは残酷なことだと思う。

 茫然と夏を悼んでいると、選挙カーが目前を通り過ぎていった。ナントカという政治家の名前を連呼して去っていくものだから、暫くその名前が頭から離れなかった。もう忘れた。あんまり政治家らしくない名前だったと思う。

 家から2分の距離のコンビニに着くと、私は適当な弁当を3パック手に取って、空いたレジに置いた。「iDで」と言うと、見れば分かるのに店員が箸の本数を訊いてきたので、「4本お願いします」と言ってやった。そのとき初めて店員の顔を見たが、特に困惑してる様子もなく、面白くなかった。

 ところで、目的がふたつ以上なければ、私は極力動きたがらない性分だ。だから、コンビニに行く為だけに外に出たことを後悔している。でも、仕方ない。わたしは今、死なない程度の食事以外、求めていないのだから。仕方なく帰路に着き、行き道にも通った公園の側を通ると、下水のような臭いがした。どこからともなく漂う悪臭に、ふと洗面所に溜めた洗い物のことがよぎった。性能の良い食洗機は買い与えられているが、まともに使っていない。食器を食洗機に入れることも面倒だった。流石に人間としてどうかと思い、50メートル先に迫った一軒家で今夜すべきことを考える。すると、堰を切ったように色々なことが浮かんできて、私はたまらず思考を中断した。取り敢えず、少なくとも洗い物だけは片付けよう。他のことは、もう考えると食欲がなくなる。

 クラクションの音がした。先ほどの白い、面白みのない形の選挙カーではなく、出来損ないの茄子みたいな色をした車が、振り返ると間近に見えた。もう一度大きくクラクションが鳴り、私は心臓から裁縫針が飛び出るようなショックを受けた。そしてその狭間に尻餅を着く。固いコンクリートが、私の掌に突き刺さった。クラクションの発生源であろう茄子車からは、眼鏡の似合わない運転手の形相がフロントガラス越しに見えた。何で彼はこんなに怒っているのだろうと一瞬考えて、自分が車道にへたり込んでいることに気付いた。私は、みっともなく這いつくばって、右手に提げた弁当のことは顧みずに歩道へ戻った。最後に要らぬクラクションをもう一発鳴らすと、腐れなすびは去っていった。


 その後、私は何事もなかったかのような顔をして家までの残り僅かな道のりを進んだ。恥ずかしくて死にそうだったけど、こんなことじゃ人は簡単に死なないことがわかっていたから、ほとぼりは玄関の鍵を開けるまでに冷めた。家に着くと、まず洗い物をした。新品同然の食洗機を久しぶりに起動させ、並行して手洗いを黙々と続ける。ゆっくり、ゆっくり、丁寧に皿を磨いていると、いつの間にかキッチンの小窓にオレンジの夕日が張り付いていた。私が作業を完全に終わらせたのは、その夕日がすっかり沈んだ後のことだった。下らない達成感と、次の季節の幕開けを横目に流したことへの軽い後悔で心がいっぱいだった。こんな風に心の容量が小さいと、困ることも多い。例えばそう、どこかでスマートフォンを落としたことに気付くやいなや、一目散に探しに行った私は、もはや先刻の夕日がどんな色をしていたかも忘れてしまっていた。

 心当たりはひとつしかなかった。無様な尻餅の跡に、スマートフォンはきっとある。大して価値のない私の個人情報が詰まっている端末だが、拾う人が人ならどうなるかことか知れない。本日2度目の外出だったが、白色灯とパソコンのブルーライトが薄ぼんやりと照らすだけの部屋に慣れた私にとって、午後8時の外の風景は、長いだけの廊下のようなものだった。

 公園に着くと、暗がりの中、私は水色のケースを懸命に探した。途中、夜目が効かないから灯を、と思いポケットに手を伸ばした。そして自分の間抜けさに呆れた。茄子車と私が対峙したあの辺りには、それらしきものは落ちていなかった。猫背になって地面を睨んでいるうちに、公園の敷地に入っていた。もう期待はしていなかったが、それでも半ば惰性的に私はスマートフォンを探した。


 赤い星が見えた。空の低い低い所に浮かんだその星に照らされて、白い靄が燻っていた。赤星、夜空に白霞。こんなにも幻想的な風景はしかし、現実のことで、タネが判ってしまえば何の浪漫もない現象だった。それは、ブランコに座っていた人影が咥えた煙草の火だった。嫌煙ブームの最中、例に漏れず私も煙草なぞ好かなかったけれど、何となく、その火には惹かれた。

 ゆらゆらと、何らかの魔力に引き付けられるように私はブランコに向かって歩く。たぶん、このとき探し物のことは頭になかったと思う。しんと静まりかえった公園で、一点の赤い火が極めて朧げにブランコの輪郭を私に判らせてたから、ゆっくりと進むことに抵抗はなかった。しかし次の瞬間、俄かに赤い星は墜落し、ジャリジャリと地面に擦り付けられて消失した。もう、瞼の裏と変わらない暗黒しか見えない。煙草の先端から這い出た幻想が、むざむざと、私の眼前にて消えてなくなった。

 ブランコのチェーンがキコキコと軋む音がした。かの幻想の、創造者にして破壊者の仕業だった。私は、その音を聴いて初めて、自分の立っている場所を悟った。何も見えないけれど、すぐ近くで彼が私を見ているように感じた。数秒の本当の静寂に、遅ればせなから心臓が鼓動した。肺や脊髄まで鼓動している気がした。恐怖でないことは心でわかっていたから、この鼓動は不思議なことに期待によるものだ。何に対してのものかは判らないし、この感覚の正体はやはり本当は恐怖なのかもしれないけれど、それでも少なくとも、あのなすび色の車からクラクションを鳴らされたときより、ずっと気分が良かった。ともすれば、赤い星が立ち消えたあとも、私の中で幻想は続いていたようである。

 そんなことを考えていると、彼が立ち上がって、何やら不審な動きをした。見上げても、その表情は窺えない。ゴソゴソと持ち物を漁る彼が何も言わないものだから、ばつが悪くて俯いた。すると、砂の地面に、残り僅かな生命を惜しむように咲く赤い光が、チビチビと点滅していた。私より少し高い所で依然聴こえるゴソゴソと漁るような音をBGMに、私はその生命の終わりを見届けようとした。まだ赤い。まだ消えない。消えないーーそして、消えた。自然にではない。彼が踏みつけたせいで、消えた。

 何故だか文句を言いたい気持ちに駆られた。もう少しだけ、あの幻想的な赤い光に没入していたかったのだ。しかし、そのような些末な願いは彼の知る所ではなく、代わりに彼から私に向けられたのは、寧ろこれ以上ない現実の光だった。眩しさに目を細める私だったが、我慢して光源を見てみると、それは見覚えのある画面だった。

 「思うに、これの持ち主はおまえだろう?」

 スマートフォンのブルーライトに照らされて、男の顔がぼんやりと見えた。下手に形容すると、私の趣味を赤裸々に明かすことになるので、それは避けるものの、落とし物を拾って、持ち主が現れるまでその場で待とうなどという発想をするような、奇怪な、さらに初対面の女を「おまえ」呼ばわりするような人物にしては、全然嫌悪感というものを抱かせない男だと思った。



 間違いない。このロック画面は正しく私のスマートフォンに違いなかった。溶ける氷河の写真の上に、淡々と21:40という時刻が浮かんでいる。男は画面を自分の方へ向けると、親指でしきりにホームボタンを押した

 「パスワードを教えろ」

 再度こちらに向けられた画面がプルルンと右に揺れ、6桁の黒点の真上に、これまた淡々と《やり直す》という表示が出ていた。パスワード入力失敗の表示である

 「はやく」

 催促する青年。訝しむような眼光が、ブルーライトの隙間から見え隠れする。私はいったん冷静になって、思考を巡らせるより先に声を出した

 「いやです。パスワードを教えろなんて、非常識だと思う」

 声は掠れていた。コンビニ店員と話すのとは訳が違う。私は、眼前の男が何を考えているかわからないから、とりあえず常識的な躊躇をしてみた。

 「何で非常識なのか、言えるか」

 男は、スマートフォンを高く掲げたまま、待ってましたと言わんばかりにそう返した。笑っているような声音だった。

 「見ず知らずの人にパスワードを教えたら、私の個人情報が悪用されたり、私の趣味趣向を覗かれることになるかもしれない。スマートフォンはーー」

 そこで詰まった。スマートフォンはーー。私は、何と言おうとしたんだろう。拍子に浮かんだ「生命線」「危険」という言葉を、飲み込んだ。

 青年は、今度は明らかに笑って、私のスマートフォンの電源ボタンを長押しした。ほんの数秒経って、画面に真っ赤なスライドが浮かぶと、青年は躊躇いもなく電源を落とした。

 「じゃあ、こうしておけば安全だろ」

 「電源を消しても、パスワードを知られたら結局同じです」

 私は何とか言葉を捻り出した。青年が何を言いたいかが、だんだんとわかってきた。

 「そうだな。その通りだ。うん。そうか。わかった、これは返すよ」

 真っ暗になった公園で、ゆらゆらと青年の朧げなシルエットがこちらに向かってくる。そして、青年は手探りで私の右手を持ち上げて、ひんやりとしたスマートフォンを握らせた。

 「大事に、大事にするんだ。もう落としちゃダメだぞ。個人情報が、キケンだからさ」

 最後に、青年は私の耳元でそう囁くと、くるりと右に向き、ブランコの柵を跨いで、私に背を向けて去っていった。服に着いたメンソールの臭いが、彼の触れた左肩から漂った。

 公園に佇むのは、私ひとりになった。熱を全く失った機械が、ひんやりと私の掌から体温奪っている。

 その日、家に帰ってから、私がスマートフォンの電源を点けることはなかった。公園より幾ばくか明るい部屋で、ベッドの上で仰向けになって、天井と対話する。

 つまり彼はこんなことを私に言いたかったのだと、ついさっきの出来事を反芻して、思い至った。

 「お前のその個人情報とやらに、躍起になって守る程の価値があるのか。」

 スマートフォンを探しに公園に向かう途中、まさしく自分で思ったことだ。大して価値のない私の個人情報。悪用されるのは恐ろしい、大切な、私の個人情報。私という存在が詰まった板。

 それだけだった。

 「悪用されるのは、お前の個人情報じゃない。お前じゃない、他の誰のものでいい個人情報だ。」

 耳元で、最後に囁かれた言葉の続きが、ごく自然に彼の声で再生された。

 何だか考えるのも面倒になって、私はいつもより3時間ほど早く眠りに就くことにした。目を瞑ると、真っ暗な視界の端に、赤い星が浮かんでは消えた。


がんばったなぁ

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