とある愛情劇
行きかう人波が踏み鳴らすアスファルトに、ちらちらと夜空から雪が舞う。向かって左側には様々な店が連なり、車道を挟んだ逆側にもそれが続いている。店からこぼれる様々な色の明りが、手を繋ぎ愛をこぼす人々に挟まれて歩く祥子を照らした。
歩行者用の信号機が赤になって、祥子は足を止める。彼女は自分だけの世界に入り込むように携帯を見た。雪が舞い降りては溶ける。携帯の液晶画面についた雪もすぐに水滴となった。
新着メールはない。受信ボックスを選択し、一時間前に届いたメールを開いた。
『七時半に駅前で待ってる』
現在の時刻は七時ちょうど。駅まではあと十分もあれば余裕で到着する。早く着すぎたかな、と祥子は張り切りすぎた自分が気恥ずかしくなった。そして自分の心にほんわりと暖かい灯りがついていたのに気付き、首を振る。違う。期待しちゃだめだ。
今夜はクリスマス。街は幸せそうな恋人たちであふれている。
祥子は寂しい手をポケットに突っ込んだ。
祥子が史明に告白してしまったのは、二週間前のことだった。
それまで祥子と史明は幼馴染の仲で、家が近所ということもあって家族ぐるみで交流が深く、祥子の中で史明は異性の友達というよりも兄弟――頼りない双子の弟といった存在だった。
女子が騒ぐような端正な顔立ちをしているわけでもなく、皆を笑わせるような巧みな話術もない。むしろ無口で、顔立ちは悪いわけではないのだが、全体的にぱっとしない。明るくて面白い男性が好みの祥子にとっては、男としての史明なんかは眼中にも入らなかった。
それなのに史明に告白してしまった。どうしてかは自分でも分からなかった。気づいたらいつの間にか、と言ったところで、史明にとってもそうだったろうが、祥子にとっても青天の霹靂といってもよかった。
「史明のこと好きかも」
そう祥子は言った。何気ない会話の一コマで、脈絡も流れもなにもない。今日おもしろいことがあってさ、程度の感覚だった。
祥子は自分自身の口から滑り出た言葉にびっくりした。信じられなくて、誰かに言わされたんじゃないかと思った。きょろきょろと辺りを見回したが、当然のようにそんなはずはない。恐る恐る、史明のほうに視線を戻した。
史明は、夕陽に浮き出された影のように言葉を失っていた。ワックスも付けられていない黒髪が、冷たい風に揺れる。
「あはは。ごめん、なんかつい……」
作り笑いを浮かべて祥子は言う。
それでも驚いた表情のまま固まった史明を見ていると、祥子の羞恥心は燃え上がり、身体に熱を帯びさせた。頬が紅潮する。祥子は次の瞬間、史明を置いて走り出した。ばくばくと心臓が鳴っていた。史明の家の前を通り過ぎるときはなんとなく目を伏せて、急いで自宅に帰った。
自宅に入るとすぐに自分の部屋に行き、制服も着替えずにベッドに寝転がった。愛用の抱き枕をギュッと抱き締める。
なんてことを言っちゃったんだろう。まるでその言葉しか知らないように、何度も何度もそれを抱き枕に語りかけた。好きでもなんでもないのだ、ただの幼馴染で、弟のような存在で、とてもじゃないが異性として見れないのだ。なんてことを言っちゃったんだろう。祥子は呟いた。
□
植木にイルミネーションが巻かれライトアップされた駅前は、普段利用するときと違う、ドラマのワンシーンをくりぬいたような、幻想的な雰囲気があった。ちらちらと舞う雪がイルミネーションの光を受け、硝子の粒のように輝いている。光に寄せられたように見物客や待ち合わせの人が集まり、彼らの吐く白い息は綿アメのように宙を漂っていた。
祥子は『もう着いたから、待ってる』と史明にメールを送ろうかと思ったが、それは重い気がして、携帯を閉じて植木のレンガに腰掛けた。ダウンジャケットの表面に雪が付いて湿っていて、傘を持って来ればよかったと少し後悔する。
はぁとため息を吐き、もしかしたらもう史明も来てるかもしれないと思って辺りを見回す。だがやはり史明はいない。周りに群がる幸せそうなカップルたちを見ていると惨めな気持ちになってきて、祥子はうつむいたまま史明を待つことにした。
あれから祥子の頭の中は、史明のことでいっぱいになっていた。
学生の本業である勉強も手につかず、一人でいるときも、友達と遊んでいるときも、史明のことを、あの言葉を聞いて、彼はどう思っているのだろうと考えていた。今までにも何度か実らぬ恋をしてきたことがあったが、少女マンガのように食事がのどを通らなくなるようなことが、初めて現実に起こっていた。
あのとき、冗談だって、と笑って誤魔化してしまえばこんなことにはならなかったのだが、それも嫌だった。不思議と伝えたことに後悔はなかった。自覚していなかったが、もしかしたら史明に対する気持ちがずっと溜まっていたのかもしれない。祥子はしばらく一人で考えていたのだが埒が明かず、姉に相談してみることにした。
告白したことを伝えると、姉は喜んだような声を上げた。
「え、なに。ついに告白しちゃったのっ?」
最近上機嫌な姉は、新しい彼氏が出来たようで、祥子が部屋に入っていったときも携帯をいじりながらニヤニヤしていた。大学二年生になる姉は祥子よりも恋愛経験豊富で、相談にも乗ってくれると思っていたのだが、この調子だとからかわれて終わりそうだと祥子は後悔した。
「そのことで相談したいんだけど。……まじめに聞いてくれる?」
声を低めて祥子は言う。姉は「勿論、お姉さまに任せなさい」と軽い口調で応じるので、いらだちは大きくなるばかりだったが、それでも一人で悩んでいるよりはマシだろうと、祥子は姉にすべてを話した。
聞き終えた姉は頷き、しかしどこか腑に落ちていないような顔をした。
「結局、あんたは史明くんのことが好きなんでしょ。ノリでとはいえ、告白できてよかったじゃない。なにに不満あるの?」
祥子は頭を抱えた。
「別に嫌いじゃないけど、好きじゃない。言ったでしょ」
優しいところもあるし、顔だって嫌いなタイプじゃない、無口だけどたまにボソっと言うことがとても面白かったりもする。だけどやっぱり、今まで好きになってきた人とは毛並みが違うし、ただの幼馴染なのだ。祥子は頭の中で整理し、もう一度それを姉に伝える。だがやはり、姉の態度は変わらなかった。
「素直じゃないわねぇあんた。わたしが聞いてる限りは、祥子は完全に史明くんのこと好きじゃない」
「だから……」
「まぁ、自分で気づくまで話は進まないわ。とりあえず、恋って単語を辞書で引いて、意味をちゃんと理解しなさい」
姉に国語辞書を渡され、祥子は部屋から追い出された。部屋に戻った祥子はしぶしぶ、恋という単語を引いてみた。
特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。
なによ、と祥子は呟いた。
□
携帯が鳴った。
慌てて開くと、史明からのメールで、『今着いた』とのことだった。時刻はちょうど七時半。遅刻魔の史明が時間ちゃんと通りに来るなんて珍しいな、と祥子は笑った。
立ち上がって史明を探すと、人ごみの中でも意外とすぐに見つかった。初めて見るカーキ色のコートに、下はよく見る黒のジーパン。珍しく髪の毛はセットされている。彼には美容師の姉がいるので、きっと彼女にコーディネートしてもらったのだろう。久しぶりに見る史明はいつもよりほんの少しだけ格好良くなっていて、祥子の心臓がドキッと跳ねる。
あれから祥子は史明を避けるようになり、会うのは久しぶりだった。「よぉ」と史明の声を聞いて、祥子は長い旅行から自宅に帰ってきたような懐かしい気分になった。
「早いな」
「わたしも今来たところ。で、今日は何なの?」
「とりあえず、着いて来い」
と史明は威厳ある夫のような台詞を、しかし周りの騒音にかき消されてしまいそうな弱々しい声で言う。祥子は、史明よりも半歩下がって歩き出した。二人の間に言葉はない。それでも一人で歩いているより、不思議と温度が上がったような気がした。
「なんかこうやって、二人で歩くのも久しぶりだね」
「あぁ」
「会わない間になんか面白いことあった?」
「ない」
彼を見ていると期待感が胸に広がって、それを否定することが出来なくなる。祥子はたまらず尋ねた。
「でも、なんでわざわざクリスマスに誘ってくれたの?」
史明は難しい顔をして、うつむいた。
こういう顔をするとき史明は大抵、なにか重大なことを心に決めているのだ。幼馴染である祥子はそのことを知っていたからこそ、不安に駆られた。いつ話を切り出されるかと思うと、祥子はそれ以上言葉を続けることが出来なくなってしまった。
周りの嬌声や歓声が、静まった二人の間に割って入る。
冷たい雪が祥子の手についた。
祥子が自分の気持ちに気づいたのは、姉に相談を持ちかけたすぐあとだった。
自ら史明を避けるようになっていた祥子だが、一緒にいないと、なにか心にぽっかりと虚しさが割り込んで来きて、彼に隣にいてほしいと思うようになっていた。祥子はその気持ちに気づいて、しかし不安になった。告白を拒絶されてしまったら、もう史明と一緒にいることは出来なくなる。そう考えると虚しさがさらに大きくなって心を埋め尽くし、祥子の目には涙が浮かぶのだった。
史明からの返事はなかったが、十日ほど過ぎた日にメールが入る。祥子は震える手でメールを開くと『二十五日、予定空いてる? 話したいんだけど』とのことだった。
二十五日はクリスマス、恋人が集う日。祥子はその誘いが素直に嬉しかったが、『話したいんだけど』という一文に違和感も感じていた。なにか祥子にとって不都合なことがあるような、彼の言いにくそうに話す顔が頭に浮かぶのだ。
祥子は悩んだ。断られるくらいなら、行かない方がいいと思った。だけど、断られてもいいから、クリスマスに史明に会いたいとも思っていた。祥子は時間をかけて考え、一時間後に『うん』とたった二文字だけのメールを返信した。
「なぁ」
ふと史明は足を止め、振り返った。彼の切れ長の目が一心に祥子に向く。祥子は堪らず視線を逸らした。
向かって右側には公園の入り口である石門が建っていて、人影のない園内からは、カサカサと葉の擦れ合う音だけが響く。稼動していない噴水はひゅるりと吹く風に身を任せて水面を静かに揺らし、それを囲うように設置された古びた木製のベンチを、街灯がオレンジの光で照らし出している。寂しげな雰囲気漂う公園が、こちらに来いと、祥子に手招きしているように感じた。
頭をかき、史明が続ける。
「この前、お前が言ってたこと取り消せないか」
「わたしが史明を、好きってこと?」
と平静を装って言うが、祥子は内心で倒れてしまいそうなほど苦しんでいた。史明の口調が、普段にも増して冷たいのは感じていた。史明が、感情を押し殺して、これから患者に余命を告げる医者のように見えた。
とん、と足が勝手に史明から距離をとっていた。両手が耳を覆い、この世の音から意識を断絶しようと動いていた。祥子は逃げ出そうとして、その肩を史明に捕まれる。祥子はその手から逃れようともがいて、史明が何かを言っても聞こえないように大きな声で喚き散らした。
「ヤダ! 離して! なんにも聞きたくない!」
喚いて、暴れて、それでも史明の手は離れない。現実が心に染み込んできて、祥子の声はだんだんと小さくなっていく。
「……やだぁ」
祥子は、捨てられた子犬のように弱々しい瞳に、いっぱいの涙を浮かべて史明を見上げた。すると、史明の頬が不自然に赤らんでいることに気づく。疑問に思ってじっと見つめていると、史明の口がゆっくり動いた。
「告白は、男からしないと格好つかないだろ」
喉元まで疑問を示す言葉が出かかったとき、鼻に雪が付いて、ふと祥子の意識が逸れる。暖かい雪が、じんわりと溶け出して鼻の頭で水滴となった。
「好きだ」
くるり、と史明は踵を返す。
祥子は呆然とその背を見つめた。
「もう少し行ったら、ラーメン屋があるんだ。寒いから早く行こう」
史明が顔だけ振り返って、恥ずかしそうに笑う。祥子はその言葉ではっと我に帰り、涙を拭いて、史明の隣に並んだ。
「なによもう。少しは雰囲気とか考えなさいよ」
祥子の手は、まるで磁石のように史明の手にくっついた。