私は
「ごめん」
午後の教育時間が始まると同時に、伊織は1717号に頭を下げた。深々と、丁寧に。
それはおよそ機械相手にとるものではなく、本当に、申し訳なく思っているからこその行為だった。
「どうされましたか」
「やっぱりわからなかった」
頭を上げた伊織に、1717号は首を傾げる。約束したはずだ。午後までには答えを見つけると。その約束を、目の前の人間は果たさなかった。
「約束を履行しなかったということでしょうか」
その言葉を発しながら、1717号の胸部に内蔵された集積回路の一部の動作速度が急激に上がっていく。その反応に、わずかに前室の研究員にどよめきが走った。
「……半分、そうかな」
「質問。約束の半分というのはどういうことでしょうか。補足を求めます」
伊織は苦笑する。わかっていたその反応に。だがその声のトーンが少しだけ落ちていたのを感じているのは、この部屋には一人もいなかった。
「ガイノイド……ここでは君と、人間……俺たちの違い。それをどう区別すればいいのか。そういう問題だったね」
「その通りです」
「そして今現在、俺は人間、君はガイノイドだと明確にわかっている。そこまではいいかな」
伊織はやや上目遣いに同意を求める。教師としてではなく、目の前の女性の機嫌を窺うように。
「はい」
「俺なりの、現時点での結論を言うよ。その外見や動作で違いが出るはずがないんだ。だって、君は人間に似せて作られている。君が完成したときは、俺たちと君の見分けが完全に出来なくなっているはずなんだから。だから……」
1717号は動作を静止し、瞬きを二度して言葉の続きを待つ。言葉を理解はしている。しかし、伊織の言葉の続きを予想することは出来なかった。
伊織はゆっくりと言葉を紡ぐ。言い訳するように、そして、言い聞かせるように。
「だから、これは君が完成するまで俺たちが考え続けなければいけない問題なんだ。そして、答えが出ちゃいけない。もし出たら、その答えは修正しなければいけない問題なんだから」
「解答がない問題などありえるのでしょうか」
「うん。それを、解なしという。だから、もし君も答えがわかったら誰か研究員に教えてほしい。すぐに、対策を練るから」
堂本はその言葉に、無言で首の後ろを掻く。また面倒なことを、と考えて。
だが、これが伊織の見つけた答えだった。
今のところ、1717号と人間の見分けがついては困る。見分けがつくのであれば、そこは修正しなければいけない。科学者として。
問題の解答を、新たな問題の発見として捉える。伊織が自らを科学者としたとき、吐くべきだろう言葉だった。
1717号は瞬きを止めて、ただ頷く。それから、桃色の唇を開いた。
「……わかりました。私たちとヒトの相違点。発見しましたら、ただちに牧原研究員に報告いたします」
「わりと重要な問題だから、俺じゃなくていいよ」
徐々に、先ほど動作速度が上昇した回路の一部が復旧していく。研究員たちに安堵の息が漏れた。
「いいえ。牧原研究員に一番にお知らせする必要があると判断しました」
いつになく頑固な1717号の言葉に真っ直ぐな目。それに伊織は面食らう。首を横に振ることが出来ないほどに。
「……わかった」
「では、午後のプログラムをお願いします。本日は名称に関することでした」
「ああ、そうだね」
改めて伊織は鞄を開いた。そこからいつも通り、辞典と植物や動物の図鑑を取り出し机に並べる。やや身を乗り出しそこを見る1717号の目にいつもと違う光があるのを、ただ堂本だけが見ていた。
「名称というのは、区別から始まる」
「区別。あるものとあるものの差異を認めて分けること」
伊織の言葉に返答をするように、しかし返答ではなく自らへの確認として1717号が補足を入れる。そんな動作に、もう伊織は慣れていた。
伊織は白紙のノートに、団子のような塊を描く。それを見て、1717号は首を傾げた。
「そう。その区別したものの一区分に、必要に応じて名前を付けていく。……たとえば二頭のイヌ。そのどちらかを指したいときに、個体を指し示す何か」
「質問。これはイヌでしょうか」
堂本が、キーボードを打ちながらその言葉に噴き出す。
「……絵下手なんだよごめんね」
1717号が指し示した二つの団子のような絵。それは、伊織にとってはイヌだったが、1717号にとっては得体の知れない何かだった。
伊織は咳払いをし、仕切り直す。
「まあ、イヌだと思って。このイヌ二頭、こちらを指すときにはなんていう?」
「右のイヌです」
「そうだね。でもたとえば、こうしたら?」
伊織はノートを逆さまにし、1717号に向ける。先ほどとは逆さまだが、それでも何ら変わりがないほど酷い絵だった。
「さっきのイヌは、なんていえばいいと思う?」
「左のイヌです」
思った通り。そう感じ、伊織は笑顔を強める。
「でも、さっきは右のイヌだった。『右の』や『左の』という方向などの、変わってしまう恐れのあるものを接頭語に使っただけだとこういう弊害が出る。だから、個体名というものが出来る」
伊織は二頭の上に、『シロ』『クロ』と書き入れる。そうしてから、またノートを回転させた。
「どんな方向でもシロはシロ、クロはクロだ。これが、個体名だね」
「質問。一頭だけしかいない場合、名前はなくてもいいということでしょうか」
「そうだね。一頭ならば『イヌ』と言えばいいし事足りるかもしれない。でも、名前にはそういった実用以外にも意味があるんだ。親愛を示すために使ったり、立場によって変わったり。必要がなくても付ける場合は、好悪や何かの感情を対象に持っている場合が多いかな」
「……そうですか」
伊織の解説に、1717号はパタリと口を閉じる。一見興味を失ったかのように。それはいつもの動作だった。
1717号が口を閉じたように、伊織はノートを閉じる。
「まあ、文化的なそういったことは後にして、まずは名称自体の区分から始めようか。学名、個人名。場合によって変わるもの、不変なもの。分割できるもの、結合できるもの、そのへんの判断が出来るように」
「わかりました。よろしくおねがいします」
ノートの代わりに、今度は図鑑を開く。まずは、学名と俗名の区別。
一つの問題が消えた伊織の脳内は、午後の実験が始まる前よりも大分クリアになっていた。
「……と、今日はこれくらいにしておこうか。まだ時間はあるけど……」
動物の群れから伊織が言葉で示した個体を探し出す訓練は、上々の成長が確認された。
『スミスの右にいるジョン』や『複数のアランのうち、ゴリラ』などそういった簡単な問題ではあるが、それでもなお伊織は嬉しく思った。動物の同定や、位置関係などの正確な把握など、そういった能力が成長しているのが手に取るようにわかった。
「用意していた課題はクリアした。もう次は新しいフェーズに入れるよ」
「わかりました。ありがとうございます」
相変わらずに、無機質な声で1717号はそう応える。
そろそろ、こういう声の表現などについても考えておかなければなるまい。そう伊織は思った。
そんなことを思いながら1717号を見た伊織は初めてそこで気がついた。1717号の視線が、左右に泳いでいるのを。
それに伊織が気付いたのを見て取り、1717号は瞬き多く伊織の目を見つめ返した。
「質問。かまいませんか」
「ああ、うん」
いつもの質問とは少しだけ違う気配に、伊織は息を飲む。何がおかしいのか、伊織にはわからない。その質問の予想もせずに、伊織は1717号の言葉を待った。
やがて、ゆっくりと、それでもほぼいつも通りに1717号の唇は言葉を紡ぐ。
「質問。『人工知能培養体1717号』は、名前でしょうか?」
「う……ん?」
その質問に、伊織は口籠もる。どう答えていいものか、少しだけ悩み。
「これは私を一意に指し示す呼称だということは先ほど理解しました。『人工知能培養体』が種別。『1717号』はその個体ナンバー。しかし、それは名前といえるのでしょうか」
「……名前ではある、と思うよ」
「であるならば、牧原研究員の『牧原伊織』と対応しているとして理解すればよろしいですか?」
1717号の唇が歪む。その意図が読み取れず、伊織は堂本のほうを見た。
堂本も、首を横に振ってそれに応えた。
仕方なく、伊織の既存の知識で答えていく。間違いがあれば訂正しなければいけないが、ここで答えない以上の悪影響はあるまい。そう思って。
「俺の持っている要素の中で、対応しているとすれば……社員ナンバーかなぁ?」
名前、地位、そういったものを除外し、伊織が考えついた答えがそれだった。今現在伊織を一意で示しており、そして連番で前後の社員が同期もしくは近い年月に入社しているとわかるもの。
「それは、牧原研究員の『名前』といってもいいものでしょうか」
「……少し違うね」
唇に指を当て、伊織は目を背ける。
言われてみれば、そうかもしれない。そう考えて。
1717号と呼称しているが、先ほど木村研究員と会話した限りでは、それは定期的に変わってしまう。名前も『改名』というものがあるにはあるが、それは大体はセキュリティなどとは違う理由で変わるものだろう。
つまり、今現在彼女を一意に示しているものではあるが、これは名前ではない。
「なるほど、確かに君の名前ではないね」
「ひとつ、発見しました。私には名前が存在しません」
あくまでも無表情で1717号はそう口にする。発見というのは、この教育の前に口にした伊織の言葉に対応したものだろう。
なるほど、今現在は確かにそうだ。であるならば、この差異は解消しなければいけない。他ならぬ伊織自身がそう言ったのだから。
「じゃあ、俺の一存で決めていいものじゃないから、上司を通して稟議にかけてみるよ。君の名前について」
「了解しました」
呟くようにそう言って、1717号は瞬きを繰り返す。伊織はその顔に、何となく申し訳なくなった。
そのとき、スピーカーからサーッという音が響く。
前室のマイクを使うときに入るノイズであり、伊織と堂本は交代の時間が来たものだと思った。
そして前室に目を向けるが、そこでマイクに口元を近づけているのはいつものオペレーターではなかった。
「構わん。許可する」
「え?」
マイクを使っていた大野のその言葉に、伊織は思わず驚きの声を出す。前室からでも声自体は漏れてくるが、マイクを使ったということは明らかに自分たちに向けた言葉だ。
だが、その許可というのはどういうことだろうか。
「名前の件でしょうかー?」
堂本がやや大きめに、大野に確認する。それに応えて、大野は深く頷いた。
「三人で決定し、明日の午前中までに報告してくれ。稟議にかける必要はない」
「明日までに、って言われても……」
その言葉は、簡単なものではない。今日の教育に割り当てられた時間はもうすぐに終わり、そこから先には1717号に予定が詰まっている。そして運の悪いことに、明日は1717号の小規模なハードウェアアップデートの予定がある。その各種の作業のため、面を会わせる機会はない。
つまり『明日の午前中までに』『三人で話し合える』のは、今このときしかないのだ。
大野は、特にその辺を気にしてはいなかった。というよりも、次の日にアップデートがあることを失念していたからの言葉だったが、伊織たちはそうは思わなかった。
何か意図があるのだろう。ここで決定しなければいけない何かが。
伊織も堂本も、揃って唾を飲む。それを不思議そうに見つめていた1717号は、首を傾げていた。
堂本が、伊織に席を寄せて囁きかける。
「なあ、どうするよ? 俺、人の名前なんて決めたことないんだけど」
「俺もだって。ペットすら飼ったことないし」
口々に、俺には無理だという言葉を応酬する。
だが、また揃って1717号を見た二人は、その真っ直ぐな瞳に動きを止めた。
「1717号は、どんなのがいいと思う?」
堂本は、笑って1717号に問いかける。そうだ、ここで答えてもらえば簡単なのだ。本人が名乗りたい名前を名乗る。それが、一番の解決策だろう。
言いながら、名案だと心の中で自分を褒める。
だが、1717号は冷たい声でそれを否定した。
「ありません。名前とは、他者が区別のために付けるものであると先ほど学習しました」
「たしかにそうだったけどさ……」
融通が利かない。そうは思ったが、堂本はそれ以上反論しなかった。その目に、違う意図を読み取って。
ふと笑いがこみ上げる。だがそれを隠して堂本は伊織の背中を小突き、1717号のほうを示す。軽い痛みが伊織の背中に走った。
「ほら、決めてやれよ。俺よりもよく接してるお前の方が適任だろ?」
「だから、名前なんて俺決めたこと……」
断ろうと、伊織は堂本を見てから、1717号を見る。だが、そこで断る言葉は止まってしまった。
「牧原研究員、お願いします」
確かにその瞳は伊織を見ている。そして、その言葉も、伊織だけに向けられている。
その真摯な気持ちには、応えなくてはならない。一度くしゃりと頭を掻き、伊織は机の上に縦横無尽に視線を走らせた。
先ほど使った辞典やスケッチブック、その他の資料に何かヒントはと見ても、何もない。今回の教育に関する一般的な名前の例としていくつもの名前をピックアップしてはいるものの、そこから考え出すのは不誠実だろう。そう、伊織は自制する。
音も良く、独創性もあり、何か意味がある名前を付けなければ。
一般的な成人男性がこの種の問題に悩むとしたら、自分に子供が出来たときであろう。
社会人一年目の男性が悩むのは、ないというわけではないがひどく少ない。
今この瞬間、伊織は多くの親が悩むその何百分の一の苦しみを体験した。
そして、一つのものに目を留める。
向けた先はスケッチブック。伊織はイヌを描いたつもりで、傍から見ればただの団子を書き殴ってある白い紙だ。
先ほど、回転させてそれを使った。
そうだ、回転。今までの1717号と関連性があり、音も良いかもしれない。
思い立った伊織はペンを取る。
その勢いのまま、スケッチブックに『1717』と角張った字で書き殴った。
それを回転させて、スケッチブックを立てて角でドンと机を叩く。
「こんなんどう? 『リリ』!」
「LILI……リリ、ですか。わかりました、ありがとうございます」
伊織にとっては渾身の命名だった。
だが、1717号の反応は薄く、頭を下げるのみ。それに拍子抜けした伊織は、椅子に座りながら崩れ落ちた。
「いいじゃん。よくやったよ」
堂本は伊織を褒める。もっとも、どんな名前でも自分に面倒がない以上、伊織が決めれば賛辞を送っていたが。
それを薄々理解していた伊織は堂本を無視し、1717号の様子を窺う。
「登録内容更新。識別コード『人工知能培養体1717号』。個体名『リリ』」
呟くように、いつもの調子でその言葉を口にする。そのわずかな頬の綻びを伊織は無意識に感じ取り、安堵の息を吐いた。
「一つの差異が解消されました。私はリリ、今後ともよろしくお願いします」
そう言ってリリはまた、頭を下げた。