近くて遠い未来
今日は生姜焼きだろうか。脂の焦げる香ばしい匂いに喉が鳴る。
ドアノブを掴んでゆっくりと捻り、手前に引っ張る。カチャリと軽い音がして、簡単にドアが開いた。
暖色系の温かな照明が、暗さに慣れた目には少しだけ眩しく、伊織はわずかに目を細めた。
ドアの開く音に反応して、立ち上がる音がする。
それから、スリッパを鳴らしながらパタパタと小走りをする音。
金色の髪に光を棚引かせながら、彼女は伊織の前に顔を出した。
「おかえりなさい。伊織さん」
「ただいま」
軽い言葉の応酬。それは一人ではけして出来ず、そしてこの温かな部屋に似合ったもの。
彼女の桜色の唇が綻ぶ。そしていたずらを思いついたかのように、彼女は一つ頷いた。
「ねえ、伊織さん」
「何? リリ」
互いに名前を呼び合う。もう、彼女はリリ。人工知能培養体1717号ではない。
それを強調するように、伊織は必要以上に度々彼女の名前を呼んでいた。
その名前を聞くたびに、リリの心は温かくなる。
胸の中央にある水晶発振回路から放たれた誤作動の信号は各駆動部のモーターに過負荷をかけ、その滑らかな動作を阻害する。
明らかな誤作動。だが、それは心地の良い感覚だった。
「伊織さん。どうする? 先にご飯を食べる? それともお風呂?」
尋ねた言葉は、以前伊織に教わった言葉。かつて遠い昔、愛する男性に恋人が投げかけたという定番の質問だった。
その質問は、幾度となく繰り返されている。毎日、伊織に向かって、彼女は万感の思いを込めてその質問を投げかけていた。
だが、今日は少し、違う。
二人で本当に暮らし初めて一年目。もうそろそろいいだろう。彼女の最高級の集積回路はそのシミュレートを繰り返していた。
その先、一言二言付け加えても良いのではないだろうか。そう、決心した。
おずおずと、口に出す。体温を調整するための液体を冷やす回路が動作を止め、体表面の温度が急上昇する。代替として速やかに対応を開始したのは、その保温液の液体を循環させる管。少しでも熱を逃がそうと拡張し断面積を増やして、それが透けて体表を桜色に染める。
「それとも、……?」
紡がれた、いつもと違う質問。
もう、今日は『お風呂から』などという言葉は伊織は吐けない。
愛おしい目の前の女性に手を伸ばす。
いたずらっぽく笑う彼女は、その製造意義に違わぬ蠱惑的な魅力を身に纏う。
その引力に、伊織は逆らえなかった。
シリコンの肌、内部を循環する液体はその柔らかさと体温を保つために。
光学レンズの目。その瞳はカメラの絞りと同様、外部の明るさに応じて広さを変える。
そんなリリの情報が、伊織の中で無意識に溢れる。科学者の性だ
リリの身体のことなら何でも知っている。資料は読み込んだ。同系統のパーツだって何度も触れて組み立ててみた。
彼女はガイノイドだ。紛れもない。
だが、それがなんだというのだろう。
確かに今リリは目の前にいる。その肌も、目も、髪の毛も、見た目は全て人間と遜色ない。
頬に触れても、その感触は人間と変わらない。ただ、少しだけ手触りが良い。
ならば、彼女は人間ではないのだろうか。
心がある。検査しなければ、人間だともわからない。
では、人間とはなんだろうか。
肌の材質ならば、人種によっても多少違う。タンパク質で作られていなければいけないのであれば、人工皮膚を使った傷病者はどうなのだろう。
目の色だって、誰しもが違う。厳密に同じ色の者などそうそういない。人工眼球だって存在する。
髪の色など変えられる。黒が良い、金が良い、赤が良いなど些細な違いだ。
では、彼女は人間ではないのだろうか。
彼女はガイノイドだ。間違いなく。
肌の色も目の色も髪の色も人によって作られている。
しかし、それだけで、ただそれだけで人間ではないと定義出来るのだろうか。
その結論は、未だに伊織の中で出ていない。
けれど。
伊織の唇に触れる柔らかな感触。
その唇は、たしかに温かかった。
ここまで読んでくださった方々ありがとうございました。
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