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現実




 エデン社が管理する都市は、会社の名前そのままにエデンと呼ばれている。

 そんなエデンの一角にある小さな居住区で、伊織は目を覚ました。

 

 寝付けぬままに目を閉ざし、そして本当に睡眠に入った瞬間を確認することは叶わなかった。

 今は何時だろうか。とりあえず、水でも飲んで。

 そう、壁の配線に指をかけて体を起こす伊織の目に、壁に埋め込まれたデジタルの時計が目に留まる。


 血の気が引いた。

 七時二十五分。

 それは、()()()()()()()()()遅刻を危ぶむべき時間。


 伊織の意識は急速に覚醒し、勢いよく足を踏み出しベッドから降りる。

 アラームのセットを忘れていたことに、昨夜気がついていれば。そうは思うがもう遅い。

 壁の小さな水道から水を掌に出し、鏡を見ながら適当に髪の毛を整える。

 台所とされている一角の引き出しを開けて、青と緑の混じった角砂糖のような物体を取り出し囓る。マイトキューブ。この都市では一般的な朝食である。


 マイトキューブは戦時下で開発されたエデン社の商品であり、当時兵士の大事な食糧だった。

 一口囓れば一日に必要な栄養素のきっかり三分の一を摂取できる。完全栄養食であり、そして長期間の保存も可能。さすがに水分は別に取らなければいけないが、それでもその分、水分を一切含まない故の軽さから、可搬性に非常に優れていた。

 飽きで兵士たちの士気を下げないよう、味も複数揃っている。ただ、初期の頃、部隊の中で上官がココア味を部下から取り上げてしまうという事件があった。そのため、それ以降は好みの味付けによる独占が起こらないように、外見からは推定できないようにされてしまっていたが。


 今回伊織が口に含んだマイトキューブは栄養ドリンク味。最初期に開発されたものであり、一番オーソドックスなものだ。ガリガリと噛み砕き、それからジャリジャリとした食感を味わいながら飲み込んでいく。

 一口で終わり、そして栄養も満点。調理の時間もなく、包み紙を捨てる程度の片付けさえすれば、あとはなにもしなくてもよい。

 皆、それで満足していた。

 くしゃりとまるめた包み紙。そこに描かれた笑顔の少年そのままに。


  

 ネクタイを乱暴に締めて、伊織は駆けだした。

 都市によっても差があるが、このエデンでは青空が見える居住区に住めるものは少ない。

 制限などがあるわけではない。そこに住むこと自体は誰でも出来る。しかし、そのための部屋代がかなり高額になってしまうのだ。見ようによっては蟻塚のようにも見えるその建物群の表層に住むのは、富裕層の特権に近い。一部給料のほとんどをはたいて暮らしている二等市民もいたが、それは例外に近い存在だった。


 伊織は走る。レイリー散乱を応用し、本物の青空を再現した照明が照らす廊下を。コンクリートの壁を這う輸送管が、蠢き音を立てているのを無視しつつ。

 完全に空調で制御されたこの廊下に四季はない。ただ、夕焼けの時間になれば照明が赤く染まり、夜になれば月明かりに似せた明かりが灯る。そして今は、完璧に日が昇っている。


 まずい。伊織は心底そう思った。

 初日からの遅刻。それは社会人としては絶対にしてはいけないことの一つだろう。自己管理能力の低さが露呈され、上司や同僚の評価も心証も下がる。

 配属される課に、外部とのやりとりはほとんどないことは一つの幸いかもしれない。取引先などが存在しないのであれば、ほんの少しだけ寛恕されるだろうか。いや、そんなことは今は関係ない。というよりも、失敗したときのことを今から考えてどうする。


 大丈夫、まだ間に合う。

 エレベーターに駆け込み、乗り継ぎが出来る階のボタンを連打する。出勤時間よりも少しだけ遅いのが功を奏しているのだろう。複雑に入り組んだエレベーターの軌道も、思ったより空いている。

 これならば、バスの時間には間に合う。間に合わなくとも、タクシーを手配し使えばいい。初日から痛い出費ではあるが、問題ない。ポイントは使うべきときに使うのだ。


 しかし、もしも間に合わなかったら。

 伊織の頭の中で、思考がフル回転する。

 どんな言い訳をしようか。初日なので、朝礼などもあるだろうし、時間が合わなければそこに滑り込むことになってしまうかもしれない。その場合、どうやって入ろう。

 いや、そもそも遅刻は許されるだろうか。もしかしたら、これが原因で干されてしまうかもしれない。仕事を与えられず、ただ追い出されてしまうかもしれない。


 実際にはそこまで極端なことはそうそう起こらない。

 だが、世間知らずの伊織の中では、そういう不安が止まらなかった。




 そして、やはり乗り遅れた。

 坂道の真ん中にある、傾斜のついたバス停。そこで、悲痛な叫び声が響き渡る。

「待って! 待って!!」

 伊織は思わずバスの後ろ姿に向かってそう呼びかけた。

 滑稽な姿だ。中央管制センターからの指示と車両に搭載された人工知能により運用されている無人バスが、そんなくらいで止まってくれるはずがないのに。

 だが、そうせずにはいられないのが人の性というものだ。それに、習慣もある。伊織の生まれ育った都市ではまだ有人バスだったので、止まってくれることが多かったのだから。

 

「兄ちゃん、遅れたのかい」

 ちょうど降りてきていた老爺が伊織に声をかける。息が切れていた伊織はすぐにそれに反応出来なかったが、それでもやっとの思いで顔を老爺に向けた。

 青い作業着に、小さい革の鞄を持っている。それならば、清掃ロボの管理か配線の修理かそういった業務を行いにここにきたのだろう。そんな、適当な想像をしつつ。

「は、はい……。次のバスは……」

「どこ行きだい?」

「西の、E2-15地区……です……」

「あー、それならねー」

 老爺は時刻表を指し示し、指で辿る。大きな戸ほどもあるその液晶にびっしりと書かれた指先ほどの文字は、慣れていなければ読み解くのは難しかった。

 だが、伊織も慣れている。故郷の都市でも、同じ都市製の掲示板が使われていたから。


「17……分後……」

「そうだねぇ。駄目かい?」

 伊織は千切れんばかりに首を縦に振る。いや、間に合うかもしれない。けれど、走ってもギリギリだ。始業時間に間に合うかどうかわからない。

「……タクシー、使います……」

「まあ、なんだ、気を落とすなよ、兄ちゃん」

 老爺はそれから速やかに去って行く。それを伊織は半ば無視した。

 伊織は駅にある端末にIDカードを向ける。軽い電子音の後、液晶画面が点滅し、要求を尋ねてくる。いくつかの選択肢を選べば、速やかにタクシーが手配される。エデンでは、タクシーも都市の運営だ。


「オノリクダサイ」

 しばらくして停留所に現れた小型の無人タクシーに、伊織は渋い顔をして乗り込むのだった。




「初日から重役出勤かよ」

 硬い感触の床を叩くように走り、ようやく衛生管理部の部屋につく。

 息を切らし駆け込んできた伊織に、ちょうど部屋に入るところだった堂本が笑いかけた。


 今年の新入社員の中で、もっとも顔の広い男である。顔合わせの食事会で、二等市民にもかかわらず一等市民のテーブルに図々しくも座り込んでいたのはこの男だけだった。

 一等市民と二等市民の間には壁がある。一等市民は本社の社員、二等市民は分社の社員。給料も職分も何もかもが違う両者間には明確な身分差が存在した。

 その気になれば、一等市民は何の瑕疵もない二等市民に何かしらの理由を付けてクビにすら出来るのだ。もちろんそれは社内の規則に沿ってであるし、人事部でもいくつもの書類を手に窓口をたらい回しにされての面倒な作業だったが。

 怒らせてはまずい相手。だが、堂本はその一等市民が集まっていたテーブルににこやかに歩み寄って見せた。


 それは打算的なものもある。

 まだ社内で働いてもいない者たち相手ならば、多少粗相をしたところで大きな問題にはならない。精々が、あとで少しだけ冷遇されるだけだ。

 だが、粗相をせずにやりすごせれば、少しでも顔が売れればその逆は正しく起こる。即ち、コネクションの作成。稀にしか起こらない、本社への栄転が叶うかもしれない。

 そんな、企みがあった。


 しかし、やはりそんなことばかりではない。

 主な理由は、少しでも仲のよい人を増やしておきたかった。知り合いが増えれば、気が合う者も見つけやすくなる。友達も増える。

 仲のいい者が多い方が、人生は楽しい。そう思ってのことだった。



 伊織は肺の中の空気を絞り出してから、新鮮な空気を吸う。空気清浄機により清潔になった空気は、なんの匂いもなく伊織の中に染みこんでいった。

「目が覚めなくてさ」

「はは、ま、俺も変わんないけどさ」

 堂本は、胸にかけた社員証を入り口横の認証機にかざす。軽い電子音の後、薄い水色の強化ガラスのドアのロックが解除された。

「なんたって、初出社だぜ。これから長い社畜人生の始まりってわけだ。そりゃ夢のほうが離しちゃくれねえ」

「俺の場合は違うけど」

 苦笑しながら伊織も社員証をかざす。薄い扉のはずなのに、押した扉がやけに重く感じた。



「今年入ったニューカマーたちだ、みんな、苛めるなよ」

 部長の声に、哄笑と拍手が飛ぶ。今年の我が第25衛生管理部に入った新入社員は六名。伊織を含めたその新入社員たちは、白衣や作業着姿の先輩に圧倒されて縮まっていた。

 ここの顔合わせも初めてではない。既に幾度か説明会で顔をあわせた者達だ。しかしそれでも慣例で、名前を順に名乗っていく。五十音順の紹介のため、伊織はトリを務めた。

「牧原伊織です。よろしくおねがいします」

 キザな挨拶など何も出来ず、ただひたすら頭を下げる。成人前に働きに出るのは古い民たちの間では派遣社員と呼ばれる市外民だけだ。今このときより社会人人生が始まった伊織には、何も器用なことは出来なかった。


 皆の紹介が終わり、先輩たちが掃けていく。

 ただ、何人かは呼び止められ、新入社員とともに残されていた。

「大野、予定通り、開発課はこの二人だ」

「わかりました」

 部長の言葉に動作では一切反応せずに、大野と呼ばれた社員はそう言葉を発する。

 そんな大野に視線を向けられた伊織と堂本は、反射的に背筋が伸びた気がした。

「自分たちの配属先はもう知っているな。そうだ、私が君たちの直属の上司ということになる。大野だ。よろしく頼む」

 その言葉に、口を挟む余裕はない。

 こちらの反応を事前に予測して、その通りに自動的に喋る機械。伊織は、そんな印象を彼に覚えた。

「よろしくお願いします!」

 堂本は明るい声で頭を下げる。伊織は一歩遅れて、それよりもやや小さめの挨拶を口にした。




 コツコツと、硬い床を踵が叩く音が響く。

「まずは案内を。事前に渡されている資料と被っていることもあるだろうが、容赦願いたい」

 長い廊下。階段いくつも下り、エレベーターを乗り継いで下る。

 外は見えないが、ここはもう地下だろう。そう二人が思うほどに、下降を繰り返していた。

「……遠いんですね」

 堂本の口からそんな感想が漏れた。伊織も内心同意する。

 もう既に、先ほどの部署があった部屋から二十分はかけて移動している。同じ会社なのに、ここまで離れているとは。

「知っての通り、開発課は衛生管理部のうち最も広い敷地が必要になっている。そういう場所の確保には、上層よりも地下のほうが都合が良い」

「タイムカードとかは、こちらで押せるんでしょうか」

「ああ。開発課の中でも違うが、君たちはさっきの事務所に行くことはそうそうないだろう。こちらに直接来てくれて構わない」

 居住区でも使われてはいるが、三人が歩いている研究棟のコンクリートの壁は殊更に音を弾く。未だに使われている蛍光灯の光が、居住区とは違って新人二人には不気味に見えた。それが『不気味』という感覚ということは、この場の誰も理解してはいなかったが。


「既にこちらの部屋にもID登録がされている。君たちのセキュリティレベルは1、それでもこの施設の八割ほどの部屋に入れるはずだ」

「俺たちもまだ入れない部屋があるんですね」

「当然だ。情報も同じように制限されている。だが、これはこの先で話すことにも重複するが、君たちには限定的にセキュリティレベル3までのアクセスも出来る権限が付与される。仕事に必要だからな」

 大野の言葉に堂本は大げさに頷く。伊織も聞いてはいたが、そこまで大きなリアクションは取れなかった。


 やがて、三人は廊下の途中で立ち止まる。すれ違う社員には頭を下げて、それから大野の言葉を待った。

 大野の視線の先には金属製の扉があり、その横に小さな認証機械が設置されていた。その認証機械の各部を指さしながら、大野は説明を加えていく。

「ここにIDカードをかざし、五秒以内にこちらの窓に目を寄せる。網膜認証だが、入社の際に登録されているから君たちも使えるだろう。髪の毛がかからないように」

 伊織たちには視線を向けず、大野は実践する。その各動作の度に、認証機械で緑色のランプが光った。

「オハヨウゴザイマス」

 その声を聞いた大野は、小さく頷き伊織たちを見た。

「その時間帯に合わせた電子音が鳴るので、五秒以内にそれに返すこと」

 説明の最中に、認証機械のランプが赤く点滅する。

「おはよう」

「オハヨウゴザイマス、キョウモゲンキニガンバリマショウ」


 また緑のランプが光る。機械の声とともに、扉がスライドする。重たい金属製の扉が三枚、異なる方向に開いていった。

 その扉に一歩入り、それから大野は二人に告げた。

「挨拶は後半部分は省略してもいい。しかし、過度の訛りは避けろ。以上、速やかに入ってくるように」

 扉が閉まる。音もなく、何事もなかったかのように。

 廊下に取り残された二人は、顔を見合わせた。


「……やるか」

「ああ」

 親切だか適当だかわからない説明に、二人は面食らう。

 だが、これはこれから毎日やる作業なのだ。真面目に確実に、二人は生体認証を済ませていった。




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