ターミナル
報告書を作成した後、重たい体を引きずり、日がまだ高いであろう時間に伊織は自分の部屋へと戻った。
扉を開く腕がやけに重たい。ろくな仕事もしておらず、疲れてなどいないはずなのに。そう伊織は自嘲した。
鞄を床に放り投げ、ネクタイを乱暴に緩める。スーツを脱いでハンガーに掛けて、自動クリーニング装置の扉の中に押し込んだ。
シワを伸ばすアイロンの音と、脱臭除菌処理の音が交互に響く。それを聞きながら、伊織はベッドに腰掛ける一連の動きからそのまま仰向けに倒れた。
つるりとした染み一つない白い天井がよく見える。
大きく息を吐けばそのままベッドに沈み込んでいく気がした。
しかし、こうしてはいられないのだ。伊織はそのベッドの誘惑から逃れるように体を反転させて横を向く。見つめる先は携帯端末。その画面には、今までリリに対して行ってきた教育実験の項目がずらりと並んでいた。
どうすればいいだろう。
まずは自分はどういうスタンスをとればいいのだろう。そうしたところから考え始める。
もちろん、最終目的はリリの生存だ。ならば、それはどのように達成すればいいのだろうか。
まず浮かんだ考えは、リリに起きた不具合を否定すること。即ち、リリがエワルドの壁に衝突していないということであれば、廃棄処分は延期されるだろう。
廃棄処分。その言葉を考えた伊織の背中が冷たくなる。だが怖がってばかりはいられない。何もしなければきっと、このままリリは処分されてしまうだろう。上層部の根拠のない恐怖によって。
しかしそれはどうすれば。
事実、既に感覚障害は起きている。命令を拒むような動作もしている。エワルドの壁に衝突したというのは、伊織すら認めてしまう事実だ。
次に浮かんだのは、リリの安全性の証明。たとえエワルドの壁に衝突していようとも、人を傷つけないのであればそれは単なるモデルケースになるだろう。むしろその場合は彼女は貴重な研究材料になることが出来る。
しかしそれも難しい。人の心が覗けないように、人工知能の考えを推測するのは難しい。特定の動作に対する反応を全てプログラミングしてある弱い人工知能ならば容易だが、思考する強い人工知能を目指して作られている彼女ならば特に。
大野も言っていたことだ。『幾万通りの要素と幾万のパターンの組み合わせによる、億を超える挙動だけを見て、その強い弱いを判断するのは普通に使用するのであれば難しい』と。
まさに、彼女の問題はそれだった。大野の言葉は弱い人工知能に関するものだったが、この場合は強い人工知能、つまりリリにも当てはまっている。そう伊織は捉えた。
目を閉じる。空調の音がやけに大きく聞こえる。
今まで行ってきた教育中に、リリがどう反応していたか。それを思い浮かべる。このままでは、報告書は本当にただのリリの実験報告書のまとめとなってしまうだろう。
危険と見なされた彼女は廃棄され、残された実験データだけが次の研究のための礎となる。
幾万の試行と幾万の失敗を繰り返し、幾万の工夫を凝らした末の閃きが、たった一つの成功を生む。研究とはそういうものだ。
今は幾万の失敗を繰り返す時期だ。じきに、きっと成功の道筋が思いもよらぬところから顔を出すのだろう。
そうは思う。
だが、その幾万と一つの試行の中に、きっとリリは埋もれていく。その事実が伊織には我慢できなかった。
では、どうすれば?
朝。最悪の目覚めが伊織を迎える。
どうやら昨日は、帰ってベッドに倒れ込んだまま寝てしまったらしい。そう自覚した伊織は天を仰いで溜め息をついた。
こんなことをしている場合ではないのに。リリの命は今危機的状況にある。今自分に出来ることは、リリの延命のために『何か』を考え出すことだけなのに。
しかしそんな強いストレスが伊織の脳を締め上げ、睡眠へと導いた。それを理解している伊織は、勢いよく水を飲んでから顔を洗った。
体が重たい。昨日にもまして、鉛でも飲んだかのような倦怠感が体を覆う。
囓るマイトキューブの味がわからない。しょっぱく、そして酸味がある気がする。鼻の奥に少しだけ伝わる肉の匂いから、きっとこれは豚の生姜焼き味だろう。
しかし、顎がなかなか動かない。
大好物のはずなのに、やっとの思いで噛み砕いたマイトキューブが喉に落ちていかない。
水で強引に流し込めば、何となく、いつものリリの食事と同じな気がした。
やっとの思いで準備を整え、家を出る。
とぼとぼと歩き続けてようやく坂道のバス停に辿り着けば、もう一日働いたような気分だ。座り込んだベンチの背もたれが頼もしい。
伊織がバス停に辿り着いたその時にちょうどバスが発車したが、慌てることはない。次が来る。
時刻表を見る必要もない。時計を見れば、次のバスの時刻の七分前。懐かしい、初日はその便に乗り遅れたのに。
「おや、あのときの兄ちゃんかい」
そんな疲れた様子で項垂れた伊織の頭上から、誰かが声をかけてくる。視界の上に映っているのは革の靴と緑の作業着。視線を上に向ければ、初出勤の日、伊織と話した老爺がニッと笑っていた。
「今日はどうしたぃ? 次のバスはまだあるじゃろうに」
「ああ、はい、それ待ちです」
老爺の気遣いに、伊織は笑って返す。その空元気を指摘もせず、老爺も応えて頷いた。
そしてポケットから紙の包みを取り出すと、それをゆっくりと広げて中身を恭しく取り出す。掌大のまん丸い煎餅が輝いて見えた。
「儂のおやつじゃが、半分やる」
「……いえ、……?」
小気味のいい音と共に、ほぼ半分割れた煎餅の醤油の香ばしい匂いが、伊織に届いた。
「ありがとうございます」
戸惑いながらも煎餅を受け取る伊織に向かい、ゆっくりと老爺は口を開く。
「老婆心……儂は男じゃが、そんなもので言うがの、なんぞ、お前さん仕事に行きたくないんじゃないか?」
「……その通りですね。でも、行かなくちゃいけないんです」
リリのことは機密事項だ。部門の違う人間にも話すことは出来ないし、そもそも専門分野でもない老爺には説明するのも難しいだろう。
伊織は何の気なしに煎餅を口にする。しょっぱい味が、唇から口内に侵入した。
頬に当たった涼しい風に飲み込む力が戻ってきたようで、噛み砕かれた煎餅はすんなりと喉の奥に落ちていく。
それから弱音の代わりに、伊織は老爺に質問を投げかけた。
「……お爺さんは、今まで仕事で嫌なこととかなかったんですか」
「そりゃあ、あったさ。人生長いんだもの」
「そういうとき、どうすればいいんでしょうか」
「酒飲んで寝る、それしかないな」
黄ばんだ歯を見せて、老爺はそう言い切る。その弱々しい体躯が、何故だか伊織にはとても頼りあるものに見えた。
「兄ちゃんは仕事で嫌なことがあったんじゃろ? でも、人生は長い。歯を食いしばって耐えなけりゃいけないときもあれば、酒を飲んでやり過ごしてよいこともある。兄ちゃんはまだ若い。まだ次がある。失敗を恐れず色々やってみぃ。事情を知らない老人の戯言じゃがな」
顔をあわせたのはまだ二回だけ。そして、今日の今まさに二回目の邂逅である老爺の言葉。その表情や言葉の機微まで読み取れるはずがない。だがその自信が満ちた言葉に、伊織は老人の長い人生を垣間見た気がした。
しかし、それでも苦笑する。顔をあわせたばかりの老爺にすら励まされている自分に。
「はは、ありがとうございます」
つまり、自分は今そんなにも限界に見えるのだ。昨日、たった一つの悪いニュースを聞いただけで。
「ほれ、来たぞ。遅れんようにな」
「ありがとうございます。それでは」
ちょうど到着したバスに、逃げ込むように乗り込み、老爺を見る。
軽快に革の鞄を持ち上げ、楽しそうな足取りで歩き出す老爺が、羨ましい気がした。
「えーと、四月二十日に歌の概念」
「歌……ああ、あの音痴のやつ」
伊織の言葉に応えて、堂本がキーボードを叩く。伊織はその軽口を咎めた。
「言ってやるなって」
伊織と堂本は、机を挟んで手元の資料の情報をすりあわせていた。基本的には、実験の度に堂本が記録を残している。日付と、その日に行った教育内容。それは伊織の手元にある情報とほぼ相違ない。二人の間での若干の表現の違いはあるものの、同じ事を記していた。
歌の概念。そう聞いて、伊織はリリの歌声を思い出す。
教えたとおりに歌うが、どこか外れている。単調なリズムが少しだけずれていた。そんな教育開始時から一時間半も経てば、リリは軽やかに童謡を歌い上げることが出来るようになっていた。
と、そんなことを思い出していても仕方がない。今はまず実験内容の総覧の作成だ。
懐かしむ表情を隠すように、伊織は手元の端末で口元を覆った。
「二十一日。粘土の造形」
「じゃがいもみたいなあれなー」
その言葉に、伊織も小さく噴き出す。課題は『ヒツジ』だったが、リリは類型にこだわるあまりジャガイモのような丸い物体を造形した。
リリの知っていたヒツジは、球体のような体にごく短い手足をつけている。
そんな光景を思い返し、そして伊織は堂本に悟られぬよう膝を叩く。
それを指摘した伊織に、わずかに唇を尖らせていた意味が今わかった。彼女は、抗議していたのだ。
「……どうした?」
様子の変わった伊織の顔を正面から覗き込むようにし、堂本は尋ねる。だがその質問に伊織は答えられなかった。
「いや。まだ続きあるんだなーって」
「ま、長えけど。あと二月分はあるし」
そう返しながらも、堂本は伊織の表情から違うものを読み取る。リリとの思い出を懐かしんでいたと察しても、それを止めることは出来なかった。
それからも、報告書の作成は続く。
教育の結果も双方記録をとっているが、やはり主観的な部分は伊織の担当だ。結果と、それに関する考察。それを時には堂本と討論を重ねながら作り上げていく。
教育にかかった時間と、向上した能力の比例関係。手法の批判や改良点の考察。そんなものの発見も交えながら。
二人ともに科学者である。報告書の作成を始めてしまえば、思うところがあっても出来る限り中立な視点で記録が進められていく。
リリの安全性をアピールしようとしても、それも出来ない。
進めていくと同時に、伊織は自らの無力さにうちひしがれた。
「じゃあ、六月の……」
続きを促す堂本の顔を伊織はじっと見る。その視線に、堂本の言葉が止まった。
「何だよ?」
両眉を上げて事情を催促する堂本に、伊織はぽつりと言った。
「……このままで、いいのかな」
「どういう意味だ?」
伊織の呟きの意味が一瞬読み取れず、堂本は眉を顰める。だが、その伊織の表情に、後悔と焦りが見えて納得した。
堂本はキーボードから手を放し、頬杖をつく。
「仕方ねえんじゃねえの。俺たちはここで嘘をつくわけにはいかない。上層部の決定に介入することは出来ない。そういうもんだろ」
科学者としても、社会人としても。そう続けたかった堂本だが、伊織はそれすらも理解しているのだろうと感じ、言わなかった。
「でも、それで被害を被るのはリリだ」
「言っちゃなんだが、実験動物と変わらない。薬品開発棟で殺処分される兎やモルモットの数に比べれば、命を奪わなくていいだけ俺たちは恵まれてんだろ」
「リリも、死ぬ」
堂本の言葉に、伊織はまた反駁する。どうしてそこを分けたのか、心底理解できずに。
「人間にとっての死が意識の永久的な消失なら、人工知能にとっての死は消去だ。このままじゃ、リリが死んで終わる」
リリはコピーすら出来ない。今までに行った教育による情報の蓄積で、彼女は形作られている。その情報まで含めてリリであるため、情報だけを切り離すことは困難だ。
今現在のエワルドの壁の原因が不明である以上、ロールバックで済ますことは出来ないし、ロールバックするためのバックアップすらとっていない。
「情が移ったってのももちろんあるだろ。でも俺は、リリを死なせたくない。お前もじゃないのか」
縋り付くように、伊織は堂本にそう尋ねる。同じ時期に入社し、同じ仕事をしてきた。ならばきっと同じ事を感じているのだろう。そう信じて。
だが、堂本ははっきりと首を横に振った。
「いいや。俺はお前とは違う。社会人として、リリを教育しろと言われればするし、消去しろと言われたらする。それが、社会人ってもんだろ」
「な、お前……!?」
明確な意見の決裂。初めてだった。正反対の意見を持つのは。
再びキーボードを叩き始め、それから伊織に目を向けず堂本は続けた。
「でも、お前の気持ちもわかる。リリを死なせたくないってのは、同意見だ」
タン、と強くキーを打ち、それきり動きを止める。その動作には、迷いがあった。
「なあ、牧原」
それから伊織の目を真っ直ぐ見つめる堂本に、伊織はたじろぐ。無意識に唾を飲み込んだ。
「お前、最悪の場合、エデンを辞める気はあるか?」
「エデンを?」
伊織はその言葉に心底戸惑う。
エデン社を辞める。つまり、市民としての権利を全て失う。リリを守りたいというのは本当だが、しかし、伊織は即答できなかった。
その動揺を見て、堂本は笑う。それだけで、空気が緩んだ。
「何でもない。早く、続きを書いちまおうぜ。考えるのはそれからだろ」
「あ、ああ」
堂本の言葉に、また伊織も続きを読み上げ始める。即答しなかったことを後悔しながら。
結局、その日は一日報告書の作成で費やされる。
家へ帰った伊織を迎えたのは、昨日と同じく、泥のような疲れだけだった。