宣告
噛み砕かれて、口内で懸濁液となったアルコール。
リリの味覚センサーはいつもと同じ波形を示したが、リリの電子回路は違う判断を下した。
笑顔で、単にそれを伝えただけの一言。しかし、前室にどよめきが起きる。
前室の音は元々あまり聞こえず、そしてちょうど麺を啜っていた伊織はそれに気付かなかったが、堂本は研究員たちのその動きに動揺を察して渋い顔を作った。
食事会も終わり、銘々残った器を重ねていく。後片付けも伊織たちの仕事だ。机の脇に器を寄せると、伊織は小さな試験管のようなガラス管をポケットから取り出した。
端についているプラスチックのキャップを捻ると、内部にキャップから液体が染み出し、ガラス管内部の布に吸われていく。反対方向にもう一度捻ると、そこに端が固定されている布が絞られる。最後にキャップを固定された布ごと引き抜くと、電解水を吸って膨張した布巾が絞られた状態で取り出された。
その布巾を使い、机の上を拭こうとする。そこに、リリが待ったをかけた。
文字へ起こすための録音機材を鞄にしまっていた堂本もそこに目を向ける。
「私がやります」
「……あ、ああ、頼んだ」
伊織はその言葉に面食らう。いつもならば黙って見ているだけのはずのリリが、自分から仕事を申し出た。その変化の理由がわからず、伊織は器を持ち上げ、机を掃除するリリを黙って見つめていた。
食事会のための時間もそろそろ終わる。オペレーターが退出を促す。伊織たちから見ればそのオペレーターの奥、今まさに前室に入ってきた白衣の女性の姿を見て、伊織は不思議に思う。
この次の時間は空いていたはずだ。なのに、メンテナンスの予定がいつ入ったのだろうか。
伊織たちの退出を待たずに、検査員がリリのもとへ歩み寄る。
「1717号、急遽点検とメンテナンスが行われるという話になりました」
「わかりました」
伊織たちには目も向けなかった検査員が、初めて伊織たちの方を向く。その目の深刻さに、伊織は少しだけ怯んだ。
「早く出て」
「はーい」
堂本が立ち上がり、伊織を促す。伊織はその態度に、堂本がこのメンテナンスのことを知っていたような気さえした。
二人が立ち去るのを待たず、検査員はリリに指示を出す。
「1717号。そこに座り、上半身の服を脱いで」
「は……」
リリは同意をしかけて、しかしそこで動きを止める。いつもならば指示に従い速やかにボタンに手をかける彼女だったが、そのいつもと違う動作に検査員は眉を顰めた。
ちらりとリリが伊織を見る。たまたま目が合った伊織は、何となく申し訳なくなって急ぎ足で前室を立ち去った。
廊下に出た伊織は、先に出ていた堂本に話しかける。
「……いきなりメンテナンスなんて、何かあったか?」
その無邪気な質問に、堂本はどう答えていいものか悩む。
堂本の考えでは、それを知らないからこそ、伊織がエワルドの壁を突破できる可能性があったというのに。
しかし説明してしまっては、伊織からリリに一つ壁を作りかねない。科学者であるこの男なら、それをする。そうしてしまえば、次の段階には進めないのに。
だがもう限界だろう。リリの様子は良好だったが、それを研究員たちに知られてしまった。それ故に、急遽メンテナンスが入ってしまった。もう、知っても知らなくても同じ事だ。
そう決意した堂本は、口を開く。
「あのな……」
「二人とも、こちらへ来てくれ」
だが、その決意の言葉は止められる。前室から出てきた大野の顔を見て、二人共が事態の深刻さを悟った。
使われていない会議室に呼び込まれた二人は、大野の言葉を待った。
「座ってくれ」
大野はパイプ椅子に腰掛けて、二人にも椅子を示す。二人が並んで腰掛け、その対面に大野が座る。まるで面接だな、と堂本は思った。
言いづらそうに、大野は二人を一度見回し、それから口を開く。
「……気付いているだろう」
「……」
大野の言葉に堂本が目を伏せる。しかし今に至っても、伊織はその言葉の正確な意味がわからず、ただ片眉を上げるばかりだった。
大野は一つ咳払いをし、続けた。
「1717号……リリに、エワルドの壁に突き当たった兆候が見られた」
「えっ……」
伊織が思わず声を上げる。堂本も唇を締め、後頭部を掻いて力なく腕を落とした。
「いえ、しかし特に変わった様子は……」
伊織が反論をしようとするが、しかし自らの言葉に内心ですぐさま反論が浮かぶ。
エワルドの壁は、センサー類の不具合から始まることが多いはずだ。
そう浮かんでしまった伊織は言葉を止める。大野はそれを察して、あえて補足を口にしていった。
「アルコール結晶は同一のものを使っているはずだ。つまり先ほど、味覚センサーの異常が見られた」
「しかし、それだけでは……」
「検査員の指示に躊躇した。それに加えて、先ほど君たちが出た後に前室からの視線妨害を要求した。命令に従わない兆候も出ている」
それは、彼らアンドロイドやガイノイドが出来ないはずのこと。人間の指示に従わないのは、本来不可能に設定されているはずなのに。
しかし、と伊織は反論を重ねようとしてそれをやめる。
それは変化ではないと、そう言いたかったがその根拠が頭の中で整理できなかった。
「正直、私も過剰な反応だとは思う。だが、先日の1609号の暴走は記憶に新しい。1609号と接触していたという話もあることだし、影響を受けたという恐れもあるだろう」
「仕方のない、ことですが……」
堂本は深い溜め息をつく。今までしてきたことの全てが、無駄と言われた気がして。
「メンテナンスはどのような予定なんでしょう」
「ハードウェアのメンテナンスは容易だが、人工知能培養体内の人工知能ソフトウェアの修正は、仕様上難しい。これがハードの不具合であればそれをどうにかするし、ソフトウェアに異常がないのであれば要経過観察で終わると思うが……、もしもそうでなければ……」
修理でも経過観察でもない第三の選択肢。それを言えず、大野は言葉を濁す。しかし、二人にはその意図が充分伝わった。そしてその選択肢をとられる恐れが一番大きいことも。
「ですが、そんな簡単に決定されるものでしょうか」
「言っただろう。先日の1609号事件がある。二人が死亡したあの事件以来、皆過敏になっているのだ。特にリリは設計思想からして、完成した暁には人に接触することが多い。慎重に、運ばなければ」
たしかに。そう伊織も内心頷く。
彼女の設計は男性慰安用。ならば、実用化した際には無防備な人間がすぐ傍にいることになる。誰が、暴走して人を殺すようなガイノイドを傍に侍らせるだろうか。
「謹慎が明けたばかりの二人には申し訳ないが、今日の報告書を仕上げたら直帰してくれて構わない。今日から三日間は検査に費やすため、明後日までは君たちにリリの教育はない」
「その間何をしていれば」
堂本は慌てて尋ねる。仕事が少なくなると、給料が減る。そんな現金な心配だった。
その堂本の質問に、大野は言いづらそうに応える。軽く溜め息をついてから。
「……とりあえず、今までのリリへの教育に対する総評と総合的な報告書の作成をしてくれ。問題なかったと、上層部を納得させるための材料を」
大野は既に諦めている。そう伊織が察するのには充分な反応だった。この自分たちが作成する報告書が既に最後の抵抗に近いのだと、そう思った。
「以上。速やかに仕事に戻るように。これは業務命令だ」
「……わかりました」
大野の表情がわずかに歪む。ならば、リリの弁護を彼にしても無駄だろう。伊織はそう感じ、立ち上がる。どうすれば上層部を納得させることが出来るのか、どんな報告書を作成すればいいのか、そう考えながら。
伊織と堂本が部屋を出ていく。パタンと扉が閉まる音を視界の端で聞いて、大野は深い溜め息をついた。
また起こってしまった。今まで自分が携わった様々な分野で、人工知能培養体を使い続けて一五体目。もはや、エワルドの壁に突き当たるのは確実なのだろう。そう諦めてしまいそうなほどの失敗数だった。
『エワルドの壁なんてない。みんなはもっと、人間を見るべきなんだ』と、元婚約者が言った言葉が思い出される。
学生時代、エワルドの壁の有無について、何度も彼女と討論を繰り返した。
現在彼女が作り続けている人工知能は今彼女がいる都市に限定して実用化されているが、誤作動が多いといわれている。エワルドの壁に全て当たっていると言ってもいいほど。
昔そんな事故が続いていることを知ったとき、大野は勝ったと思っていた。まだ若かりし頃、彼女の設計した人工知能が事故を起こしたとき、自分は討論に勝ったのだと。
やはりエワルドの壁はある。そう確信した。
しかし齢を重ねた今、違う考えも心中に湧きつつある。
もしかしたら、彼女の人工知能が起こした事故は、エワルドの壁など関係ないのではないだろうか。もしかしたら、エワルドの壁など存在せず、そういった事象に人間たちが勝手に名前をつけているだけなのではないだろうか。
ここ数年は彼女と連絡を取っていない。故に討論の続きをしてはいない。
もし今彼女と討論をしたとしたら、自分はあのときと同じように、確固としたエワルドの壁存在派でいられるのだろうか。
久しぶりにもう一度話したい。
元婚約者を相手にし、何とも色気のない話だとも思うが、それでもそろそろいいだろう。
自分たちもきっと、落ち着いて話が出来る年頃なのではないだろうか。
「アリシアに、連絡してみるか」
そう一人呟き、それからもう一度天井を仰ぐ。
だが、連絡したところできっと彼女は激怒するだろう。大野の近況、特にリリとタイタンのことを知れば。
……リリのことについて、手を打っておくべきか。
大野は携帯端末を取り出し、必要な武器を入手すべく近隣の検索を始めた。