芽生え
夜。タイタンにより半壊した研究室で、リリは一人待機していた。
ベッドに備え付けられていた無線給電のデバイスはタイタンの行動の余波で破壊されていたが、彼女はいつも通りそこで夜を過ごす。
この一週間は、一日三回アルコール結晶を摂取することにより、内燃機関で充電していた。
伊織たちが謹慎処分を受けているため彼らによる教育はないが、その他は以前と同じ反応実験やメンテナンスを受けてる日々だ。
明日、伊織と堂本の謹慎が解ける。
研究員からその情報を取得して以降、何故かリリのワーキングメモリから伊織の情報を消去することが出来なかった。
『こんなんどう? 『リリ』!』
薄暗闇の中、リリは自らのメモリに残ったその光景を思い返す。
スケッチブックに書かれた綺麗とは言えない文字。しかし伊織が懸命に考えて、不安そうに示されたその名前を、今自分はとても好ましいと感じている。
スケッチブックの上から、機嫌を窺うように自分の返答を待っているその顔を思い出すと、何故だか胸部の電子回路の動作速度が落ちた。恒温装置が自動的に動作を緩め、人工表皮の柔らかさを保つために全身を巡るオイルの動作もゆっくりとなる。ポンプの無駄な動きがなくなり、スムーズに液体が身体を駆け巡るのを感じた。
彼の情報をワーキングメモリに取り出すと、身体のセルフメンテナンスになる。そうした理由をつけて、リリはそれを続けた。
避難命令が出ている中、伊織はリリのもとに駆けつけた。結果的に杞憂で終わったその行為だったが、リリのメモリにその駆けつけてきた伊織の姿はしっかりと残っている。
しかしそのときは、伊織の姿を確認してリリのオイルポンプは跳ねたように力強く動いた。
今でも思い返すと電子回路は動作速度を速め、体温も上昇する。しかし何故かそれを、リリは心地よいとも感じていた。
その光景の映像の再生は続く。
タイタンに向かい、下がれと命令した伊織。しかしタイタンはその命令に背き、伊織に声をかけた。『おじゃましました』と一言だけ。
そしてたまたま壁に腕が衝突して、天井を揺らし、そして伊織がこちらに向かって走って……。
リリの脳内映像がそこで止まる。
リリ自身、何故かはわからないが、その先を見たくはなかった。何が起きたのかは知っているし、結果も知っている。それでもなお。
映像をシークし、その見たくない場面を飛ばす。見たくなかったのは、伊織の頭に蛍光灯が直撃する場面だ。その後、血に濡れた後頭部を見た後、……。
リリはまた映像を止める。今度は見たくないからではない。単純に気になったのだ。
その時に、自分の集積回路は自分の制御を外れた気がする。
それまでタイタンが使っていた電波通信の回路をハックし、油圧ポンプを暴走させた。
何故自分はそんなことをしたのだろう。もしかしたら自分も壊れているのだろうか。
そう、胸の何処かに不具合ともいうべき信号が走った気がする。
しかし、そうではないとも思える。
根拠は不確かだが、自分は壊れていないのだろう。
タイタンは最後に言っていた。
『よかった きみも ぼくも こわれていなかったみたい』と、笑いながらそうたしかに言った。
あれはどういう意味なのだろうか? 壊れていないのであれば、タイタンは何故破壊活動を行ったのだろうか。何故自分は、タイタンの作業腕を破壊したのだろうか。
誰かに聞けばこの疑問が解消されるのだろうか。
リリはそう悩む。しかし何故か、その『誰か』の名簿に伊織が載ることはなかった。それ以上に、誰が載ることもなかった。元々載らなかった伊織の他、リストアップされた研究員たちの名前も次々に削除されていったからだ。
名簿を消去した理由はリリにもわからない。だがきっと、誰にも話したくないと自分は思っていると、そう正しく結論づけた。
リリは部屋の電灯をつける。今からする行動は暗がりでは出来ない。
本棚に歩み寄ると、いくつもの本が目に留まる。見栄えを整えるためだけに研究員が揃えていったものではあるが、中にはきちんと内容がある。
だがその中で、リリが選んだのは最後に伊織たちと一緒に読み進めた小説だった。
最近多発している自分の、自分にとっての誤作動。
その答えが書いてある気がして、リリは初めて自分から本を手に取り、ゆっくりとページを開いた。