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『会社を出たユウイチは、駅に向かう道を歩き始めた。

 既に日が傾いている中、通り過ぎようとした公園から聞こえてくる子供たちの元気な声に何となく気分も上がる。転がってきたサッカーボールを咄嗟に足で受け止め、そちらを見た。

 すると、示し合わせたかのように子供たちもユウイチを見た。

 そのボールが無事に帰ってくるかと心配して、全員が一瞬動きを止める。それを見て取ったユウイチは口角を上げ、サッカーボールをその場で顔の高さまで蹴り上げた。……』




 文庫本を朗読するリリは、そこまで読み上げて声を止める。それから目の前にいる伊織の目を見つめ、首を傾げた。

「この主人公の動作はどういう意味なのでしょう? ユウイチは何故笑ってからボールを蹴ったのですか?」

「……それはその後の動作に繋がっているんだよ。ちょっと読んでみて」

 リリは言われたとおり、その後の行に目を走らせる。その先では、ユウイチは蹴り上げたボールを首の後ろに乗せてから、両手でキャッチしていた。

「『……子供たちの目が輝きを増す。初歩的なリフティングではあるが、それは経験の浅い子供たちには一見してわからない』……ここでしょうか?」

「うん。ごく簡単に言えば、子供たちの羨望の目を予想して得意げに……先に喜んだんだよ」

「理解しました」

 リリは頷いて朗読を再開する。その声は蠱惑的で、声音も声調も、そう作られているからとはいえ伊織たちも聞き惚れるほどだった。



 今日のリリの教育は、大野の指示による食事のための前準備だった。

 未だ経口でエネルギーに変換できるのは、アルコールの結晶のみ。だがその食べ方一つとっても、人とともに食事をして違和感を持たせないためには覚えておくべきことが多い。

 アルコール結晶はどの性状になるまで咀嚼するのが一番効率が良いのかという技術的側面や、表情や仕草のタイミングなどのコミュニケーション的な側面。

 技術的な側面は、味覚センサーによる測定を繰り返せばどうにかなる。

 しかし、それ以上に時間がかかるであろう教育項目。まだ食事を単なるエネルギー補給と理解しているリリにはわからない食事というものの文化的側面。それを教育するためのものだった。


 実験室から出して食堂で実地研修させるという提案も堂本から出たが、それは大野に却下された。一応機密レベルの高い技術が使われているリリを衆目に晒すことは出来ないというもっともらしい理由だ。

 その代わりに大野から提案されたのが、二十一世紀に書かれた小説の朗読である。

 小説の食事シーンを読み、伊織たちが解説する。それにより、食事の雰囲気を掴むというものだ。



 この後、食事映像の閲覧や実習なども検討されてはいるが、伊織は首を傾げていた。

 小説の朗読。この教育は、必要なものだろうか?

 違和感のない食事姿の教育はたしかに必要だろう。先日の内燃機関実装時の様子を見れば、アルコール結晶を囓る姿はまさしくエネルギー補給のためだけであり、人と食卓を共にして違和感のない動作が出来るはずもないように思えた。

 しかし、文化的な側面? そこに伊織は引っかかった。

 人にとっての食事がどういうものか。そういったものは、それこそ知識だけで済むものだ。アルコール結晶しか食せない彼女らにとっては献立もなく、好みも何もない。

 

 無意味なことだとは言わない。

 だが、大野がわざわざこの教育方法を指定した意味。それを伊織は図りかねていた。


 本の選考は堂本だ。彼に関しては大野の意図をある程度汲んだ選考ではあるが、伊織の困惑も考えてその理由を心の中だけに留めていた。



 朗読は進む。物語自体は少しだけ複雑なものだが、読ませる予定の部分は単純なものだった。

 とある会社員が仕事を終えて帰宅し、パートナーの用意した温かい食事に舌鼓を打つ。ただそれだけの場面。

 だが、食事シーンだけでは二人の関係性がわからない。そのために、冒頭の食事シーンまでを頭から読み進めていた。



『……ふと甘い香りがユウイチの鼻に触れる。吸い込んだその匂いにとある思い出を惹起された彼は、その香りの出所に顔を向ける。

 目に飛び込んできたのは、燃えるように赤い花。

 それを見て、ユウイチは懐かしむように目を細める。これは、今家で待つヒカルに同棲を申し込んだときにユウイチが携えていた花だ。

 そういえば、そろそろ一年が経つ。ならば、サプライズとして二人の思い出の花を贈ってもいいだろう。……』



「何故、花を贈るんですか? 以前の出来事を思い出させるためでしたら、言葉での惹起で十分ではないでしょうか」

 リリは顔を上げる。わずかに眉根を寄せながら。

 伊織は少し嬉しくなる。その質問にではなく、そのリリの態度に。


 いつもの実験よりも質問が多い。実際には今の時代には不可思議なことが多いために増えているだけだろうが、それでもいつもよりも関心を持ってくれている気がして、伊織の頬も少しだけ緩んだ。

「牧原研究員?」

「あ、ああ、ごめん。僕にもよくわからないんだけど、当時は何かの記念に花を贈る文化があったらしい。嬉しいことや悲しいことがあったときに」

「それは何故でしょう?」


 質問すること自体は嬉しい。だが、重ねて尋ねられて伊織も困る。伊織の知識では、葬儀や開店祝いなどを除き、個人で花を贈るのは一般的には男性から女性に向けてだった。その男性から女性に向けて贈る理由も定かではなく、『女性が喜ぶから』というものだったと記憶している。

 しかしそれをそのまま答えれば、次に飛んでくる質問は明白だ。

 『何故女性が喜ぶのか』という質問は、この時代にはない文化であるため誰にも理解できないし、男性である伊織には殊更に理解できないものだ。



 一瞬動きを止めた伊織。だが、そこに思わぬ救いの手が入る。

「……対集団では『そういうものだから』ってのが正しい理由だな。文化史的にも、何も教わっていない動物も、……たとえば過去にアフリカ大陸と呼ばれていた大陸に住んでいたゾウも、仲間の死体に花を手向けることがあったって話もある。でも男性から贈る場合は明確な理由があるんだ」

「それはどういったものでしょうか」

 珍しく、堂本が口出しをする。その奇妙な光景に目を丸くした伊織を無視して、堂本は手元のパソコンから目を離さずキーボードを鳴らしながら答えた。

「昔、ある国で男性が女性の家に向かうときに、道中花を摘みながら束にしていったらしい。『こんなに綺麗なものがあった』っていう喜びを共有しようと、女性に見せるために」

「しかし、この場合は当てはまりません」

「そうだな。で、その時に男性が女性にプロポーズし、それを了承されたって話。それを他の男たちが真似しているうちに、そこからまたプロポーズの部分が消えて、『男性が好きな人に花を贈る』という行為だけが残った」

 タン、と最後に勢いよくキーを押し、そこで初めて堂本は画面から目を離した。ただし視線はリリではなく、伊織を向いていたが。

 

「お前、女性に花とか贈ったことある?」

「あるわけないだろ」

 からかいのような口調で尋ねられた伊織は、ムッとした顔でそれに返す。堂本も伊織の反応を見て、ニコリと笑った。

「だよな。あんな古くさい習慣」

 

 単なる世間話のように消えていった話題に、伊織も少しだけ笑う。

 緩んだ空気。だが、リリは無表情で佇んでいた。


「って、こんな話してる場合じゃないんだよな」

 伊織は、視線で話題の中にリリを引き戻す。先ほどのリリの質問に関してだ。

 そうしてふと思いつく。堂本は、ヒントを出してくれていたのだ。

 リリに向き直りつつ、伊織は話題を頭の中で整理した。


「……物を贈るのは、親愛の表現なんだ。生存競争が激しかった太古の時代では食物を。食物が満ち足りたその時代では、綺麗さとかそういうのに重点が置かれていた……んじゃないかな。そしてその選定基準に、たまたま以前の思い出の花を使った」

 後半は自信なさげに声が小さくなる。仕方ないと、伊織自身も思う。伊織も明確な答えを持っていないのだ。

「言葉ではいけないでしょうか」

「そうだね。言葉だけでもいいのかもしれないけれど、言葉と物は別のものだから、二つ合わせるとより確実になるんだと思う」

「一種のリスクの分散ということですね。理解しました」

 素っ気なく言い切り、リリはまた小説に目を戻す。

「……それが適切な表現……かな?」

 伊織は自信なく言葉を濁した。握手などと違い、既に消え去った分野の話は民俗学者の領分であると、伊織はつくづく思った。



『愛するヒカルの驚く顔を想像しながら、ユウイチは鍵を回して玄関の扉を開く。温かな空気が顔に触れ、いつもの室内の光景が包み込むようにユウイチを迎えた。

「ただいま」

 挨拶をしながら革靴を脱ぐ。ユウイチは、この開放感はまるで一日履いたスキーブーツを脱ぐことに似ていると毎度思っていた。

 パタパタというスリッパの音と、少しうわずったヒカルの声が耳に飛び込んでくる。

「お帰りなさい。早かったんだ」

「ああ」

 顔を上げれば、ヒカルの笑顔が視界に映る。その笑顔は、ユウイチの持つ花束にも注がれているように見えた。

 ガサリと音を立てて花束を差し出せば、その笑顔に花がくすんだ気さえした。

「これ、同棲一周年記念のお祝い。いつもありがとう」

「……えー? えぇー!?」

 意味のない言葉の羅列による喜び。ヒカルはいつもそうだとユウイチも微笑んだ。

「あ、ありがとう」

 赤らんだ頬も愛おしい。このまま抱き締めたい。そんな思いも表に出さぬよう、ユウイチは玄関から居間へ向かう。

 その後ろ姿にヒカルは声をかけた。慌てて、花を抱き締めたまま。

「そ、そう、で、ごめん。今日早かったけど、どうする? ご飯にする? 先にお風呂にする?」

「……どっちにしようかな」

 ユウイチは振り返り、そして溜め息をつく。その選択肢は、二択しかないのだろうか。いいや、そんなことはないはずだ。

 可憐な花に彩られたヒカル。ご飯とお風呂と、そのどちらでもない選択肢がもう一つあるのではないだろうか。

 ユウイチは一歩歩み寄る。壁際に追い詰めるように、壁を背にしたヒカルの顔の横に手をついた。

「それはもちろん……」……』



 リリは言葉を止めて、伊織を見る。

「ここで何故ユウイチはお風呂を選ばなかったのでしょう? ユウイチは数時間の労働の後であり、この後の肉体的接触を考えれば、先に肉体を清潔にするのが先決ではないでしょうか」

「ああ、それはね……ちょっと答える前に時間をもらってもいいかな?」

「??」

 伊織は立ち上がり、堂本の肩に手をかけてリリに背を向けた。

 小声で、伊織は堂本に抗議する。


「お前、なんでこの小説選んだんだよ! 食事になかなか入んねえじゃねえか!」

「先に確認しなかったお前のミスだろ。俺、お前に何度か『これでいいか?』って確認したぞ」

「お前が開いて見せたの食事だけで何の問題もないページじゃん!!」

 堂本の反論に、伊織も反駁する。だが、この場では堂本に分があると、双方思っていた。堂本は言葉通り何度も確認したし、その本の違うページを開いて確認することも伊織には出来たはずなのに。

 実際には、伊織も違うページを確認してはいる。だが、その内容をきちんと把握しているわけでもなかったのが今回の問題の原因だ。

 意図的に食事前のシーンを見せないように誘導したのも、堂本なのだが。


 伊織は堂本の肩を掴んだまま、リリに目を戻す。

 純真無垢な目に、伊織は怯んだ。


「……口唇がふれあう程度だったら問題ないと判断したんだと思う」

 辿々しく、伊織はそう解説する。堂本が目を逸らして半笑いで溜め息をつくが、それに少しだけ苛立ちながら。

「理解しました。程度の問題ですね」

 後で少し話をしなければ。そういう意味を込めた視線を堂本に向けると、堂本はいよいよ笑顔になる。その堂本の笑顔の意図は理解できなかったが、伊織はそれをまたろくでもないことだと判断し、椅子に戻った。

 その伊織に向けて、リリは質問を重ねる。

「でしたら、こちらは何故でしょうか。食事か体表洗浄かを選ばせた意図は、ヒカルは肉体的な接触を視野に入れていると判断してもよろしいですか?」

「そっちは単なる慣用表現に近いと思うよ。大戦以前のその時代では、家事を行う人とコイン……今でいうポイントを手に入れる人とで分担していることがよくあったらしい。で、ポイントを稼いできたパートナーを出迎えるときに、そう言っていた文化圏があったとか」

「ヒカルには、なんの意図もないということでしょうか」

「まあ、愛情表現ではあるんだろうね。献身的な愛というか、そういうものを自分は行っているという証明に近い」


 伊織は、何の話をしているかわからなくなっていた。

 これは食事の教育のはずだ。なのに、どうして自分は前時代の恋愛小説の解説などをしているのだろう。

 というよりも、早く食事のシーンまで飛ばしてほしい。

 伊織は堂本を睨む。その反応が堂本にとっては予想の範囲内だったので、堂本は笑顔を強めて受け流した。


「……愛という概念についてもよくわかりませんが……」

 リリはそんな伊織の様子を見て、やや堂本の側に身を寄せながら伊織に話しかける。その動作の理由はリリにもわからなかったが、堂本は、それを微笑ましいと感じていた。

「同性同士の生殖が実用化されたのは、大戦中。この時代では男性同士の生殖は出来ないと記憶していましたが、それでも番いになることは出来たのですね」

 たしかにその通りだ。そしてこの時代(二十二世紀)にも、同性同士の子供は一般的ではない。それよりも孤児などを引き取った方が簡便だからだ。

 だがそれを説明するのにはどこから説明しなければいけないのだろうか。

 伊織は悩む。一瞬だがいくつもの道筋を思い浮かべ、……。

「堂本ぉぉ!!」


 行き詰まった伊織は、今度は小声で隠すこともなく叫んだ。




 その時、予期せぬ音が鳴る。

 スピーカーから鳴り響くサイレン。それに伴い、外では叫ぶように飛ばされる機械音での指示。緊迫していた、しかし何処か緊張感のなかった実験室の中が、緊張で引き締まる。

 室内の三人が、揃って前室のオペレーターに目を向けた。機械音での指示は実験室までは届いておらず、三人は事態を把握出来ていなかった。

 オペレーターも驚きながら、コンソール脇の画面を見つめる。真っ青に染まったその画面の中で、大きな赤い文字が点滅しつつ危険を伝えていた。

 慌ててその文字を読み上げる。マイクのフットスイッチを乱暴に踏みながら、マイクに口を近づけた。 

「緊急警報! 避難コード三番に従って、堂本研究員並びに牧原研究員は1717号をシェルターに格納しつつ避難して!」


 何が起こっているのかわからない。

 しかし、伊織と堂本は立ち上がり、その指示に従うべく速やかに行動を始めた。





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