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92話

田中が出て来るまで少し駆け足で。

 呉の城の門前に出迎える影が見える。

 項梁である。

 召平が想像していた姿とは違い、やや小柄で楚人にもかかわらず雅で落ち着いた智者の風を纏っている。


 ――項梁か。門外まで出迎えるということは張楚に対し悪感情は持っていまい。


 召平を慇懃に城内へと案内した項梁は一通りの礼を交わし、早速に問う。


「使者殿、陳王の勅命とは」


 召平はいきなり本題に入った項梁にやや失望した。


 ――呉までの長旅を労う言葉もなしか。名族で上品に見えてもやはり中央の雅味を知らぬ粗野な男か。いや、むしろその方が与しやすい。


 項梁の故意に見せた隙にそう考え、召平は心を緩めた。


「張楚の躍進はご存じのはず、秦を討ち滅ぼすまであと一歩と迫っております。しかしてそのあと一歩が存外遠く、陳王様は憂慮されておられます。そこで私がある案を上奏し、陳王様はそれをお赦しになられました」


 召平は妄言(もうげん)を吐いたが、項梁はまだ陳王が敗走しどこかへ逃れたことを知らないはずである。


「ほう、してその上奏とは」


「江南の地を見事に治め亡楚の英雄、項燕将軍の子である項梁殿へ上柱国(じょうちゅうこく)の爵位を授けて招き、共に秦を討ち滅ぼす」


「私を上柱国に」


 項梁の目が大きく開かれる。


 虚言は真言にすればよい。

 陳王も今の劣勢の中、項梁を引き入れてくれば喜んで楚における軍事の最高位を授けるだろう。

 上柱国の名にはさすがに心を揺さぶられたようだ。


「楚は家柄を重んじる国でありました。項梁殿ならば上柱国の爵位も名、そして実力共に申し分ありますまい。急ぎ兵を率いて陳王へ拝謁なさいませ」


「至極名誉なことなれど項家の大事。暫し時を頂き、一族と話し合いたい。使者殿も呉までの長旅でお疲れでしょう。南の酒と肉は口には合わぬかもしれませんがご用意しておりますゆえ、どうかお寛ぎ下され」


 このまま畳み掛け色好い返事を引き出したかったが、流転の日々と江水の渡河、呉までの長旅で貧しい食にしかありつけなかったこともあり、召平は項梁が席を外すことに異を唱えなかった。



 陳勝がすでにこの世を去っていることを知らぬ二人の駆け引きは一時中断された。


 ◇◇◇


「援軍に向かえば上柱国を授けるそうだ」


 項羽、項伯が控える別室に戻った項梁は無表情に告げる。


「ほう、それは大層な栄誉ですな」


 項伯が冷笑で皮肉を、


「自称の、しかも楚の紛い物のような国の上柱国という位に意味がありましょうか。爵位を受ければ陳勝の下に付くということになる」


 項羽が否定を口にする。


「うむ。お主達の言うことは尤もだが、わしは受けようと思う」


「ほほう」


「叔父上!」


 二人の反応を手を広げて制し、項梁は理由を語る。


()の言う紛い物というのもわかるが、それでも民草の間で張楚の評価は、秦に対抗している最大の勢力となっておる。その評と兵の数は利用できる」


 項梁は一つ指を折る。


「しかし恐らくそれだけの数をもってしても苦戦しているのだろう。使者は秦を滅ぼすまであと一歩と申したがな。でなければ項家とはいえ新参の私に上柱国なぞ授けまい。ここで参陣して恩を売れば我らの権威は王も無視できぬ大きなものとなろう」


 二つ目の指を折る。


「そして項氏のわしが上柱国となれば正統性が増す。張楚はやはり楚の後継であると。それにより傘下に入る者はさらに増える」


 三つ目を折り、そして拳をつくる。


「あの使者がどこまで真実を語っているのかはわからぬが、わしはこれを兆しと見た。煩わしくなれば紛い物の(かん)などいつでも捨て、真の楚冠(そかん)を被り直せばよい。この機に江水を渡り仇敵秦を討つ」


 項梁の言葉を聞き、二人は居住まいを正す。


「いよいよか……、待ちかねましたぞ叔父上!」


 項羽は精気を漲らせ獰猛に笑う。


「項家の長の言葉に異はございませぬ」


 ゆったりと笑う項伯は項家の長に向かって拱手(きょうしゅ)した。


 ◇◇◇


 久しぶりの酒肉に酔った召平に、項梁は微笑みを見せて言う。


「江水を渡り陳王の元へ馳せ参じましょう」


 項梁の返答に召平は喜色を露わにする。


「おお、おお! よくぞ!」


 項梁は一つ頷き、


「準備が出来次第、出師(すいし)いたします。使者殿はそれまでどうかこの城でお寛ぎを」


 召平は項梁の手を取り、謝意を表す。


「使者としての役目を果たせ、肩の荷が下りました。ご英断感謝いたしますぞ」


 騙しきった喜びを使者の責務と誤魔化し、笑う召平を見ながら項梁ははるか先を見据える。


 自身が楚王となるか。それとも亡楚の王族を探し出し、玉座へ座らせた方が善いのか。


 ――その決断をする時、己の野心で智が曇りはしないか。


 ――智者が欲しい。広く物事を見、深く語り合える智者が。




 数日後、上柱国の印綬を身に付けた項梁の軍は華々しく呉の市中を行進し、北へと向け出発した。


 江水という大河を持ち前の統率力で事前に手配した大船団で堂々と渡る船上、項梁は遠くなる江南の大地を眺める。


 ――あの暑く湿った南の地をもう一度踏むことがあろうか。


 生来、暗さを持つ項梁は首を振って感傷を江水に投げ捨て、強い風の中自身とは対照的に率直な感情を表す甥の項羽を見詰めた。


 ――それがあれのよさでもある。


 そしてまだ見えぬ対岸に視線を移した。


 ◇◇◇


 江水を渡った項梁軍が北上を始めた。

 その噂は駆け巡り、即座に反応したのは広陵の西に位置する大県、東陽(とうよう)を纏めていた陳嬰(ちんえい)で、二万の兵を率いて合流を願い出た。


 陳嬰は絶大な人望の持ち主で、東陽が秦に対して反乱を起こしたのを機に長へ推されると、近隣の若者はこぞって陳嬰の下に集まった。

 さらに群衆は陳嬰を王へと推戴(すいたい)しようとしたが、陳嬰は母の(いまし)めを守り、信用に足る英雄に従属する、と決して首を縦には振らなかった。


「母への孝、己の器を見極める沈着さ。信頼できる男のようだ」


 項梁は従属の意向を伝えに来た使者から、陳嬰の人となりを聞き、この軍を快く迎え入れた。



 ここで項梁は陳嬰から不穏な伝聞を耳にする。



『陳が陥落し、退いた陳王の行方は知れず』



「ここは陳から遠く、不確かな伝聞です。淮水(わいすい)を越えれば確かなことが分かりましょう」


 項梁は陳嬰の言葉に頷き、大小の集団を吸収しながら北上を続けた。



 淮水を渡った頃、陳勝の消息を知る者が軍を率いて馳せ参じた。


 その男の顔には入れ墨があり、囚人であったことが分かる。

 分かりやすく粗野で暴力的な雰囲気を纏い、軍を率いる将というより賊を纏める親玉といった風であった。

 男は自らを黥布(げいふ)と名乗った。


 項梁はそれに面白味を感じ、その男を観察し語り合う。


 (げい)とは入れ墨のことであり、一目で罪人と分かるように処される刑罰の一つである。


 黥布の本名は英布(えいふ)と言い、罪を犯して黥を入れられ囚人となった時、仲間から黥布と呼ばれだした。


「わしは若い頃、人相見(にんそうみ)に刑罰を受けるが王になると言われた。この黥がそれだろう」


 そう言って笑い、英布は怒るどころか気に入って自ら黥布を名乗り出したと言う。


 その後仲間と共に脱走し盗賊となっていたが、陳勝の蜂起(ほうき)を機に番君(はくん)と呼ばれる番陽(はよう)の県令呉芮(ごぜい)の下に付きその独立と勢力拡大を助けた。


 番君は黥布に並々ならぬ将器を感じ、娘を娶らせこの悍馬(かんば)を御そうとしたが叶わなかった。

 黥布は彼自身の理念で行動し、項梁北上の噂を聞くと遂に番君の手綱を振りほどき、項梁の下へとやって来たのだった。



「陳勝は逃げる際中、己の御者の荘賈(そうか)に殺されました」


 黥布は陳勝の最期を語った。

 そして怒涛の勢いで巻き返す秦軍の帥将が章邯(しょうかん)という男であり、すでに陳を離れ北へ向かったと言う。


「あれにはわしだけでは敵わんでしょう」


 章邯の居らぬ陳を攻め落としたが、守るには兵が不足と判断し陳勝の遺臣に任せ、陳を後にしたという。


 ――荒々しく豪快な男に見えるが語る言葉は鋭く、蛮勇だけの男ではない。


 黥布と語らった項梁はそう感じ取り、従属を許した。



 そして項梁は陳勝の死をさして驚かず受け止め、むしろ気が晴れた。


 ――何処の輩と知れぬ者に頭を下げずに済んだか。これで亡楚の復興の主催者はわしとなった。


「最早陳に向かう意味はない。西へは行かず兵の増強を図りながら北へ向かう」


 こうして項梁の軍は膨張しながら北上を続け、下邳(かひ)に腰を落ち着ける頃には七万に届く大軍となっていた。


 項梁が下邳で大勢力となった兵を纏め、飢えさせぬよう苦慮し食糧豊かな地を探していると、新たな伝聞が流れてきた。




 下邳から西、泗水の側の(りゅう)に楚王を名乗る者がいるらしい。



「それは誰か。名は。真に王の血を引く者なのか。王としての器は」


 項梁は険しく眉をひそめ、報告する配下に矢継ぎ早に詰め寄る。


「それが王の名までは……。秦嘉(しんか)という男を中心として奉戴(ほうたい)され、広く兵を集めているとしか……」


 ――先を越されたかもしれん。


「見極めなければならん……」


「ならば私が見て参りましょう。楚王を名乗る大胆な者、直に見たい」


 珍しく焦りを見せる叔父に項羽が進み出た。


「……羽よ。いきなり矛を向ける訳にはいかんのだぞ。先ずは本物か名を騙る偽者か調べねばならん」


「わかっております。先ずは少数で募兵に紛れて偵察して参ります」


 項梁は暫く考えた後、項羽に告げる。


「……よかろう。独断先行に気を付けよ。正体が分かればすぐに戻れ」


「叔父上は心配性ですな。この項羽、千人に追われようと逃げ切ってみせましょう」


「その前に……」


 逃げるような事態になるなと言葉を続けたかったが、項羽はすでに部屋を出ていってしまった。

楚冠 (そかん)

楚の民は飾りを好み、派手好きと言われていた。その冠も中原の物と比べて独特な装飾で飾られていた。


悍馬 (かんば)

気が荒いが逞しく生気のある馬。暴れ馬


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