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88話

 武臣(ぶしん)率いる張楚の軍は(ちん)から北へ向かった。

 武臣を帥将とし、副将が邵騒(しょうそう)校尉(こうい)張耳(ちょうじ)陳余(ちんよ)、その他にも幾人かの将を連れ河水(かすい)を渡り、旧(ちょう)の地邯鄲(かんたん)郡へ(おもむ)いた。


 ここで武臣は無理に戦いを仕掛けることはせず、各県に向けて声明を表した。


悪政虐刑(あくせいぎゃくけい)の秦に代わり張楚(ちょうそ)が正義を唱える。楚の地では皆が立ち新たな王が生まれた。趙も立って(しいた)げられた怨みを晴らし、祖国の無念を(ぬぐ)うのだ」


 未だ大きな反乱の起きていなかった邯鄲郡に武臣の声が響く。

 沸き立つ泡のように(こころざし)や野心を持つ者が立ち上がり、次々に秦に反旗を(ひるがえ)した。


「上手くいったな陳さん」


「与えられた兵は少なく、張さんが県令をしていた外黄(がいこう)など道中で集めても万に届くかどうか。とてもではないが趙全てを得るには足りぬ。こうして戦わずして勝つのが最速、最善でしょう」


 門が開き、軍を迎え入れる人々を見ながら張耳と陳余は語り合う。

 反旗を促す喧伝を行うべしと武臣に献策したのは二人であった。


「武一辺倒の武臣殿には思いもしない策であったろう」


 張耳は得意顔で語る。


 こうして武臣は戦らしい戦もせず城を次々に落とし、その数は十を数え、数千であった兵数も万を超えた。


 しかし素直に門を開く城ばかりではない。

 武臣は堪え性がないのか、切り替えが早いのか、容易く落ちない城は早々に諦め、落とせそうな城へと移動し無理ならまた別の城へ、と転戦を繰り返した。


 各地で流民や降った秦兵などを吸収しながらも腰の座らぬ戦いを続け、武臣達は趙の首都があった邯鄲郡から遠く北東にある広陽(こうよう)郡の范陽(はんよう)まで達した。

 すでに旧趙の領地を抜け、旧(えん)の地である。


 范陽は武臣軍の噂を聞き籠城に備えており、徹底抗戦の構えを見せている。


 固く閉じた門に攻めあぐね、武臣はここ范陽も諦め、また別の城へ移ろうとしていた。



 その時、一人の鬼才が軍を訪れる。



 その男は小柄な体格にも関わらず、背筋を伸ばし胸を張る姿は自信に満ち溢れ、大きく開いた目はギラギラと光っている。


 男は武臣ら主だった者の前に立つと、物怖じも見せず鷹揚おうように胸の前で手を組み頭を下げた。


「私の名は蒯通(かいつう)と申します。ここ范陽に住む者でありますが、武臣殿の軍に参加したく。その手土産に一兵も損なわずこの范陽を降してみせましょう」


 大言(たいげん)を吐く蒯通に武臣は問う。


「范陽の県令は門を閉ざして守りを固めている。どうするのか」


 蒯通は一つ咳を払うと、小顔に似合わぬ長い舌を縦横無尽に動かす。


「さて、武臣殿はここまで無用な戦いを避け、楚の地の蜂起を喧伝し、趙や燕の民に秦の支配の縄を引きちぎることを促し、その城を下すこと十城、先ずは見事な方策」


 武臣の隣で聞く張耳が胸を張る。


「しかし見事ではあるが、その策()りに不足あり」


「なに」


 蒯通の続く言葉に張耳の眉間に皺が寄る。


「蜂起の声は民や秦の兵卒に向けたもの。それを治める県令や郡主など民を治める者にとっては(かえ)って脅威の言葉。敗れればその首を(かか)げられ、旗と共に振られると怯えておりましょう」


 陳余の目元もピクリと動く。


「実際に十の城の県令、官吏は誅殺され、降伏しても助からぬとここ范陽の県令も民を必死に抑えて抗戦しております」


「ふむ、なるほど。ではどうするか」


 張耳と陳余の態度をよそに武臣は(しか)りと髯を撫でる。


「私を使者として県令を赦し印授を授け、爵位を与え地位を約束すれば、その伝聞は万里を駆け、数多の城がこぞって降って来ましょう」


 爵位を与えることができるのは王のみである。武臣は蒯通の弁に驚き、戸惑うが胸中の野心が疼く。


「わしが爵位を与えることは越権行為であるが……」


 迷いを帯びた武臣の言葉では蒯通の舌は止まらない。


「戦は非常時。逐一王にお伺いを立てねば進まぬなら時を逸しますぞ。現地の将が王に等しい権威を持たねば打倒秦など叶いますまい。武臣殿はすでに民草の間では武信君(ぶしんくん)と呼ばれ、(こう)として称えられております」


「武信君……」


「武信君よ。陳の地に()張楚(ちょうそ)王も民に推されて王に就かれた。武信君が民に推されて侯を称するのを誰が止められましょう」


 武臣は蒯通の心地好い声に(ひた)りそうになりながらも、


余人よじん(はか)る。暫し待て」


 そう応え、蒯通を一度下がらせた。


 ◇


「蒯通の言、いかに思うか」


 武臣は張耳や陳余、邵騒などを近づけ先程の蒯通の案について賛否を問う。


「どこの誰かも分からぬ者を信用し、しかも爵位の授与などと。例え侯であっても許されませぬ。陳にその報が届けば罰せられるどころか首が飛びますぞ」


 張耳は自身の策略にケチを付けられたのが気に入らないのか、頭から否定する。しかし、


「私は使者をやらせてみてもよいと思います」


「陳さん?!」


 しかし同じく否定すると思われた陳余から出た言葉に張耳は驚く。


「蒯通の弁、いちいち(もっと)も。我らの計は詰めが甘かった。それに彼の者を城へ送り込み、成功すれば善し。説得に失敗して捕らえられようと、斬られようとこちらの懐は痛まん」


 陳余の判断に張耳は歯噛みをし、別の部分を指摘をする。


「それはそうだが……。爵位の授与は、越権行為はどうなる」


「張さん、それこそ蒯通の言う通り。いちいち陳まで判断を仰いでいれば時を逸する。事後、承認を求めればよろしいでしょう」


 陳余はそう言い、張耳にしか分からぬように目配せをする。

 張耳もそれに気付き、それ以上の抗弁は収めた。


「ふむ、陳余の弁に異存あるか」


 それ以上誰も発言する者はいない。

 武臣は周りを見回し沈黙を賛同と捉え、


「蒯通を使者として遣わす。そして印授に信憑性と効力を持たせるため、わしは正式に武信君を名乗る」


 正式も何も自称であることは変わりない。

 それを言えば陳勝の王も自称となり、全てが妄言の世界となる。

 しかしそれを力で現実のものとしたのだ。

 自分も力を得て武信君を名乗る。


 武信君は己の野心が大きく膨れていくのを自覚しながら、蒯通を呼んだ。



 蒯通と武信が降伏の条件などを詰めている中、張耳が陳余に話し掛ける。


「陳さん」


 先程の目配せの意味を問う。


「張さん、これは張楚から離れ独自の地盤を築く好機。蒯通の策が上手く嵌まれば、大きく領地を得ることができる。そうなれば陳勝は武臣殿を(はばか)り、侯と認めざるを得ぬ。その流れは趙国や燕国の再興も絵空事では無くすでしょう」


 陳余は小声で応えた。


「ううむ……確かに、今ここで国が興れば我らは武臣殿に次いで高位の臣となろう。旧王の血族を見つけ出せれば最善。しかし、時は王族を見つけるまで待ってはくれぬか。その時は……」


「仰る通り。時は迫り、迷う暇はありませぬ。次善の王でも我らが支え、国を富ませば最善と化けましょう」


 半ばまで順調であったこの北伐が停滞している。それが二人に焦りを生み、正統性より性急さを選ばせる。


 張耳と陳余は、蒯通へ印授を預ける武臣を見つめた。

蒯通(かいつう)の名について

蒯通の本名は「蒯徹(かいてつ)」であるが後の前漢の七代皇帝、武帝(ぶてい)の名が劉徹(りゅうてつ)であり、「徹」と同じ意味の「通」があてられ後世まで「蒯通」で記された。

これは避諱(ひき)と呼ばれるもので、皇帝や王、祖先や目上の者の名と同じ文字を使わないという慣習である。


侯 (こう)

王、公に次ぐ爵位。各地域の首長的地位。


余人 (よじん)

他の人。当事者以外の人。

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