87話
陳勝の王名を「張楚王」としていましたが、一般的には「陳王」と呼ばれていたとの記述を見付け、編集いたしました。ずっと気になっていた部分でなるべく「張楚王」という名を使わないようにしていたのでようやく気が晴れました。
直し切れていないところがあればご指摘、誤字脱字報告などでツッコんでいただけるとありがたいです。
「はぁ……」
「またため息ですか、田中殿」
東征の行軍の中、深いため息を聞き生気に満ちた華無傷から声が掛かる。
なんか前も同じようなことあったな。
「ああ、これはこれは臨淄ですでに新婚生活を送っている華無傷殿ではありませんか」
「き、機嫌悪そうですね……」
「べつに。そんなことありませんけど」
「蒙琳殿が臨淄へ帰ったからって当たらないで下さいよ……」
◇◇◇
彭越達に助けられ蒙琳さんを救出した後、俺達は濰水を渡ってきた田横達と合流し、一旦近くの邑へ引き返した。
邑の長老の家で主だった面々で集まった。
蒙琳さんは別室で休んでいる。
「気が付いたら彭越達はおらず、聞けば中と謀って濰水をわたったと言う。俺を除け者にするのはよくない。早く夜が明けよと胸が焦がれたぞ」
田横はいつもより心なし強く俺の背中を叩く。
「いてっ! いやだって横殿へ言ったら貴方も河を渡ると言うでしょう。万が一のことがあったら人質どころの騒ぎではなくなります」
「うーん、まぁそうだがなぁ。待つだけというのは辛いものだ。性に合わんことがよくわかったよ」
田横は髯を擦り、苦笑いする。
こうして笑いあえるのも、蒙琳さんを無事に助けることが出来たからこそだ。
本当に紙一重だった。
田横の騎馬隊、彭越の渡河、蒙恬の奮戦……。
って蒙恬は大丈夫なのか? それに伝えなきゃいけないこともある。
「蒙恬殿は? 怪我は大丈夫なのですか」
「ここだ」
その声のする方へ視線を移すと、首から下げた布で左腕を吊った蒙恬が腰掛けていた。
「馬から投げ出された時に腕の骨を折ったようだが、それ以外は大事ない」
蒙恬は吊った腕を少し振り、張りのある声で応える。
折れた腕で田都の相手をしてたのか。とんでもない爺さんだな。
しかし、そのお陰で俺も蒙琳さんも救われた。
「蒙恬殿」
「田中よ。お主のお陰で琳を救うことが出来た。礼を言う」
蒙恬が座ったまま頭を下げる。
「いえ、俺の力なんて。蒙恬殿含めここに居られる方々皆さんのお力に寄るものです」
俺も頭を下げる。
「そうだ中よ、蒙恬殿の腕を診てやってくれ」
田横が気が付いたように言う。
あ、医療の心得がある設定まだ生きていたのね。うーん、骨折か……。
俺は蒙恬に近づき、折れた腕を見る。
腫れてはいるが、不自然に曲がっている様子も皮膚を突き破っている様子もない。
「真っ直ぐな木を沿えて固定しておいた方がよいでしょう。なるべく動かさないように」
それくらいしかわからん。
田横が兵の一人に木を探して来るよう指示を出す。
すぐに見つかったようで、兵から木切れを受けとり、
「ちょっと縛り直します。動かすので少し痛むかもしれません」
「うむ、わかった。それより田中よ」
「はい?」
腕と副木を縛る俺に、蒙恬は笑みを浮かべ口を開く。
「琳の様子ですぐに分かった。娶ってくれるのだなっ、おいっ、痛いではないか。そんなに強く縛られたら血が止まる」
「あ、ああ申し訳ありません」
こっちから言おうと思ってたのに、いきなりのことで動揺が……。
蒙恬にもちゃんと言わなければ。
「も蒙恬殿、娘さんを」
「姪じゃ」
「め、姪さんを私のつ、妻に……」
「うむ、よろしく頼む」
蒙恬はあっさりと了承する。
え、終わり?
……まぁ、蒙恬からも言われてたことだし、断られることはないとは思ってなかったけどさ。
なんかこう、もっと……
「娘を幸せに出来る覚悟はあるのか」
とか、いや姪だけどさ。
こう、お義父さんとの、なんかあるじゃん。いや伯父さんだけどさ。
まぁ、話が早いのはいいことだ。
これで晴れて蒙琳さんと夫婦に。
夫婦。
なんと素敵な響きか……!
「まぁ婚礼は臨淄に戻って落ち着いてからだな。わしと琳は先に戻っておる。無事に帰って来いよ」
え、あれ? 俺は?
「このまま華無傷と合流し、近隣を鎮めながら田安達を追う。暫くすれば東征の軍も来よう。それをもって東の憂いを一掃する」
田横が応える。
「わしは元々征行へは同行せず臨淄の守備を任じられておる。腕はこの有り様であるし、ここで別れて琳と臨淄へ向かうとしよう」
ということは。
「琳との婚礼は大分先になるが、早く戻れるように頑張れよ」
◇◇◇
と、そんなことがあり愛を誓い合った二人は引き離されたのであった。
まぁ、仕方ないけどさ……田安達を放っておけないしさ……。
新婚生活どころか結婚もお預けなんて……。
「ところで仲人は誰にお願いするのですか?」
幸せそうな華無傷が尋ねてくる。憎い。その笑顔が憎い。
「はぁ、仲人ですか」
現代日本では仲人を立てることが少なくなってきたが、ここ古代中国では仲人を立てるのが当然のことであり、仲人なしで正式な手順を踏まない結婚は『野合』と呼ばれ、忌み嫌われている。
正式な手順というのも『六礼』という六つの儀礼を行って初めて婚姻が成立するらしく、かなりの日数がかかる。書面一枚で婚姻が成立する現代とは違い手間のかかる儀式なのだ。
「野合なんて蒙恬様に斬り殺されますよ」
……だよな。
「華無傷殿。いや華無傷様。六礼とかその辺りの儀礼を詳しく教えてもらえませんかね」
「調子がいいですね。まぁ、俺も最近のことなのでいいですけど。そうですね、仲人は大体一族の長などに頼みますね」
俺は一応、田氏ってことになってるから、その一族の長というと……。
王じゃん。
「いやいや流石に斉王には畏れ多いというか、頼みにくいというか、御政務がお忙しいでしょうし」
「とすれば田栄様ですかね。それでも宰相ですね」
田栄か……田栄も忙しそうだけど、頼まれてくれるかしら。
「中殿も遠縁とはいえ王族に連なる人物ですし、仲人が宰相の田栄様。いや凄いなぁ、これは国を挙げての一大事になりそうですねぇ」
うぅ、やめてくれ。
連なってないんです……国民全員騙すような……。
小心者の俺の胃に穴が開きそうだ。
「いや、あの出来れば目立たず小ぢんまりと……」
「しかもお相手は元秦の名将で趙高の悪行を憎み、道を糺すために出奔した斉の客将、義の人蒙恬の姪、蒙琳殿」
いや、もうやめて。
華無傷は調子づいて止まらない。
「父蒙毅を手にかけた悪の宦官、趙高から逃れ、さらには伯父蒙恬も救いだし、その逃避行の最中、愛が芽生えた二人は……、いやはやこれは詩に詠われますね。あれ? どうしたのですか? 腹でも壊しましたか?」
今開く。今、胃に穴が開く。
なんとしても。
なんとしても、ひっそりと収めねば……。
俺は胃をおさえながら、決意を固めた。
六礼 (りくれい)
納采、問名、納吉、納徴、請期、親迎、の六つの儀式を経て婚姻が執り行われる。日本の結納の起源。
これら正式な儀式を経ない結婚を「野合」と呼ばれた。




