86話
あーてぃ様から各地図の最新版を頂き、更新いたしました。
目次の4番目になります。ぜひご確認ください。
「先ずは大勝、お慶び申し上げます」
函谷関の包囲する陣中、司馬欣が章邯に向けて深く揖礼をする。
咸陽に迫る周文率いる反乱軍を退け、その戦捷を受けた皇帝ははしゃぐ子供の様に手を叩き、章邯を誉め称えたという。
そして皇帝が章邯の援軍の要請に応えるべきか、趙高に是非を伺うよりも早く、司馬欣は前に進み出て上奏する。
「彼の軍の帥将、章邯の軍事の才は戦捷の通り、歴代の名将にも劣りませぬ。しかしてその性情は、怠惰にて軽薄。今回は珍しく気を吐き、腰を上げましたがまたいつ怠惰の虫が騒ぎ出すやもしれませぬ。監視し、場合によっては更迭も。どうかその役、この司馬欣にお任せ下さい」
「長史殿と小府殿は以前より室に行き交う親睦深いご様子。斟酌を加えるのでは」
ただ功績を妬む者か、それとも趙高の息がかかった者であろうか、臣の一人が粘りのある論調で水を差す。
司馬欣は真に迫る怒り顔でその者を睨む。
「親睦なぞとんでもない。不真面目で職務を果たさぬあの男に、再三再四苦言を呈しに訪れていただけのこと。室でよく小職の叱咤の大声が響いておったでしょう。奴の尻の叩き方ならこの司馬欣が一番存じております」
上機嫌な皇帝は趙高に問うのも忘れ、司馬欣の言を笑い、
「ははっ、尻の叩き方とは。善かろう。援軍を率いて、汝が章邯の佐将として赴き監視せよ。彼の者が怠けるようなら尻を叩け、はははっ。ん、なに?」
その時趙高が、音もなく皇帝に近づいていた。
そして皇帝の耳許で何かを囁くと、皇帝は頷き司馬欣に向かって下知する。
「汝一人では補佐に監視と荷が重かろう。もう一人佐将を遣わそう」
◇◇◇
「それで来たのが董翳殿か」
章邯が少し離れた所で兵卒や軍備を細かく確認する董翳を眺めながら、ため息を吐く。
「うむ。皇帝からの下知、否とは言えぬ。全てが気心知れた者とはいかなかった。しかし董翳殿は趙高の子飼いというわけではない。職務に忠実な臣です」
司馬欣の言葉に章邯は、戦場で手入れを怠った顎鬚を擦り、
「宦官は軍人に毛嫌いされておるから、趙高の意を汲む者がいなかったと。そこで兵を率いることが出来、且つ真面目で堅物の董翳殿に、仔細監視させ粗を探そうというところですかな」
章邯の不揃いな鬚と隙なく整然と揃えられた董翳の鬚と見比べながら、司馬欣が頷く。
「そんなところでしょう。しかし、なんともあの毒蛇にしては温い手ですな」
「うむ……。取り敢えず我らを使い、賊を退け安全の確保。いつでも更迭できるよう探りは入れておく、くらいのものですかな。他にも手を打っているかもしれませんが」
「ううむ……」
答えの出ない問題に思考の沼に沈みそうになる司馬欣に章邯は苦笑し、
「まぁ奴の考えは奴にしか分からぬ。それより奴に付け込まれぬよう結果を出し続けねばならん」
そう言い、今後の展開について献策する。
「ここ函谷関は堅固な要害、無理に攻めてもこちらが消耗していくだけです」
「兵糧の枯渇を狙いますか」
司馬欣は気を取り直して問う。
「うむ、兵糧の備蓄はそうないと見ておる。しかしそれでも一月、いや二月はかかろう。それを怠慢と見られては敵わん」
「こういった攻城戦の地味なやりとりは宮中には伝わりにくいですからな」
章邯は頷き、
「函谷関の包囲は我が兵で事足りている。そこで司馬欣殿と董翳殿には武関へ赴き拠点とし、そこから反乱軍の本拠、陳をうかがって貰いたい」
武関は函谷関よりほぼ真南に位置し、南方から咸陽を守るための砦である。
ここから司馬欣、董翳の援軍を使い、未だ官賊入り乱れて沸き立つ南陽郡周辺を鎮めながら陳勝のいる陳を目指す。
「敵の勇将を留めながら咸陽に戦捷を届け、尚且つ趙高の目を遠ざける。見事な戦略と存じます。佐将司馬欣、その命承りました。早速董翳殿にも申し付けましょうぞ」
芝居がかった司馬欣の拱手を受け、二人は点検を続けているであろう董翳を探して歩き出す。
「そういえば司馬欣殿よ、皇帝への上奏、佐将に任じられるためとはいえ随分な言い様ではないですか。まるで私がまことに怠惰で」
「事実ですぞ」
「え?」
「本心ですぞ」
「ううむ。戦場の疲れからか、耳が遠いな」
「尻を叩きに来ましたぞ」
「聴こえぬなぁ」
司馬欣は逃げ出す章邯を追いかけ、二人は陣中に消えた。
◇◇◇
なんと虚しく、張りのない日々か。
初めの内は、急速に腐敗していくこの国を眺めるのは心震えた。
しかし、それも飽きた。
宮中において私に敵対しそうな者は全て排除し終わってしまった。
無垢で愚かな皇帝。
私によって本来座れるはずのない帝位についた。
真の父である先代を弑した私を父の如く慕い、そして畏怖する姿は滑稽である。
全てにおいて私の顔色を窺い、私に頼る。
今や皇帝だけでなく、この国全てが私に従う。
私が白を黒と言えば皆口を揃えて黒と言う。
戯れに鹿を見せ、私が馬だと言えば皆馬だと言う。皇帝でさえも。
頑なに鹿だと言い続けた者は処刑した。
その時は愉快でも後に残るのは虚しさのみ。
所詮は宦官、日向には出れぬ。
これで全てが終わったのか。
触れれば切れるような叡知の持ち主であった先代。緻密且つ精細な法の下に私を堂々と糾弾した蒙毅。
ひりつくようなせめぎ合い。
彼らを欺き、裏切り、絶望に突き落としたあの快感。
あの絶頂に達するような感覚はもう得られないのか。
後は陳勝などという下賎の賊に蹂躙されて消えるのみか。
そんな味気ない日々の中、周文率いる賊軍が迫ってきた。
章邯という目立たぬ男が奇策を持って賊へあたると言う。
武器を持ったこともないような驪山の刑徒、奴隷を兵に、とは。
そしてそれを率いるのは従軍経験の乏しい本人だと。
死体を増やしに行くようなものだが、敗北を知り絶望を深める皇帝やその周りの顔を眺めるのもよいか。
好きにすればよい。そう思い、顔色を窺う皇帝に頭を伏せ、起こした時に章邯という男を見た。
その男の目を見て、ふと脳裏によぎった。
眠たげな目が、似てもいない蒙毅の目と重なる。
あれは私に屈しておらぬ目。私と闘おうとする目。
その目が少し気になった。
その数日後、章邯が賊を破ったという。
あの眠たげな目の男が。これには少しばかり驚いた。
長史の司馬欣が援軍を率いていくと言う。
監視も兼ねて、と申しておるが少し調べたところ章邯とは親交深いようだ。
詭弁を弄し、章邯と共に最大軍閥へとなろうというのか。
不思議なもので虚しく思うこのような日陰の地位であっても、脅かされるとなればそれにしがみつきたくなる。
自身の俗物ぶりに苦笑が溢れる。
一方で破滅を望み、その一方で栄華を求める。
その相反する二極が私を私足らしめるものなのだろう。
ちと釘を刺さねばならぬか。
軍務に従事出来るような子飼いがおらぬ。とりあえず堅物の董翳でも送るか。
このまま勝ち続けるようであれば、皇族の誰かを送り込み実権を奪うことにしようか。
軍を率いることの出来るような気概ある皇族か。
「誰か」
部下の宦官が駆け寄る。
「公子子嬰と接触を図れ。そのうち使うやもしれん」
部下は深く頭を下げ、小走りに部屋を出た。
後は……日向の権力を求めてみるか。
宦官が人臣最高位に就いてみるのも一興だ。
使い物にならなくなった李斯には退席を願い、表から章邯達を抑えることとしよう。
少しは愉しくなってきたではないか。
斟酌 (しんしゃく)
相手の事情を汲み、手加減すること。手心をくわえること。
鹿を見せ~馬だと言う。
故事の『指鹿為馬 (しかをさしてうまとなす)』。
意味は、権力によって道理を曲げて無理を押し通すこと。
諸説あるが『馬鹿』の語源とされる。




