85話
周文は平静を装っているが、内心は愕然としていた。
(なぜ……、どこに……あのような数が)
函谷関を抜き、その勢いは衰えることを知らず意気揚々と咸陽を目指していた。
そろそろ初代皇帝の陵墓である驪山が微かに見えようかという所。
陵墓を暴いて皇帝の財宝を略奪するか、それともそれを抑えて先ずは咸陽を目指すか。
周文が頭を悩ませている時、それは現れた。
天に響かせる足音と黒く染まった大地。
まるでそこにだけ日の光が届いていないかのような、黒い空間が近づいてくる。
それは兵であった。
視界を全て覆うような、秦の官軍の軍装である黒で統一された鎧や旗。
規律正しく打たれる鐘や太鼓。
その音に合わせ、黒い波が一歩一歩迫ってくる。
秦兵の大軍。
「敵軍だ! 戦闘準備だ!」
周文は我に返って動揺を抑え込み、その威容に呆けている周りの将に激を飛ばした。
一息の間を置き、将達は慌ただしく駆けていく。
(まともな軍は付近にいないはず……)
先入観と連戦連勝の油断から偵察を怠ったかと臍を噛む。
函谷関など要所に兵を配してきたため、こちらの兵数は二十万程。
一見して兵数はほぼ互角か。
ならば将の才器が物を言う。
今の秦に名将おらず。
(あれが手負いの獣の最後の抵抗だ)
地を埋め尽くす大軍と大軍は接近していく。
◇
「立派なのは装備だけだがな」
兵車に乗る章邯が苦く笑い、誰に向けるでもなく呟く。
「ここ咸陽が落ちれば無用の物どころか賊の手に渡り、貴方がたを突き殺す道具と変わりましょう」
驪山に向かう前、章邯は咸陽の武器庫を解放させ、一つ残らず運ばせた。
そして驪山に到着した章邯は刑徒や奴隷を集め、山となった武器や鎧を前に、普段では考えられぬ大声とはっきりとした口調で演説した。
「大赦の詔が下された。鎧を纏い、武器をとり、兵卒として秦に反乱を企てる賊を討て。首をあげた者は正式に級位も上がる。このまま汚泥にまみれて鼠のように生きるか! 人として、人らしく生きていくか! これはお前達の生涯の転機である! 」
戸惑い、ざわめく刑徒達の中にやがてポツリポツリと膝を折る者が現れる。
それが刑徒に紛れた章邯の部下とは知らず、その波は全体に伝播し、異様な雰囲気と共に全ての頭が下げられた。
「必ず五人が一組になり賊に向かうこと。お主達が覚えることはこの一つだけだ。五人で一人を討てば相手は四万減る。それを二度も繰り返せば敵は敗走する」
酷く稚拙な理屈だが、学もなく算も出来ない刑徒達は、その鼓舞の言葉を素直に受け取った。
上等な武器を持ち、五人で一人を殺す。二回繰り返す。至極簡単に聞こえる。
兵卒となった刑徒達の心に希望の火が灯った。
◇
周文がよく見れば、太鼓の音に揃わぬ足並みで歩を進めるこの軍を、正規兵ではない急造の軍だと看破することが出来たかもしれない。
しかしいるはずのない黒一色で揃えられた大軍。しかも異常なほどの気迫を感じる。
それらに惑わされた周文の目に映るのは項燕将軍が敗れた、あの時の秦の強兵であった。
その恐怖が伝わった訳ではないであろうが、反乱軍全体もやはり、突如として現れた秦の軍勢に動揺は隠せなかった。
(それでも咸陽を目の前に退くわけにはいかぬ)
「進め! 官兵を踏み潰せ!」
周文の号令に反乱軍は地を揺らして駆け出す。
それはやや地に足が着いていないような、どこか浮わついた突撃となった。
反乱軍に戦術はない。
実戦を幾つか経験したとはいえ、所詮は訓練も受けておらぬ農民や流民。
複雑な動きを命じれば混乱し、却って戦況を悪くするだろう。
いつものように押し潰す。それがこの軍の力を最大限に発揮する方法であり、唯一の戦術である。
◇
「まだだ、引き付けろ。勝手に射つなよ」
弩を構える兵に章邯は堪えるように命じる。
数は少ないが、各所へ効果的に配した正規兵が逸る新兵を抑え、その時を待つ。
反乱軍が射程に入ったのを見た章邯が命じる。
「撃て」
一斉というほど整然とはいかぬが、激しい横殴りの雨のように空に放たれた矢は次々と敵を倒していく。
狙いを定めなくとも的となる敵は目の前に広がっている。
対する反乱軍の飛び道具は弓であるが、習熟している者は少なく、数も疎らに撃ち込むも官軍の数を大きく減らす物ではない。
これは弩という武器が国家管理の武器であり、製造も高度な技術を要するため、反乱軍に多くは渡らなかった。
弩は大多数の運用で効果を発揮する武器であり、官軍から奪って使用していた物も整備が出来ず、反乱軍は故障の多い弩を効果的に使うことが出来なかった。
官軍の帥将である章邯が咸陽から根こそぎ持ってきた大量の弩は大きな成果をあげ、周文軍は次々に倒れる味方にさらに動揺した。
「押せ」
章邯は、訓練も受けておらず初めて弩を扱う新兵に、連射の難しい弩の第二射を命ずることはなかった。
素早く号令し、弩の斉射に足の鈍った周文軍に向けて歩兵を突っ込ませる。
(時を掛ければこちらが負ける)
秦によって罪と労役を与えられていた新兵が恐怖や疲れを感じれば、その怨みを思い出し剣をこちらに向けるだろう。
敵の隙を突き、優勢を見せ、勝利を予感させ、勢いのままに飛び込ませる。考える暇を与えてはいけない。
(周文が迎え撃ってくれて助かった)
どっしりと陣を固め守勢に回られていたら、こちらは自滅していただろう。
だが章邯は兵を率いることとなる前から間諜を放ち、周文の勝ち気な性質、秦への怨みが深いこと。
そして周文軍が守りに入って、時を掛けられるほど兵糧に余裕がないという情報を得ていた。
(咸陽を落とせば兵糧など、いくらでも。などと考えていたのだろうが……)
章邯は賭けというには容易い予測を的中させ、しかしそれでも油断せず、次の一手を繰り出す。
「兵車隊も行くぞ」
章邯は落ち着いた声で指示を出し、自身も正規兵の操る兵車隊を率いて駆け出した。
この兵車は通常、車右、車御、車左の三人一組で扱うが、兵車の数は十分だがそれを操る正規兵の少ない章邯軍は二人一組とし、数を嵩増しした。
「誰か替わってくれんかね」
遊軍という危険な役目の指揮を帥将である章邯が取らねばならないほど今の秦に将はいない。
敵の兵車が出てきても極力相手にしない。
敵陣を切り裂き、歩兵の突撃を補佐する。それを目的に敵陣を駆ける。
一人分軽く、弩を装備した章邯の兵車隊は周文軍の兵車を翻弄する。
兵車隊に追いかけられれば、弩を射ち牽制し、時には遠く離脱し、時には味方や敵の歩兵を盾にし、章邯は縦横無尽に戦場を駆けた。
最初の斉射で浮き足立ち、兵車隊に分断され、混乱する周文軍に先日まで刑徒であった兵卒が上等な武器を携え殺到する。
五人が一つの塊となり敵に襲いかかる。
五人の内の誰かが倒れると数の足りない組同士が合わさり、また一組となって進む。
「五人、五人一組!」
と狂気の帯びた叫びを響かせ、隣の者とぶつかり合いながら不慣れな武器を振り回し、叩き、引っ掛け、突き刺す。
やがて周文軍の布陣は解れた様に歪に波打つ。
そしてとうとう縫い直すのが不可能なほど破れ、前線の兵が後退し始めた。
「今だ! 押し込め!」
章邯は兵車から大声を張り上げ、兵達は一気に進む。
前線を呑み込んでもその勢いは止まらず、黒い波は敵陣深く流れ込んだ。
◇
「退くな! 退くな! 押し返せ!」
周文の怒号が虚しく響き渡る。
一度崩壊を始めた軍を立て直すのは困難極まる。ましてや殆どが農民、流民の集まりである。
優勢な時は意気盛んに活気づくが劣勢になった今、その脆弱性が現れた。
恐怖を駆られ逃げ出す者、跪き命乞いをする者、狂ったように単独で斬りかかる者。
周文軍は軍の体を成さなくなっていく中、兵としての自覚の残る者が周文を中心に集まり始めた。
「周将軍! ここは退却を……!」
佐将の言葉に周文は天を仰ぐ。
(ここまで来て……。またあの時のように敗れるのか……)
周文の脳裏に、項燕将軍に従い惨敗したあの戦いが過る。
(いや、函谷関まで戻れば、まだ勝機は十分にある)
彼は、自身の弱気を払い落とすように大声で号令をかけた。
「退く! 函谷関で迎え撃つぞ!」
周文は闘争心を奮い起したが、この反乱軍初の大敗は、それを知った者達へ大きな影響を与えることとなる。
◇
章邯は兵車から降り立ち、悠然と告げる。
「我らの勝利である」
その宣言に天が割れんばかりの喚声があがった。
装備の優劣か、それとも囚人から上級民へ昇ろうとする欲望に突き動かされたのか。
浮き足だった敵のお陰もあるが、被害はそれほど多くはない。
章邯は喚声を手を上げて制し、その手で東を指し示した。
「これより追撃へ移る。そして函谷関を包囲する。勢いを止めるな」
勝利に酔う新兵へ植え付けた自信と狂気を利用して、このまま函谷関まで駆け抜ける。
「被害の詳細を確認。咸陽へ戦捷を献じよ。援軍の要請もだ」
章邯は血気盛んな新兵に背を向け、矢継ぎ早に指示を出し兵車へと歩き出す。
章邯は自身の兵車を改めて見る。幾本もの矢が突き刺さっている。
竦み震えそうになる脚を、埃を払う振りをして掌で叩き、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「……なんということはないさ」
大勝である。
しかし将として初陣だった章邯にとっては際どい戦いであった。
大赦 (たいしゃ)
国の大事に伴い(主に慶事)、法で定めた罪を免除すること。
弩 (ど)
古代から使われていた射撃用の武器。いしゆみ、クロスボウ。
弓に比べ連射性能は大きく劣るが、威力や射程、命中精度が個人の能力に依存せず、一定の成果の得やすい飛び道具。
戦捷 (せんしょう)
戦いに勝つ。勝ち戦。




