84話
今回読みにくい字が多く、用語説明が盛り沢山です。
公式の場で畏まった場面のため、ご了承下さい。
出会っても話しても、一日経てばその外見が思い出せないような男。
強いて挙げられるとすれば、やる気の無さそうな眠たげな目であろうか。
皇帝は、その眠たげな男から発せられた言葉をすぐには理解出来ず、やや間を置き理解した時には身を乗りだし、その男の名を呼ぼうとした。
「お主! お主は確か……! 確か……小府だったか、小府の…………」
「章邯にございます」
名前の出てこぬ皇帝に章邯は揖礼し己の名を告げる。
「おお、章邯! 先ほどの言、まことか?! 兵は、兵はおるのかっ?!」
(虚言を……。どこにどれほど兵がおるというのか)
群臣が口内で謗り白い目を向ける中、玉座から飛び出さんばかりの皇帝に章邯は気負いなく応える。
「はっ。兵は驪山に」
「何を言うかと思えば驪山だと。驪山におるのは初代の陵墓で働く刑徒を見張る兵がいるだけ。何の足しにもならぬ」
臣の一人が鼻を鳴らし、章邯の案に異を唱える。
章邯は苦笑いを浮かべ首を振る。
「いえ、そちらではなく陵墓で働く刑徒と奴隷のほうでございます。その数二十万余。王都に迫る反乱軍にも勝りましょう」
「そやつらは兵ではなく、罪を犯したただの農民ではないか。そもそも罪人に武器を授けるというのか。こちらにその刃を向けるのではないのか」
皇帝は落胆し、浅く置いた尻を深く座り直した。
臣下の間にも反論が口々に揚がるが、章邯は気にも止めず、玉座に向かい言葉を続ける。
「兵として従事すれば罪を赦し、首級を認めると令を発せば、皆こぞって賊を討ちましょう。反乱軍も元は農民や流民。訓練を受けたかどうかも定かでありますまい」
「……ふ、む。それもそうか……」
深く腰掛けた皇帝は章邯の飄々とした弁に希望を見出だしたのか、耳を傾け考え始めた。
咸陽を退くことに傾きかけた皇帝の心が揺らぐのを見て、すでに逃げるつもりであった臣の一人が慌てて章邯に尋ねる。
「へ、兵は足るとして、それを率いる将はどうするのか。そのような練度の低い軍、誰も率いようとは言うまい」
章邯は言を発した臣へは振り向かず、胸の前で手を組み堂々と応える。
「私が提言したこと、どうして人に任せましょうか。この章邯が刑徒等を率い、反乱軍を食い止めましょう」
群議の場にどよめきが起こる。
「お、お主の役職は小府。軍など率いた経験もあるまい」
また座りが浅くなり、尻を浮かせた皇帝が尋ねる。
「軍を率いた経験はありませぬが従軍の経験はございます。なに、敗れても囚人と名も思い出せぬ官吏が一人消えるまでのこと。その時は決死の盾となり時を稼ぎましょうぞ。ここを離れるのはそれからでも遅くはないと存じます」
「うむ……うむ」
その言葉を聞いた皇帝は群議中、初めて傍らに立つ趙高へと振り向いた。
趙高が目を伏せ、浅く頭を下げた。
それを見た皇帝は頷いて章邯に向き直り、
「善し、小府章邯の奏言を赦す。汝が帥将となり王都に迫る賊を退けよ」
「はっ」
章邯は組んだ手をそのままに、短く、しかし部屋全体に響く声で返礼した。
そして眠たげな目が少しだけ見開かれ、その視線は皇帝の後方に控える宦官に向けられた。
終始目を伏せていた趙高も視線を上げ、玉座の前で拱手する特徴の乏しい男を、その厚い瞼の奥で鈍く光る瞳で捉えていた。
◇◇◇
「章邯殿!」
群議の場から辞し、自室へ向かう章邯に細面の背の高い男から声が掛かる。
「上手くやりましたな。これが温めていた秘策という訳ですな。これから早速驪山へ?」
「司馬欣殿。まぁ、面倒だが刑徒等を説得し、仮初めでも軍の体をなすようにしなければなりません」
二人は長い廊下を並び歩きながら、今後について話し合う。
「しかし本当に大丈夫ですかな。説得は出来るとして、囚人に兵が務まりましょうか」
司馬欣が群議でも挙がった疑問を章邯にぶつける。
「しっかりと隊伍だけ教え込んで、あとは戦い方次第でしょうな」
「ふむ。仰られていた通り敵も殆どが農民。軍務経験者は僅かで、本隊でも農民に毛が生えた程度。一度崩れれば脆いでしょうからな」
歩く司馬欣が徐々に章邯の方へ寄ってくる。
「……まぁ、農民でも幾らかの実戦を経験しているのでそこまで楽観は出来ませんがね。まぁ上手くやりますよ」
隣との間を広げようと壁の方へ移動しながら章邯は応えるが、その分司馬欣も近づいてくる。
「ところで。勿論私を副将として推薦して下さるのでしょうな」
徐々に肩を壁に擦らせながら歩かねばならなくなった章邯に、司馬欣は鼻息荒く詰め寄る。
「いや、司馬欣殿は長史。李丞相の属官ではないですか」
「その丞相の李斯殿は病と称し、出仕せず、屋敷に隠ったままだとか。長子の李由殿が滎陽で奮戦している中で逃げる訳にもいかず、さりとて趙高に抑えられ援軍を送ることも叶わず、失意に暮れておるようです」
司馬欣の長い顔が回り込み、とうとう章邯を壁際に追い詰めた。
そして小声で熱く吐き出す言葉と、息を掛ける。
「なので職務の無い私を使われよ。私も貴方という鴻の尾羽を掴んでこの魔宮を飛び出し、中原の空へ羽ばたきたいのです」
歩みを止めた章邯はため息を吐き、司馬欣の顔をグイッと押し返す。
「まぁ落ち着かれよ、顔が近い。司馬欣殿にはやってもらいたいことがある」
「ほう、何かな」
司馬欣の顔が嬉々として章邯の手を再び押し返す。
その顔を抑えながら、章邯の眠たげな目が少し鋭くなる。
「私が上手く反乱軍を退けたなら、この魔宮の主が動くやもしれん。例えば軍に連絡役と称して監視役を送ってくるなど」
二人は皇帝の後ろに控え、垂れた瞼の奥から無機質な蛇のような眼で章邯を見ていた宦官を思い浮かべた。
「あり得ますな。せっかく奴の眼から離れ、自在に動かせる軍を手に入れたのだ。それは面白くないですな」
司馬欣が顔を離し細い顎に手を添え、眉を寄せる。
「恐らく複数人送ってくるでしょう。そこで司馬欣殿にその役の長に名乗り出てもらいたい。長史であれば監視、連絡にうってつけでありましょう」
章邯は離れた顔にホッと一息吐く。
「ふむ、戦場まで出向こうとする気概のある人材は、すでにあの毒蛇によって排斥されている。私が手を挙げても不自然ではない」
思いを巡らす司馬欣に章邯の提案は続く。
「もし、監視が複数付くとなっても顔の近い……ではなかった、顔の広い司馬欣殿なら奴の息のかかっていない人物にも心当たりがあろう。ついでに近県の正規の兵を徴集し、援軍を引き出してもらいたい。勝っておれば嫌とは言えまい」
司馬欣は愁眉を開くと、音が出るほどの勢いで手を組んだ。
そしてまた章邯に迫り寄り、唾を飛ばす。
「流石の妙算! とうとう鴻が目を覚ましましたな! いやあの毒蛇を逆に喰らうなら鴆でしょうかな!」
章邯は心底迷惑そうに顔に掛かった唾を拭い、司馬欣の脇をすり抜け歩き始めた。
「私が鴆なら毒蛇などより酷い毒を撒き散らすことになるではないですか。この国の存続どころか息の根を止めてしまうでしょうよ」
苦笑いの司馬欣が後を追う。
「おお、失言でしたな。しかし、あの毒蛇は何を考えておるのでしょうな。このような事態になるまで何も手を打たずにおるとは……」
章邯は立ち止まり、司馬欣へ振り返った。
「何も。何も考えていないのかもしれませんな。或いは、また……」
そう言って向き直り、また歩き出した。
後ろを歩く司馬欣からは見えぬ章邯の顔は、今まで見たことの無いほど厳しさを含んでいた。
刑徒 (けいと)
刑に服している者。罪人。
首級 (しゅきゅう)
秦の制度の一つ、二十等爵の身分制度で二十段階の爵位に分けられ、最低が一等で最高が二十等。
戦争で敵の首を一つ取ると一階級上がる。庶民は八等位が最高位。
上奏 (じょうそう)
皇帝に述べる陳述、意見を述べること。
奏言 (そうげん)
皇帝に述べる陳述、意見。
帥将 (すいしょう)
その軍を指揮する最高位の将。大将。
拱手 (きょうしゅ)
頭を下げず、胸の前で手を組む礼。
隊伍 (たいご)
秦が採用した常に五人一組で事にあたる軍の最小単位。
現代ではこれが転じて『隊を組んできちんと並んだ組、列、集団』という意味となった。
長史 (ちょうし)
時代によって位や職務が別れるが、秦代は丞相,太尉,御史大夫の三公の補佐、属官のこと。
鴻 (おおとり)
大型の水鳥。鴻鵠。
故事「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」は小人物には大人物の考えや志は理解できないという意。
張楚王、陳勝が決起前の小作人の頃、同僚に言った言葉。
鴆 (ちん)
古代中国に生息していたとされる毒蛇を常食する伝承上の鳥。
鴆自体も猛毒を撒き散らし、その毒は無味無臭で暗殺に用いられたとされる。




