83話
今話から新章です。
「趙高! 趙高よ!」
咸陽の宮中に二世皇帝胡亥のいつもの声が響く。
しかし、その全幅の信頼を置く宦官の名を呼ぶ声色には、いつもと違う悲壮で焦燥の帯びたものであった。
小走りに現れ、深々と頭を下げる趙高。
いつもと変わらぬ、そして見る者が見れば寒気を催すような笑みを皇帝に向ける。
「どうされましたか、主上よ」
「趙高よ! 賊が、反乱軍がすぐ側まで来ている! な、なぜ朕は知らぬ! なぜそのようなことが起きている?!」
張楚王を名乗る陳勝配下の将周文の軍は、仮王呉広の援軍として陳から軍を発した。
だが周文は呉広が包囲し続ける滎陽を無視し、さらに西へ進軍した。
滎陽に軍を集中させていた官軍に周文を止めることは出来ず、各県に残る官軍は流れる大河に呑み込まれるように泡と消えた。
激流と化した周文の軍はそのまま勢いに乗り、かつて誰も破ったことのない堅牢な関所函谷関を破り、とうとう秦の首都咸陽まであと数日という所まで迫っていた。
「ま、まことのことなのか? ここ咸陽に迫る程の大規模な反乱というのは……。各郡には兵がおり、反乱者の親族、或いは友や知人までも罰する厳粛たる法の下、我が秦は治められておるのではないのか?」
趙高が嘆くように首を振った。
「小職の元へもつい先程、その凶報入りましてございます。それまでは我が耳に届いておりませんでした。地方の官吏の怠慢ぶり、由々しきことにございますな」
皇帝は顔を紅く染め、趙高へ問う。
「ち、趙高よ、朕は一度反乱の上奏を受けた。あの時お主は虚妄と申したではないか!」
「確かに虚妄の疑いありと申し上げました。その後真偽をあらため、決を下すことは畏れ多くも主上の役儀。小職などにはその権能はございませぬ」
恭しく下げる頭に皇帝の唾が飛ぶ。
「お、お主は……!」
皇帝が批難の言葉を続けようとしたその時、趙高が顔を上げる。
「う、ぁ……」
その表情無く、冷たく濁る目を見た皇帝の言葉は喉の奥で留まり、細く喘ぐような吐息に変わった。
天の代理人たる皇帝に向ける眼ではない。いや人を見る眼ではない。
そして人のする眼ではない。
蛇や蜥蜴が虫などの餌に向けるような無機質な眼。
このままこの者を糾弾すれば一呑みに呑み込まれ、この身は奴の腹で溶かされるのではないか。
怒りに沸く熱が一気に下がり、自身の汗が手足の熱を奪っていくのを感じる。
紅く染まった顔面から血の気が抜け、青白く凍る。
「い、今は責を問うている場合ではない。反乱を収めねば」
二世皇帝は、趙高の眼から逃れようと冷え固まる頬をなんとか動かし口を開き、独り言ち、話題の矛先を変えた。
そして普段使わぬ頭に思考を巡らし、忘れていた主力の軍を思い出す。
「北方守備の王離を呼び寄せよ! 三十万の軍で反乱を鎮討させよ! 」
名案とばかりに叫ぶが、趙高は無感情な眼を伏せ再び頭を下げる。
「反乱軍は既に目と鼻の先。上郡からではとても間に合いませぬ」
「ううぅ」
せめて、もう少し早く反乱の報が届いていたら。
皇帝は戻れぬ時を想い、憎々しげに唇を噛む。しかし、またそれを言葉にすれば、目の前の宦官にあの眼を向けられる。
それはこの宮中が戦火に呑まれ、襲いかかってくる賊とどちらが恐ろしいのだろうか。
皇帝は喉を鳴らして言葉を呑み込み、別のことを口にした。
「し、臣を集めよ。群議を行い上奏を赦す」
「御意にございます」
趙高は頭を下げたまま、皇帝の居室を辞した。
その下を向いた顔には、亀裂のような歪んだ笑みが口元に湛えられていた。
◇◇◇
「なぜこの大事に臣が揃わぬ! 」
二世皇帝の声が虚しく響く。
群議の場に現れた高位官職達は、数もまばらであった。
この場にいない臣は何かしら理由をつけて、既に咸陽を離れていた。既にこの王都が火の海に沈み、秦王朝の崩壊を予見しての行動である。
ここに残っている臣は先を見通すことができない暗愚な者か、国を想い守ろうとする愚直な者か。
あるいはこの絶望的な状況を覆す神策を持つ者か。
「この危機をどう逃れるか、講じよ」
遁走した臣下を呪っても賊が消える訳もなく、皇帝が議論を促す。
趙高は皇帝の座る玉座の傍らに黙して控えている。
静寂に沈む場に、仕方なくといった様子でぽつりぽつりと声が上がる。
「ここは一旦咸陽から退き、兵を徴集し反撃の機を……」
「退くとしてどこへ退くというのだ」
「攻めにくく守りやすい漢中か、軍のいる上郡か……」
咸陽を放棄する前提で進む議論に、皇帝が悲哀を帯びた声で群臣に問う。
「遷都せねばならんというのか? もうすぐ完成する阿房の宮殿や先帝の眠る陵墓はどうなるのだ? 群盗に踏み荒らされ、略奪されるのか……?」
どこかずれた危機感の言葉に群臣の一人が沈痛な面持ちで応える。
「恐れながら、最も優先すべきは主上の安泰。主上さえご無事であれば再起、再興は叶いましょう……」
そう言い、下げられた臣の頭にすがるように淡い期待を投げ掛ける。
「……近隣の兵を集結させても駄目なのか?」
臣は頭を下げたまま首を振り、
「猶予も数も足りませぬ」
期待を断ち切られ皇帝は頭を抱える。
「……なぜ、このようなことに……。なぜなのだ……」
宮中という閉ざされた世界で何も知らされず、ぬるい幸福に浸っていた皇帝には反乱の理由など思い当たるはずもなく、突然降ってきた災厄に絶望した。
「この宮殿を守る術はないのか……? どこかに……兵は……」
皇帝のうわ言に応える声は無く、議論の中心は遷都先の選定に傾いていく。
「恐れながら申し上げます。兵はございます」
それを切り裂いたのは、取り立てて特徴の無い男であった。
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