82話
「手配できた舟は乗ってきた一艘だけだ。ここで夜が明けるのを待つ。奴等が引き返して来ることもないであろう」
馬から降りる蒙琳さんに手を貸している俺の背中に彭越が話し掛けてくる。
「そうですね。彭越殿、横殿にこのことは?」
「残した手下が伝えているだろう。出発前に言えば青二才も付いてくると聞かんだろうから、わしらが出た後に伝えるよう言っている。斉の将軍がもしも夜の河で溺れたとあっては格好がつかん」
彭越はカカッと笑う。そして、
「そこで火を焚いておく。お主らは積もる話もあるだろう」
そう言って、少し離れた場所に手下と焚き火の準備を始めた。
あー、うん……あーそうだな。うん。
馬から降りた蒙琳さんに貸した手を離さず、少し力を込める。
あー、えー……。おぉ、ヤバい、スゲー緊張してきた。
「も、蒙琳さん」
未だ少し紅い蒙琳さんに向き直る。
「は、はい」
俺の緊張が伝わったのか、蒙琳さんも目が泳いでる。
「少し、いや長いかな。お話が」
「は、はい」
蒙琳さんの手を引き、彭越達からさらに離れる。
そして名残惜しくも手を離し、正面に立って向かい合う。
よ、よし。
「実は……私は遠くの地から来てまして……」
「は、はい、存じ上げております」
ですよね、知ってますよね。
どこからどんな風に話せばいいんだ?
「えー……、その……ここだけの話、私は……田氏に連なる者ではないというか……あ、いや横殿達を騙すつもりは」
「ええ、田横様もご存知です」
「え?」
「斉王様はどうか存じ上げませんが、田横様と田栄様は恐らくそうであろうとお話ししておりました」
マジか……。それなら、なぜ……?
「そして、今となっては些細なことだと」
『中との縁は血ではない。なんだろうな、何か違うもの……上手くは説明出来んが、何かで、しかし確実に繋がっている気がする。それがたまらなく心が弾むのだよ』
「そう仰られ、笑っておられました」
……なんだよ、それ。
なんなんだよ、あいつは、ホントに……。
胸が熱くなる。鼻の奥がツンとする。
やっぱりあいつを。
田氏の行く末を見届けるまでは帰りたくない。
俺みたいな者が助けになるかどうかわからないけど、田横が必要としてくれるなら。
俺はそれに応えたい。
いつの間にか手に力が入り、拳を作っている俺を見て蒙琳が笑う。
「男性同士の素敵なところですね。でも少し妬いてしまいます」
あぁ、この笑顔だ。やっぱり蒙琳さんは笑顔が似合うな。
「蒙琳さん」
蒙琳さんの目をしっかりと見詰め呼び掛ける。
「はい」
それを真っ直ぐ受け止める蒙琳さん。
「……私の故郷は船などでは辿り着けない場所で、なぜここに、この時にいるのか、自分でもわからないのです」
蒙琳さんは少し首を傾げたが、黙って聞いてくれている。
「ここへ来た時、俺は帰りたかった」
その言葉に蒙琳さんの笑顔が陰る。
現代とは違う不便な生活。不味い飯。殺されるかもしれない恐怖。
家族、友人、仕事、残してきたものが沢山ある。
でも。
「でも彼らに……。広殿に慕われ、突殿と語り、蒙毅殿に迎えられ、蒙恬殿に教わり、彭越殿に変な渾名を付けられ。他にも皆と一緒に暮らして」
あぁ、短いようで色んなことがあったな。
今までの人生でこんなに濃密な時間を過ごしたことはない。
だからかな。
だからこんなに、心を揺さぶられるのか。
そして、
「横殿にいつも助けられ」
……なんだろうな。俺もあいつとは繋がっている気がするんだよな。
あいつの言う心が弾むって感覚、分かる気がする。
何よりもう一人。
「蒙琳さん。貴女に会って、俺はこのまま帰れない」
揺れた亜麻色の髪と瞳が、離れた焚き火に少しだけ照らされ光を帯びているように見える。
俺は心を決めて、今の心の内を言葉にする。
「いつか全て説明できる時が来ると思いますので、その時俺のことを、あ、それより帰ることが出来るようになった時、貴女を連れて帰りた……。いや、その時帰ろうと思うかどうかもわからないけど、その、一緒に、あの……」
あぁ、ぐだぐだ……。
心は決めたけど、頭が整理できてなかった……。
とにかく!
「あの! お、俺に、み、みそ汁! 」
ない! この時代にみそ汁ない!
「お、俺に一緒に! いや、わ、私と嫁いで! 」
一緒にどこに嫁ぐんだ!
……涙出てきた。
酷い……酷すぎる……。
「田……」
蒙琳さんが何か言おうと口を開きかける。
「ちょっと待って!」
俺は手を伸ばし蒙琳さんの言葉を止める。
そして一つ息を大きく吐いて。
大きく吸って。
「蒙琳さん。愛しています。結婚して下さい」
漸くちゃんと紡がれた言葉を受け、蒙琳さんの瞳から涙が溢れた。
焚き火の揺れる炎に、頬を濡らす涙が淡く煌めく。
そしてその煌めきを帯びた顔は最高の笑みを作り、はっきりとした声で応えてくれた。
「はい、どこまでもお側に」
蒙琳さんはそう言って、俺の胸に体を預けてきた。
◇◇◇
明朝東の空の暗闇が薄く晴れ出す頃、仮眠から目覚めた。
「もう少し明るくなれば迎えが来よう」
既に起きていた彭越から声が掛かる。
蒙琳さんはまだ横になり、眠っているようだ。
拐われてからの数日、まともに寝られていなかったのだろう。
彭越と燻る焚き火を挟んで座り、蒙琳さんを起こさぬ様に小さな声で頭を下げる。
「彭越殿、今回もお陰で助かりました。礼を言います」
彭越は低く小さく笑う。
「また儲かった。残金はまた取り立てに行くぞ」
あー……、ローンとか利かない?
「何回かに分けてとか……」
「そんな面倒なこと出来るか。気持ちよく一括で払え。まぁお前や青二才は踏み倒さんだろうから、少しは待ってやってもよい」
お得意様への配慮かな。
「ありがとうございます。まぁ貴方に借りを作るのは怖いけど、悪いことばかりじゃありませんしね」
「ほう、賊に借りといて悪くないとはな」
彭越はわざとらしく悪そうな顔を見せる。
「賊と言っても正義の盗賊の大親分、彭越殿ですからね。借金とはいえ縁が続いていくことは益があることだと思いますよ」
俺に死なれては取り立てられんと、また助けてくれるかもしれんしな。
意外と面倒見がいいんだよな。流石天下の大義賊の頭。
「はっ、都合良く考えるもんだ」
俺の強引な言葉に毒気を抜かれたように鼻で笑う。そしてまた悪そうな顔に戻り、
「娘が拐われて余裕がない時とは大違いの頭と舌の回りだな。昨日は上手く口説けたか」
お、おおぅ。
「モ、モチロン。チャント、キメマシタヨ」
「キメマシタ? あれか、『私と嫁いで!』などとのたまうのがキメマシタってことか?」
「聞いてんじゃねーか! やめて! 言わないで恥ずかしい!」
俺は昨夜の情けない求婚を思い出し、顔を覆う。
彭越の悪そうな顔がニヤリと笑う。
「カカッ、娘が起きるぞ」
大きな声を出した俺は慌てて自分の口を塞ぎ、蒙琳さんを見る。
よかった、起きなかったようだ。いや微妙に肩震えてない? 起きてんの? 蒙琳さん?
最後はちゃんと伝えられたんだからいいよね? ねぇ蒙琳さん?
……まぁ寝ていることにしよう。今起きて来られても恥ずかしさが増すだけだわ。
そんな俺の赤くなった顔を照らすように、東の空から太陽が見え始めた。
昨日と変わらず悠然と流れる濰水へと視線を移す。
岸から向かって来る幾つかの舟が見えた。
そして先頭の舟に乗った大きな体の男が手を振っている。
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