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81話

 夕日で紅く染まる濰水(いすい)

 穏やかな流れの上を二艘の舟が滑るように進む。

 その隣り合う舟の一方から、大声が響く。


田都(でんと)! お主なぜ私の側を離れた! お陰でこの様ではないか!」


 俺と同乗しているこちら側の人質、田安(でんあん)が甲高く耳に障る声で隣の舟へ叫ぶ。


 いちいちうるさい奴だなぁ、こいつ。


 田都は顔色も変えず、飄々(ひょうひょう)と、しかし隣の舟へ聞こえる声量で応える。


「あの混乱する中、指示を出し自ら迎え撃っていたのです。田安様がこの娘を放って、ご自分だけ、藪に隠れる、など見ておる余裕はありませんでしたな」


「ぐっ……」


 田都はさらに続ける。


「せめて人質と共に隠れればまた違った状況になっておったかもしれませんがな。まぁ今さら言っても詮無きこと。それよりもこの先のことを考えられよ」


「ぐぐっ……」


 田都にやり込められ、ぐうの音も出ない田安。こいつについてはわめき散らすだけの男という印象だな。


 一方の田都は。

 上司を上司と思わず独断できる決断力。個人の武でも優れ、非情だが自身達が生き残るための冷徹な指揮。


 田假(でんか)がどういう人物か分からないが老齢のため、前に出てくることは無いのだろう。


 この反抗勢力の(かなめ)は田都なんだろう。それでも田安に従っているのはその血統の正しさのためか。

 この時代の血の尊さというのは何にも代え難い。


 ◇◇◇


 田安以外が静かな中、舟は岸に着いた。


 夕日を反射し、光る鱗のような水面を挟んで対岸を見る。小さくではあるが、田横達が見守っているのが確認出来る。

 距離的には一()か、それより少し遠いくらいか。

 夜になればいくら月の明るい夜だとて対岸は見えなくなるだろう。


 舟を出してくれた船頭は俺達を降ろすと、そのまま下流の村へ帰るとのこと。

 この地の漁師らしい二人を明日の朝までここに待たせる訳もいかないし、これ以上は巻き込まれたくはないだろう。


 俺は船頭達に銭を渡す。

 事情は知らないだろうが、不穏な雰囲気は感じていたのだろう。二人は握った銭を懐に収め、早々に下流へと舟を操り去っていった。



「これで朝まで対岸には戻れぬ」


 田都が表情を変えず、ポツリと呟く。


 こいつ……不安を煽って逃げ切るための牽制か?それとも……。


 こちらとしては蒙琳(もうりん)さんを助け、あいつらがどの方向へ逃げるか確認出来たら良しか。


 即墨へ辿り着くまでに追い付いて、捕らえることが出来れば最良だが、そこまで色気は出さない方がいい。

 逃げ込む先は最終的に即墨(そくぼく)だろうから最悪確認出来なくてもいい。


 蒙琳さんと対岸へ戻ることが最重要だ。

 何とか襲われないよう、襲い難くするよう行動しよう。


「ここで交換はしない。河から離れる」


 俺は田都に宣言する。


「ほう、よいのか? 対岸が見える場所の方が安心ではないのか。朝には迎えが来るだろう。それとも危険を承知で密かに田横(でんおう)の兵が渡ってくるのか?」


 田都が嫌味に問う。


「横殿は取り決めは守るし、無駄に危険があることは部下にさせん。もうすぐ対岸は見えなくなる。その間に襲われたらここでは隠れる場所もない」


 操舵に慣れた者なら別だが、慣れない兵達に夜の河は危険だ。流されたら命を落としかねない。


「用心深いことだ。田安様を受け取れば我らも身を隠す。襲いはせん」


「信用出来るかよ」


 臨淄(りんし)での攻防でも部下の半数以上を捨て駒に使ったと聞いている。冷酷な判断をする男だ。

 夜の間に俺を殺し、蒙琳さんを再び人質にする。若しくは二人共殺して、その遺体を隠してどちらへ逃げたか報告させない。

 それだけでも俺と蒙琳さんを襲う理由になる。



 俺は人質と馬に乗るよう促す。

 田都は大人しく従い、互いの人質と二人で乗り馬を歩かせる。


(もう少しの辛抱です)


 俺は蒙琳さんに目で訴えると、蒙琳さんはしっかりと頷いてくれた。



 すでに日は落ち、辺りは夜を迎えていた。


 満月に近いのか明るく光る夜空の中、河岸を離れ暫く馬を歩かせると、閑散とした小さな木々が見えた。

 おし……、あそこにしよう。


「あの木立(こだち)で交換だ」


「よかろう」


 田都としても遺体を隠すのに丁度いいと思ったのか、少し口角を上げ、受け入れる。


 木立の入り口まで移動し、その奥へ入ろうとする田都を止める。


「待て」


 俺は一つの木を指差した。


「あんたはここで、その木に蒙琳さんを繋いでもらおう」


「何?」


 田都が訝しむ。


「俺は、そうだな……」


 林の奥、一本の木が射し込む月明かりに浮かんでいる。

 俺はその木を指し示し


「俺はあの木に田安を括る。俺が合図をしたら時計回り……じゃなかった、大きく左側を回って田安を受け取りに行け。俺は右側を回り、蒙琳さんを受け取る。馬はそれぞれ人質の側に置いてだ」


 これなら交換の瞬間に襲われることはないし、人質を無視して俺に襲ってくるにも距離があり、蒙琳さんの縄を斬って馬で逃げるか、田安の元に戻って再び人質にとることも出来る。

 短距離の足の速さなら、俺だって田都にそう劣るものじゃない。


「むぅ……」


 田都は暫く考え込み、


「まぁ、よかろう。その提案に従おう」


 田都は言われた通り、蒙琳さんを木に繋ぎ始めた。


 どうとでもなると思って、なめてるな。

 素直に従う田都から、なんとなく考えが読めた。



「すぐ助けに来ます」


 俺は今度はちゃんと言葉にして告げ、蒙琳さんはまた頷く。



「田都!早く助けに来い!すぐにこの縄をほどくのだぞ!」


 俺は空気の読めない田安の縄を引き、木立の奥へと進んだ。


 先程指し示した木に田安を繋ぐ。


 よし、いくぞ……。



「いいぞ!」


 俺は合図と同時に駆け出す。木の根に注意しながら走る。

 田都は?


 提案通り俺と対面の位置を走っているのがうっすらとわかる。


 俺はそれ以上田都を見るのを止め、走ることに集中する。

 蒙琳さんまでもう少しだ。


「蒙琳さん!」


田中(でんちゅう)様!」


 漸く届いた! 俺の手が蒙琳さんの肩に触れる。


 感動で泣きそうだが、そういうのは後だ。急がないと!

 

「馬へ!」


 俺は蒙琳さんを縛る縄を切り、馬へと乗せる。


「田都! ど、どこへ行く! おい! 待て! 置いて行くな!」


 木立の奥から喚き声が聞こえ、そちらに目を向ける。


 田都も田安の元へ辿り着いていた。

 しかし、助けを求める田安の縄だけ斬り、馬に飛び乗り、こちらへ駆け出してきた。


「そこで(しば)し待っておられよ!」


 やっぱりかよ! そう来ると思ったよ!



 俺は馬へよじ登り、蒙琳さんの前に座って手綱を弾く。


「しっかり掴まって!」


「キャッ」


 急に駆け出す馬に蒙琳さんは短く悲鳴を上げたが、すぐに俺の腰に手を回してしっかりと抱きついた。


 くそ、こんな場面じゃなかったらこの感触をしみじみ味わうのに!



 俺達を乗せた馬は先程通ってきた道を駆ける。

 猛然と追いかけてくる田都。


「田中様! 追い付かれてきております!」


 二人乗りの俺達は徐々に差を詰められている。


「もう少し……!」


 とうとう河沿いまで戻ってきた。

 田都はもうかなり近くまで迫っている。


「フハハッ、逃れられると思ったか?」


 田都の不穏な声が聞こえる距離まで来ている。

 ヤバいヤバい!!


 河沿いを下流に駆ける。




 どこだ?!


「どこだーー!」


 俺は有らん限りに大声を上げる。






「田中!」


 俺の名を呼ぶ声が微かに聞こえた。

 そしてその声の方向に明かりが浮かぶ。松明の明かりだ。


 いた! あそこだ!


「彭越殿!」


 そこにいたのは彭越とその部下達。


 俺は明かりの方へ思いっきり馬を駆けさせる。

 そしてその間を一旦駆け抜け、馬首を返して田都へと向き直った。彭越達が剣を構え、俺達を護るように広がる。



 田都は明かりが見えた時点で馬を停止させていた。そして遠目の距離を保ったまま憎々しげに叫ぶ。


「夜の河を渡らせたか! 朝まで渡らぬ取り決めはどうした!」


「お互い様だろう! 襲わぬとした取り決めはどうした!」


「くっ……」


 田都は俺の言葉に沈黙する。


「それにわしらは斉の軍ではない。ただの漁師だ。お前と取り決めを交わした覚えはない」


 彭越がニヤリと笑い、付け加える。


 ただの漁師ね……、誰も信じんだろ。


 しかし、ただではないが漁師なのは確かだ。晴れた夜なら、この程度の河は渡れると出発前に耳打ちしてくれた。

 逆に明るすぎて河沿いにいたら見付かりそうだったので、人質交換も兼ねて河から引き離したのだ。


 田都は盗賊兼漁師の存在を知らず、何より俺を侮っていたから河から離れることを了承した。




「……田中と言ったな、いつかその細首も田横の首の隣に並べてやる」


 田都はそう吐き捨て、馬を返して去っていった。馬の蹄の音は徐々に遠く離れ、やがて聞こえなくなった。


 田安を迎えに行ったかな。あいつ野犬とかに襲われてねえかな。



「つけますかい?」


「いや、止めておけ。相手は馬だ。それに本拠は分かっている。何よりわしらの仕事はその娘を助けること。もう仕舞いだ」


 部下の声に剣を収めた彭越が応えた。




 なんとか……なんとかなった。

 念のため彭越に頼んどいてよかった……。


 俺は一気に緊張が解け、馬上で大きく息を吐いた。その拍子にバランスを崩す。


「っと」


 それを後ろから支えてくれた腕。

 俺は後ろを振り返り、その人へ笑顔を向ける。



「蒙琳さん」


 蒙琳は、涙で濡れた跡がついた頬に笑みを浮かべ、


「田中様」


 俺の名を呼ぶ。



 続く言葉が出てこない。


 蒙琳さんの顔がすぐ側にある。


 見つめ合う。

 互いの顔がさらに近づく……。




「おっ、口付け? 口吸い? (ふん)?」



 彭越の部下の一人が囃し立てた。



 …………君は空気読めないって言われない?!

 ここは見て見ぬふりしてほしかった!!



「はぁぁ……とりあえず馬、降りましょうか」


 俺は盛大にため息を吐き、我に返って耳まで紅く染まった蒙琳さんに手を貸し馬から降りた。

用語説明


里 (り)

古代中国の距離の単位。一里=約400m。

現代日本のでは一里=約4km。


吻 (ふん)

接吻、キスのこと。

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