80話
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田横はすでに馬から降り、武器も戟から剣に持ち替えていた。
乱戦の中、俺達を探していたのか。
蒙琳さんに剣を向ける屈強な体格の田都。
そして田横に剣で促され、震える足で出てきたのは神経質そうな田安。
二人が率いていた集団は散り散りになり、戦闘の喧騒は徐々にだが小さくなってきている。
集団の長である田安は背中に剣を突きつけられている。大勢は決したと言ってもいいだろう。
「しばらくだな田都、蒙琳殿を解放してもらおうか」
田横の剣が首に近づき、田安はヒッと短く悲鳴を上げた。
首の隣にある刃から視線を外さず、田都に泣きすがるような声で命令する。
「と、とと都っ。おんなっ、女を離せ! 私を助けよ!」
田安の悲壮な声に田都は深く息をつき、意外な冷静さで応える。
「安様、ここで女を離せば我らは追撃され、明日にも首を臨淄に晒すことになりましょう」
「明日も糞もあるかっ! 私は今、死体にされようとしているのだぞ!」
田都の突き放したような態度が気に触ったのか田安は足を踏み鳴らし、唾を飛ばし叫ぶ。
田都はまたため息を吐き、
「まぁ落ち着かれよ。ここから交渉いたしますので」
口振りは敬っているようだが、実際は田安を随分下に見ているようだな。
田都は見下している主から田横へと視線を移し、やはり落ち着いた様子で話し始めた。
「さて、田横よ。この娘と安様を交換、ということでよいか」
その言葉に田横は迷いなく応える。
「その通りだ」
「田横様……」
その様子に蒙琳さんが消えるように呟き、蒙恬も田横を辛そうに見やる。
狄の田氏の宿敵ともいえる者達を追い詰めているにも関わらず、それを蒙琳さんを助けるために迷いなく捨てるという。
ここから追撃する機会があるが、今ほど確実に排除できる時はないだろう。
やっぱりこの男の器は大きいな。
「しかしこちらは娘を離して、即追いかけられれば交換する意味がない。そんなことになるなら、この娘を使って蒙恬とそこの細枝のような男を裏切らせた方が逃げきれそうだ」
細枝って俺のことか。
蒙琳の命が惜しければこの場で足止めしろ、と言われれば……。
斬り合いにはならんまでも、なんとか足止めするかもしれない。
「わ、私を見捨てるつもりか?!」
喚く田安を無視し、田都は続ける。
「もちろん、こちらも安様を救いたい。我らには假様もおられるがお年を召しておられる」
旧斉の王弟、田假。老齢のため恐らく本拠の即墨にいるのだろう。
この先のことを考えると田安が斉王の正統性を唱える中心になるのか。
「都……」
田安の表情が安堵に染まる。
「どうしろというのだ」
田横もまた田安を無視して問う。
「もうじき日が暮れる。その前に人質と、馬と共に河を渡らせろ。そこで交換に応じる」
田都は提案する。
「こちら側の河岸で人質を交わし、お主らだけで渡ればよかろう! 追うための舟を準備しておったらどうせ日が暮れる!」
蒙恬が反論する。
日が暮れた夜の暗闇の中、河を渡るのは相当に危険だ。
「舟を出した瞬間、矢を射掛けられるかもしれんし、無理して渡河してくるかもしれん。我らを永久に追うなと言いたいところだが、せめて夜明けまでは渡るな」
田都は河を渡った後の交換を主張し、その後の行動にも釘を刺す。
渡河同様、夜に馬を駆けさせるのも危険だが暗闇に紛れて逃れるにはもってこいか。
「船頭の他にもう一人、河を渡ってもらおう」
蒙琳さんと田都、田安とそれを連行する役の四人が河を渡る。
「その役目、俺が行こう。お主達が襲ってきても跳ね返せる」
田横が連行役を買って出る。
「駄目だ。逆にお前がその気になれば、我らを斬って娘を救えそうだからな。そうだな……その細枝の男が安様を連れて渡れ」
っ……そうだな、そんな気がしていた。
俺なら襲ってくる心配もないし、仮に襲ってきてもあしらえる。
こちら側からしても、最悪蒙琳さんだけでも逃がせば、俺に人質の価値はない。
この中で俺が一番適任だろう。
田安を解放した瞬間、斬られるかもしれない。しかし少しでも抵抗して時間を稼げれば、蒙琳さんは舟に乗り、逃げ延びることができる、か……。
命懸けか……。
いや交換の仕方によるか。そこを何とか考えれば……。
俺は渇いてひりつく喉へ唾を呑み込む。そして声が震えないよう意識しながら、慎重に声を出した。
「……行きますよ」
俺は思ったよりしっかりと響く自分の声を聞いた。
田横は突きつけた剣で田安を誘導し、俺の隣に並んだ。
「危険だぞ」
視線は田都から外さず、短く問い掛ける。
いや、問い掛けじゃないな。ただの確認だ。
俺が行かないはずがないとわかっているのだろう。
「まぁ、なんとか色々頭を捻って、やってみますよ」
その言葉への返答として、俺の胸を田横の拳が軽く叩く。
「田中様……。私は……」
蒙琳さんが泣きそうな顔で何かを言いかけた。
「もう少しの辛抱です。一緒に帰りましょう」
俺は明るい声でその言葉を掻き消す。
蒙琳さんの頬に一滴、涙が伝う。
あー、えーと…………。
「り、琳!」
慣れない呼び捨てで、蒙琳さんの名をもう一度呼ぶ。
「大丈夫、一緒に帰ろう」
蒙琳さんは少し驚き、そしてまた涙を流した。しかし涙の伝う頬を上げて微笑み、頷いてくれた。
「ちっ、話は纏まったようだな。急ぎ馬と舟と船頭を用意してもらおうか。岸まで移動するぞ」
田都の指図に俺は条件を出す。
「ではこちらの人質も縛らせて貰う。それから舟は二艘で渡る」
船上で襲い掛かられたら逃げ場がない。
「……よかろう」
「都!」
縛られることに難色を示し非難の声を上げる田安。しかし田都がそれを諌める。
「河を渡り、交換するまでの辛抱です」
田都は蒙琳さんの足を縛った縄を切る。抱えて移動する訳にはいかんしな。これで蒙琳さんを拘束する物は後ろ手に縛った縄だけだ。
田都はその縄を持ち、蒙琳さんを乱暴に立たせた。
「つっ……」
「蒙琳さん!……丁重に扱え」
「ちっ」
田都は俺の怒気を含んだ言葉に面倒そうに舌打ちをするが、何も応えず移動を始めた。
◇◇◇
太陽の底が低い山にかかる頃、二艘の船頭を乗せた舟が河岸にやって来た。
「気を付けろよ」
「田中……頼んだぞ」
田横と蒙恬の言葉に固い表情で頷く。
一艘に田都が蒙琳さんを連れて乗り込む。
俺はそれを見て、もう一艘に縛りあげた田安を押し込む。
「くっ、もっと丁重に扱え! 縄もきついぞ! 私は王族だぞ!」
やかましい。
お前は元王族で、今は人質だ。
また喚きだした田安をやはり無視して、舟は岸を離れた。
濰水は沈みゆく夕日に照らされ、美しく煌めいている。




