79話
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先程までの青空は午後の太陽が傾き、その光は日が落ちる準備に入る。
そんな夕暮れ前、田安達の集団がやって来たようだ。
幾人かが集団を外れ、先行して河の南北へ走って行った。舟か渡しを探しに行ったのだろう。
「やはり渡河はこの辺りだな」
偵察に出ていた兵の報告で田横達と進路を確認する。
俺達が潜伏している丘から近い。
集団を一度やり過ごし、舟を待っている所に奇襲を駆ける。
西からの突撃になるので、夕日を背負う形になり相手は西日を受け、俺達が見えにくいだろう。
蒙恬に学んだ兵法で考えても、天は夕刻西日を背に。地は河で退路を限定。人は数こそ劣っているがこちらは騎兵で、あちらは歩兵。
天、地、人。戦闘ならかなり有利な条件だ。
蒙琳さんをきっと助けられるはずだ。
決意が顔に出ていたのか、田横は俺の目を見て頷いた。
「行こう」
◇◇◇
俺達の目にも遠くに集団が見えてきた。
追っ手を気にしてか、歩く速度は速い。徒歩の集団の中に馬車が数台。
あの馬車のどれかに蒙琳さんがいる。
集団は濰水に阻まれその歩みを止めた。
舟を待つ束の間が休憩になるのか隊列がやや緩み、河に沿って広がる。
俺達は隠れていた丘の中腹まで静かに下る。
「突撃」
田横は手にした戟と呼ばれる槍に鎌が付いたような武器で河沿いの集団を指し、落ち着いた声で指示した。
丘を下る勢いのまま、一本の矢が解き放たれたように駆ける。
速い!
遅れまいと食らいつく。
御しきれていないが、馬自体が他の馬達に付いて駆けてくれている。
他の兵達と違い、武器を持たず両手で手綱を握りしめ、太腿を締める。片手ではバランスを保てる自信がない。
とにかく皆に付いていき。蒙琳さんを見付けて馬へ乗せる。それが田横から俺への指示だ。
「て、敵襲ー!」
集団から叫ぶ声が聞こえる。
矢は一本も飛んで来ない。所持していないのか、それとも突然のことに対応出来ていないのか。
口々に敵の襲来を叫び態勢を整えようと動いているようだが、もう間に合わない。
田横を先頭に敵兵にぶつかる。
両側から引っ張った薄い布の真ん中を、刃で切り裂くように隊列が断ち切られていく。
田横のような怪力は例外だが、鐙がなく踏ん張れないこの時代の騎馬兵は馬上で武器を振るうことは少なく、馬の突進力が一番の武器だ。
ほとんどの敵は馬の進路から転がるように逃げ、逃げ遅れた者が馬に蹴られ、踏まれ、蹴散らされていく。
その勢いは止まらない。
混乱する雑踏の中で、方向を変えながら叫ぶ。
「馬車は!」
「あそこだ!」
側にいた彭越が指差す。俺に付いてくれていたのか。
そこには二台の馬車がおり、戦闘から遠ざかろうと馬首を巡らそうとしているが、喧騒に興奮し馬は足を上げ空を掻くだけで、進もうとはしない。
「琳!」
彭越の声に一早く反応した蒙恬が馬車へと向かい、俺と彭越も続く。
「蒙琳さん!」
後方の馬車から縛られて、猿轡をされた蒙琳さんが見えた!無事だ!
一緒に乗っている者が逃げ出すのが見えた!
今なら助けられる!
その時。
先頭を駆ける蒙恬の馬がいきなり倒れ、蒙恬が地面に投げ出された。
地面を転がる蒙恬はなんとか受け身をとったように見えたが大丈夫か?
「大事ない! 先に行けい!」
すぐに上体起こし俺達に叫ぶ。頭などは打っていないようだ。
何が……。
「弓だ!」
彭越は叫び、もう一つの馬車の影から再び矢を放とうとする男へ駆け、その男を斬ろうと戟を鋭く振る。
男は間一髪の所で弓を離し、その斬撃から逃れた。
斬られた弓が宙を舞う。
「ちっ。……あちらを先に潰す!」
彭越が駆け抜ける先へ敵の小集団が待ち構えている。そのまま勢いを殺さず突っ込み、土煙に消えた。
弓を斬られた男は、いつの間にか剣を抜き、低い姿勢でこちらに駆けてくる。
ヤバい、来る!
う、馬で走っ……いやもう距離が!
剣で?! 片手で手綱、片手で剣か?! 出来るか? あいつ強そうだぞ。
逃げ………………る訳ねぇだろ! 目の前に蒙琳さんいるんだぞ!
俺は馬上でもたつきながら剣を抜き、迫る男に震える剣を向けた。
俺のその姿を見て弱そうと判断したのか、男はニヤリと嗤った。
くそっ見下しやがって! 当たってるけど!
こいつ、見たことあるぞ。
以前臨淄の商家の前で見た!
田都だ!
猛然と迫る男が田都と気付き、恐怖と怒りが入り混じる。
そんな中、田都と俺の間に小岩のような塊が躍り出て豪剣を振るう。
「蒙恬殿!」
蒙恬の大振りな剣撃を、田都は飛び退り余裕を持って躱す。
助けてくれた蒙恬をよく見れば、あちこちから血が出ている。
走っている馬から投げ出されたんだ。出血だけでなくどこか負傷しているだろう。
「田中! 行けい!」
「相手は田都です!」
田横の話ではかなりの武人だと聞いている。
しかし、蒙恬は怪我のことなど微塵も感じさせず、大声を張り上げ俺を叱咤する。
「わしを誰だと思っておる! お主がおっても足手まといだ! それより琳を!」
足手まといって。それも当たってるけど!
俺は心で悪態をつきながら頷き、剣を逆手に手綱を握る。
「ほう、お主があの蒙恬か」
対峙した田都は、そう溢しながら俺に向かって来ようとする。
「我が姪を助ける婿を追わせるか!」
蒙恬は気合いの叫びと共に剣を振り、田都を阻む。どんな気合いだよ!気が早えーよ!
「ほう、あの女はお主の姪か。ならば尚更返せんな!」
剣が鈍い金属音と共に幾度も交錯する。
二人が膠着する隙に俺は馬を駆けらせ、蒙琳さんの乗る馬車へ向かう。
馬車は未だその場から動いていない。
興奮の収まらない馬を宥めるために御者は馬に近づき、手綱を取ろうとしていたが、迫る音に気が付き俺の方へと振り返った。
御者が剣を抜こうとしたその時。
棹立ちになった馬が前足を振り下ろし、御者の背中を踏みつけた。
「ギュッ」
おかしな音を出した御者はそのまま馬に踏まれ動かない。
…………。
…………………。
か、可哀想だがこれは天の助けってやつか!
馬車には蒙琳さん一人だ!必死にもがいて助けを求めている! 今行く!
俺は馬を降り、馬車へと駆け寄る。
蒙琳さんは俺が来たのが信じれないのか首を横に振り、猿轡のされた口で何かを伝えようとしている。
「蒙琳さん! 今助ける!」
馬車に乗り込んで剣を置き、蒙琳さんの猿轡を外そうと首の後ろの結び目に手を回す。
蒙琳さんの顔を近くで見ると頬が少し赤く腫れている。
殴られたのか? 女性に、しかも抵抗出来ない状態で誰が! 百倍にして返してやる! ……田横が!
「もう大丈夫ですよ」
安心させようと意識して優しく声をかけるが、蒙琳さんはうー、うーと唸りしきりに首を振り、身体を揺らす。
ちょっ、動いたら猿轡が取れませんよ。
漸く結び目をほどけた瞬間、蒙琳さんは悲鳴に近い声で叫んだ。
「後ろ!」
その声に驚き、振り向く。そこには蒙恬と闘っていたはずの田都。
俺は咄嗟に脇に置いた剣を取る。
蒙恬は? やられたのか?!
「田横の愛人ではなかったようだが、蒙恬の親族。人質の価値は十分だ!」
言葉と共に剣が迫る。
「ぐぅっ!」
鈍い金属音が響き、手にした剣に強い衝撃が走る。
沛での教訓が活きたのか、幸運にもギリギリの所で剣で受けられた。だが体勢の悪かった俺の身体は馬車の外へ放り出されてしまった。
「田中様!!」
蒙琳さん!
地に這いつくばった俺は、蒙琳さんの呼ぶ声ですぐに起き上がり、奇跡的に離さなかった剣を握り締める。
しかし車上に立った田都は蒙琳さんに剣を向け、顔は俺に向け、言った。
「動くなよ。婿とやら」
俺はその言葉に縛られたように固まる。
田都をよく見ると表情に余裕はない。呼吸も乱れ肩が上下に揺れている。
「琳、田中!」
離れた場所から蒙恬の声が聞こえた。
横目に見ると足を引きずり左腕がダラリと下がった状態ながら、こちらへ向かっている。
斬られた様子はなく、恐らく落馬の時に痛めていたのだろう。
「剣を捨てよ。蒙恬! お前もこれ以上近づくな!」
剣の刃先が蒙琳さんに近づく。
「やめろ!」
「くっ、卑怯者が!」
俺は叫び、剣を捨てる。
蒙恬も歩みを止めた。
くそっ……くそっっ!
こんな、目の前にいるのに……!
助けれないのか? また連れ去られるのか?!
何か……。
どうにか……出来ないのか?!
田都は俺達が立ち竦む姿を見て落ち着いたのか、また嫌らしい笑みをたたえ、
「我らを追うならこの女は殺す。再会する時はこちらから出向く。この女と共にな」
そう言って辺りを見回し、大声を上げた。
「安様、いずこか! 退きますぞ! 出て来られよ!」
この近くのどこかに隠れていると推測したのだろう。主の田安の名を呼ぶ。
ガサリと音が聞こえた。
「都…………」
田都の期待通り、田安は奴の名を口にしながら近くの藪から現れた。
「探したぞ、田中」
ただし、田横の剣が背中に突きつけられた姿で。
田横、やっぱり最高だよ! あんたは!!
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