56話
陳勝と呉広が反乱を起こした大沢郷よりさらに南の地、会稽郡の下には二十六の県がおかれている。
そのうちの一つが呉である。
その呉の顔役である項梁は今日も自室で書簡を書き付けている。
カッカッと大股で規則正しい足音が廊下から響いてきた。
「叔父上、お呼びですか」
項梁に育てられた甥、項羽である。
項羽は子供の頃両親を亡くし、その後叔父である項梁に育てられた。
項羽にとっては父同然の存在だ。
「お待たせした」
男が遅れて入ったきた。
一見人の良さそうな恰幅の良い男だが、目は鋭い。
この男の名は項伯。項梁の異母兄だ。母の身分が低かった為、当主の座は項梁に譲っている。
「うむ、実は会稽の郡守に呼ばれた」
群守は郡を任された長官である。
広大で、咸陽からとおく離れたこの地では郡守は絶大な権力を持っている。
「また賦役ですか。我らは会稽までの護衛で?」
項伯が尋ねる。
項梁は顔役として人夫の徴集の手配、役人との交渉、葬儀の取り仕切り等で得た評判は、呉を超え会稽郡全体に響いていた。
そして郡守もしばしば項梁を頼り、調整を任せていた。
「いや、今回は違う」
項梁は書き物を止め、顔を上げる。
「今江水の北は反乱が起こったのを知っているか」
項羽は憮然として応える。
「当たり前ではないですか。元太子の扶蘇と、あろうことか我が祖父、項燕の名を騙り今や万を超す大軍になっておるとか」
「それに秦の地方軍も寝返り、合流しているそうで」
項伯が項羽の話を補足する。
「うむ、地方軍は現地人が多い。秦からの解放を肚の底で思っていたとしても不思議ではない」
項羽は首を傾げだが、納得がいったのかニヤリと笑い、
「会稽の郡守からの呼び出しは反乱軍に対抗するためですか」
やはり察しは悪くない。むしろ良い。
項梁は甥を見て思う。
「そうだ。反乱軍は既に、ここ江南地方の豊富な物資に目を付けているだろう。咸陽に援軍を要請しても間に合わん。それどころか援軍が送られるかも定かでない」
二世皇帝の遊興の噂は遠く離れたこの呉にまで聞こえてくる。
「郡守は官軍の他に自衛軍を編成し、反乱軍と対峙する気らしい。もしかしたらその軍をもって独立する気かもしれん。そしてわしにその募兵を任せるといってきた」
「叔父上、ではそれを機に!」
項羽は体を震わせた。まるで獰猛な獣が吠えているようだ。
「うむ、その兵をもって会稽郡を手に入れる……!」
項梁は二人の手前、冷静を装うが抑えきれず言葉に力が入った。
「しかし会稽を取った後、反乱軍をどうしますかな。秦打倒を掲げているなら敵ではありませんが」
項伯が太い腕を組み、頭を捻る。
そんな叔父に項羽は噛みつくようにいう。
「我が一族の英雄、項燕の名を語る不届き者は叩き斬る!そして我が軍に吸収してしまえば咸陽まで手が届く。そうでしょう梁叔父上」
項羽は項梁に同意を求める。
「奴等は生け贄だ。秦が最期を迎え、新たな楚が興るためのな」
滅多に笑わぬ項梁が口角を上げる。
「先に秦の官軍に当たってもらえばよい。それに会稽を取り、我らの名を聞けば何かしら接触してくるだろう。さぁ行くぞ、準備しろ」
「「はっ」」
二人は漲る活力を声にのせ揖礼し、足早に部屋を出ていった。
残った項梁はそれを見届け、一人呟く。
「秦の息を根を止めるのは我ら楚だ。例え、わしが半ばで倒れようともあやつがやる。必ず……」
物静かで風雅に見える項梁も楚の男である。その肚の底には甥の項羽にも劣らぬ激しさを持っている。
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「おお、項梁よく来た。待っておったぞ」
江南の野性的な雰囲気とは対照的な、洗練された中央の風情を持つ郡守は項梁を歓待する。
「はっ、この度の難、この項梁にお任せ下さい」
項梁は手を組み、頭を下げる。
郡守は、野卑な者が多いこの江南の地で、貴族的で知性の香りがするこの項梁をいたく気に入っていた。
「うむ、この会稽近隣の民は気性が荒いものが多い。私の命でも気に入らねば従わん。やはりお前のような地場の者が間に入り、調整をした方が効率がよい」
項梁は頭を下げたまま、
「仰る通りでございます。私は顔役としての伝が多くございますし、また甥の項羽も武辺者として若者には人気がございます。募兵をすれば多くの者が参加するでしょう」
郡守は項梁の手を取り頭を上げさせ、
「うむ、頼む。反乱軍に煽られて、この会稽でも暴動がいつ起こるやもしれん。中央の援護は当てにならん。なら、一層のこと……いや先走った、忘れてくれ」
郡守の野心が漏れる。
項梁はそれを心の中で笑う。
「項梁よ、軍編成の暁には其方と桓楚を将としようと考えておる。しかし桓楚の居所が掴めぬ、どこに居るか知らぬか」
桓楚はこの辺り一体の無頼の頭で、官吏に追われることが多くその居場所を知る者は少ない。
郡守の言葉を聞き、項梁の頭の中がカッと燃え上がった。
(わしとならず者が同等だと!)
この郡守はそれなりに有能である。
項梁は募兵をしながら様子を見て、郡守の官を譲るよう説得、あるいは脅迫し、そのまま部下としようと考えていた。
(もういい。こやつはいらん)
燃えた感情が冷めきった。
彼は、そのような心の機微をまるで感じさせず、変わらぬ表情で語る。
「私は桓楚殿の居場所を存じませんが、我が甥は無頼にも顔が聞きます。何か知っておるかもしれません。別室に護衛として控えております。お呼びいたしましょう」
「おお、そうか」
郡守の承諾に項梁は一礼し、部屋を後にした。
用語説明
江水 (こうすい)
長江のこと。
郡守 (ぐんしゅ)
県の上に置かれている行政単位の郡の長官。
項伯について
項梁の兄、弟、従兄弟と諸説ありますが、伯という字が長男によく使われていた事もあり、異母兄という設定にしました。
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